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【現実の厳しさ】
男という生き物は、子供も大人も関係なく単純で、自分に都合よく解釈するように出来ているのだ――と、僕はこの十歳の夏に悟ってしまった。
まったくの別世界、このまま生きていけばきっと経験しようとは自分から思うことなどないダンスが待ち構えている。
知らない世界に入り込む緊張や不安より、そのダンスを通して舞と親しくなれるきっかけだけしか頭の中にない。
本当に単純で無知で愚か……男とは歳を重ねても成長しない生き物なのだ。
翌日の足取りはとても軽く、それはもう追い風に押されて歩いているようなもので、不思議と心も軽く加賀家の別荘へと向かう。
高台にある別荘に向かうには、ちょっとした坂道をのぼらなくてはならないが、夏の日差しを遮るものがないこの道を進むのは、元気いっぱい、体力が有り余っている子供でもキツイと感じる苦労がある。
その苦労も苦労のうちに入らない、キツイという言葉の意味や感覚さえも吹っ飛んでしまっている僕は、ひとりで勝手に舞い上がっていた。
女の子のダンスの相手。
女の子と手が握れる。
もっと近づける――と、単純バカもひとり歩きするほどに浮かれていた。
人生最大のパラダイス、大幸運到来と自分自身を褒めたたえるほどに。
――が、世の中そんなうまい話はないということも、この十歳で思い知ることになる。
じいちゃんが口癖のように言っていたことが、僕の身の上に起こったからだ。
裏口から台所に向かい、野菜を置くと鈴木さんが顔を出す。
「やあ、今日もご苦労様。そういえばお嬢様のお相手をすることになったそうだね。旦那様から話は聞いている。こちらへ……」
台所を出ていく鈴木さんの後を追いかけるよう小走りでついていく。
気持ちはもう天にも昇るような幸福感と、これから顔を合わせる舞お嬢様への第一印象をよくしたく、何度も笑顔をつくってみる。
そうこうしているとすぐに目的の場所についてしまい、部屋へと案内されると、既に旦那様とお嬢様が僕の来るのを待っていたのだった。
庶民の僕が旦那様とお嬢様をお待たせするという、大胆なことをしでかしているのだが、子供の僕に相手を待たせることの非礼度合いがわかっていない。
なぜなら、それらすべてすっ飛ばして、お嬢様との接点をつくりより仲良くなること以外、頭の中にないからだ。
旦那様はそんな僕にお叱りのひと言もなく、さっそく本題に入る。
「はじめに。私のことは旦那様ではなく、先生。舞のこともお嬢様ではなく舞と呼ぶように」
それが最初の約束だった。
旦那様を先生と呼ぶのはいい。
だけど、お嬢様を舞と呼ぶのには、いくら旦那様の命令でもできない。
女の子に免疫がないのもそうだが、いくら心の中では舞と呼べていたとしても、本人を目の前にして呼べるかといえば、それはとても大きなハードルでしかない。
すると気を利かせたのか、お嬢様がいくらなんでも呼び捨てはイヤと言い出し、結局舞ちゃんに落ち着くことになった。
それでも僕からしたらとても大きな進展である。
そんな進展に浮かれていた僕。
だが、浮かれていられたのもここまでだった。
はじめようか――旦那様……もとい先生のひと言で、舞ちゃんの表情と彼女を取り巻く空気が変わる。
まずはホールドという、女の子との組み方から教えてもらう。
身長差は理想的らしいのだが、姿勢が悪いと散々激が飛んでくる。
先生に正しい姿勢の形をつくってみらい、背筋が曲がらないよう手で押され、まて腹筋に力を入れるようにと軽くそちらも押される。
ふだん使わない筋肉を酷使しているからか、疲労は半端なく襲ってくるし、ただ姿勢を正しているだけなのに汗が止まらない。
冷や汗なのか、それとも頑張りからくる汗なのか。
そんなもの、子供の僕にでも十分わかっていた……完全な冷や汗であることを。
たったひとつ、組むという初歩的なことができなくて一日が終わろうとしていた。
「お爺様。無理です。こんなことで躓いてしまっては、時間の無駄だと思うの。そもそも、この方にやる気があるのかが問題だわ」
八歳の女の子にしては、根気よく僕に付き合ってくれたと思う。
だけどさすがにそれだけで時間を取られてしまっていると、愚痴のひとつも出るというもの。
「ごめんなさい」
僕にはそれだけしか言うことができなかった。
「いいえ。そんな言葉を聞きたくて愚痴を口にしたわけじゃないわ。違うでしょう? もっと違う言葉を私は聞きたいの」
八歳の女の子に小言を言われる。
しかも言っていることがとても八歳の女の子の言葉とは思えない。
目の前にいる子は小さな女の子であるという認識がそもそも間近っているのかもしれない。
彼女にとってダンスはただの遊びの延長ではなく、ひとつひとつが本気なのだ。
僕はこの十年、これぼとまでになにかに打ち込んだことがあるだろうか。
父親みたいにはなりたくないと思いながら、ではどんなことをしたいのかを聞かれても答えることはできない。
毎日代わり映えのない生活と思いながら、それを変えようと努力しただろうか。
なにかを見つけ挑もうと思っただろうか。
僕はまだ十歳の子供だけど、男としてのプライドというものは、この時の僕にだってあった。
だから次にいう言葉は――うん、あれしかないじゃん。
絶対にあきらめない、そして彼女に恥をかかせることなく、そしてガッカリさせないためにも、言うべき言葉はあれしかない。
「がんばります。明日には絶対次に進めるよう、がんばります」
という言葉しか、思いつかなかった。
がんばるなんてありきたりで、それ以外の言葉は思いつかない。
だけどありきたりでも、それが本気だってことは目の前の僕を見てくれればわかると思う。
先生の補助がなくたって、彼女の返答を待つくらいの間、基本姿勢を保ってみせる。
そしてこの言葉が当たっていたみたいだ。
舞ちゃんの顔が満足そうに笑う。
僕と違って、やりたいことがしっかりとある子というのは、とてもたくましく大きく見えるものなんだと、子供心に思った。
旦那様――ああ、今は先生。
その先生が言うには、相手との信頼関係がいいダンスを見せるのだと言う。
僕はあと少ししたら家に帰らないと、夕飯の時間に間に合わない。
だけど少しの時間も無駄にしたくはない、そんなやる気というか引き受けた責任みたいなのが、僕に生まれつつあった。
単に女の子と――という安易な考えではなく……
その少しの時間を、ダンスとは――という基本的なことを、舞ちゃんから教えてもらうことになった。
「ダンス、えっと私たちが今やっているのは、社交ダンスといって、紳士淑女のたしなみのひとつなのよ。本当は競技ダンスというのをやりたいのだけど、その域に行くにはまだまだなの」
こんな出だしから始まった。
――っていうか、紳士淑女って? 競技ダンスって?
今やっている社交ダンスとなにが違うの?
そんな僕の疑問は素通りで、話は次へと進んでいく。
真剣なまなざし、熱い口調、それだけで彼女がどれくらい社交ダンスを好きでいるのかがわかる。
これがわからなきゃ、「おまえ、あの子のどこみてんだよ!」てツッコミ入れてるくらいだ。
それくらい向き合っていなくても少し見ただけでわかるくらいの熱意オーラが漂っていた。
「社交ダンスにはいろいろな種目があるのね。私たちが覚えるのは、その中のひとつ『ワルツ』という種目。えっと、学校でフォークダンスとかしない? それを少し難しくしたようなものなんだけど、わかる?」
フォークダンス!!
それなら僕でもわかる!
唯一正々堂々と女の子と手を繋げる、とってもありがたい運動会の種目――という記憶しかない僕なのだが……、それを少し難しくと言われても、はて? どこをどう難しくするのだろうかとピンとこない。
「フォークダンスと違うのはね、男性が女性をいつもフォローしなくてはいけないってことなの。あ、フォローというのはリードってことね。健くんが私をリードするの、わかる?」
「はあ……――えっ? 僕が、舞ちゃんを? リードって、だって、僕は初心者だよ?」
「そういうの、関係ないの、この世界では。紳士淑女のダンスなのだもの、紳士は凛々しく華麗に、そしてスマートに女性をエスコートしてリードするの。はじめてでもそうでなくても関係ないのよ。はじめてだからってことで避けてはいけないことなの。それを健くんにお願いしたいの。だから、本当にがんばって。私に、恥をかかせないでほしいの。女性に恥をかかせることは、男性、紳士にとってタブーなことだっておじい様が仰ってたわ。私が子供だからとか、そういうのも関係ないの。それとも、健くんにとって私は魅力がないかしら? やはり、子供っぽい?」
そんなことはない!
舞ちゃんはそこらの八歳の女の子より女性的で魅力がある。
そもそも僕は舞ちゃんと親しくなりたかったのだから、魅力がないなんて思うはず見ない。
だけど女っけないところで過ごすこと十年、さらに身近な男女は両親で、その両親を見ている限り、父親が母親をエスコートしたりリードしているような素振りはまったくない。
どちらかといえば、妻にいいくるめられる夫のような、父親の威厳があるかと聞かれたら答えにちょっと困る、そんな関係しか知らない。
紳士っぽく振舞うにはどうしたらいいのかがまったくわからない。
それでも僕は男だから、気になる女の子に早々と白旗を掲げる気にはなれない。
ここはなにがなんでも踏ん張るところだと思ったから、
「ええっと、がんばります。その、僕なりに」
と、答えるしかなかった。
ちょっと前まではあったやる気が失せていくような、社交ダンスという存在なのだけど、完全に失せてしまっているわけでもない。
やる気は失速しても男として踏ん張りたい気持ちが強くなっていく。
だって、舞ちゃんがとてもやる気充分で、とても楽しそうで。
やはり男として、気になる女の子の笑う顔や嬉しい顔を見るのは、自分が嬉しい。
だったら、がんばるしかない。
凡人の僕に出来る最大なことは、がんばるという行動だけだったから。
「健くんなりにがんばるのは当然のことよ? そうしていただけるととても私は嬉しいわ」
僕の返答にホッとしたような柔らかい笑みを浮かべてくれている。
だけどその笑みはすぐに真顔へと戻ってしまった。
「『ワルツ』には二種類あってね、ひとつはゆっくりとしたテンポのスローワルツ。もうひとつは早いテンポのウィンナーワルツ。私たちが踊るのは、スローワルツ。ゆっくりなテンポの方が難しいのよ。ステップを間違えたりテンポがズレたりしたら、すぐにバレてしまうから」
――と、こんな話をされても僕にはさっぱりだ。
ただわかったことは、難しいものを覚えなくてはならないということ。
話を聞いているだけで、先が真っ暗な感じがしてならない。
「とにかく、ステップを完璧に覚えるが先かもしれないわね。リズムはそのあとでいいと思うの。足元をみないで踊ることはとても難しいわ。私もね、はじめから上手くできていたわけじゃないもの。はじめての健くんにとても難しいことをお願いしているということもわかっているの。それでも、今の私には健くんに賭けるしかないの……それてって迷惑かしら?」
「そんなことない、迷惑なんて、ぜんぜん思ってないから。というか、僕が足を引っ張っているわけだし」
これは本気マックスでがんばらなくちゃいけないんだという圧がヒシヒシと伝わってきた。
それでも憧れの女の子と話すことは楽しい。
女の子と話す時間は、瞬く間に過ぎていき――じいちゃんが迎えに来た。
先生と少し話しをした後で、僕に近づいてくる。
「舞お嬢さん。こんな田舎男で、平気ですか?」
うわっ、じいちゃん、それを僕の前で聞いちゃう?
止めるより先にじいちゃんの質問が言い終わってしまい、僕はチラリと舞ちゃんの方をみた。
不甲斐ない田舎の子供の僕だけど、なんとなく会話からは好意的なものを得られているように感じている。
だから凹むようなことは言われないと思うけど、心臓のバクバク感は半端なかった。
「三浦のお爺様。私、嫌いな方とはいくらお爺様の頼みでも聞かないわ」
「そうですか。孫がいろいろとご迷惑かけると思いますが、よろしくお願いします。多少厳しくしても大丈夫ですから。へこたれないというのが唯一の特技といいましょうか。ただ、見切りも大切かと思います。ダメな時はばっさり切ってください」
自分の孫をボロクソに言ってくれた。
舞ちゃんの返答に心躍ったのも一瞬のこと、これこそまさに天国と地獄を体感したってことだろう。
その帰り道。
「健、このことは、とうちゃんとかあちゃんには言っていない。これはじいちゃんと健の約束と秘密だ」
「うん。じいちゃんと旦那様が親しいから――だろ?」
「ああ、わしと加賀雄三は子供の頃からの付き合いでね。雄三さんがああいう性格でなければ、小間使いの子として相手にもされなかっただろう」
「小間使い?」
「そうだ。じいちゃんのかあちゃんが、雄三さんの父上の代に小間使いとして屋敷に入ってね。――ああ、まぁ、そんな話はいいじゃないか。とにかく、お嬢さんに恥を欠かせちゃいかん。立場的、健はどこまで理解しているかわからないが、お嬢様とは身分が違う。そういった立場的にも男としても、お嬢様に恥をかかせるようなこをしてはいけない。いいな?」
じいちゃんの頃は身分て本当に大事だったんだと思う。
それに比べたら、今の身分差ってどうなんだろう?
でも、一応僕の家は加賀家に仕えているようなものだし、使用人と雇い主の差くらいは僕にだってわかる。
それよりも、やはり男として舞ちゃんに恥をかかせるようなことだけはしたくない。
じいちゃんに言われなくてもね!
「わかってらい。田舎の子供だって、都会っ子には負けないってとこ、見せてやる」
「――で、タケ。旦那様――雄三さんに、何を頼まれたのか、意味を知っているのか?」
じいちゃんのこの質問、僕は本当の意味をまだ知らなかった。
舞お嬢さんのダンスの練習相手。
それしか旦那様に言われてはいない。
まさか……裏で、あんな大胆なことが進んでいたなんて――
じいちゃんとふたりだけの約束と秘密のわけも、本当の狙いを知った時に意味を知る。
そりゃそうだ。
こんなこと、とうちゃんやかあちゃんには言えない。
言ったら、恥じかくだけだ……やめとけ――と、言われて終わりだ。
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