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2.聖処女
夢を見ていた。
オレはゆらゆら揺れるロバの上に座っており、傍らを歩く肩のがっしりした男がロバの手綱を握っている。
――もうすぐ着くから。
――小さいけど、田舎だけど、俺の故郷の町だから、いい町だよ。一緒にがんばっていこうな。
ハイ、と小さくオレの口が動いた。はい、喜んで。あなたとふたりでこの子を守ってまいります。
そのとき、腹に痛みが走った。オレは自らの腹が膨らんでいるのを知る。誰かの手がいとおしげに臨月の腹をなでた。それはオレ自身の手だった。
白くて細い、オレの手だった。
「なにが、どうなってるんだ……」
つぶやいて、オレは急速に意識が覚醒するのを知った。もうすぐこの夢は終わる。
――ずっと一緒だから。
男が優しく笑いながら手を握ってきた。あったかい手。あったかい、心。
「おまえ、誰だよ……」
自分の言葉で、オレは目覚めた。白い天井を見上げていた。視線を動かすと白い壁の部屋で、かすかに薬品の匂いがする。
カワリツの、学校の保健室だった。
「やっと目が覚めたお?」
あの悪霊が、ジブリールがオレをのぞきこんできた。
「どうなってんだ、オレはどうしてここに」
上体を起こして言いかけて、気絶する寸前のおぞましい現実を思い出す。おそるおそる下を見る。白いシャツを押し上げる、それなりの胸。オレは白いシャツに紺のスカートを身につけていた。カワリツの、見慣れた女子の制服だ。ああもう、いますぐ死にたい。
「あのまま路上にいたら危ないから、移動したんだお」
気軽にジブリールはベッドに腰かけて話しはじめる。
「まさか貧血で倒れるとは思わなかったんだお。生理が重いみたいだお」
「生理……」
死にたい。マジ、いま死にたい気分だった。
ジブリールは一方的に話を進める。笑顔で請け合う。
「ダイジョブ、みんな慣れるお? 女の子も初潮のときは戸惑うんだお。慣れれば、ちゃんと子どもを産めるようになるお」
「――……オレが? 子どもを?」
ああホント、もうマジに、
「死にたい、てか、おまえが死ね!」
オレは天使の首をつかんでガクガク揺さぶった。
「早く元に戻せ! 呪文でも魔法でもいいから、男にしろ! じゃないと殺すぞ」
「違うお、本来の姿に、元に戻っただけだお」
思いがけない力強さで、ジブリールは首を絞めていたオレの腕をなんなく離した。教師のように指を回してオレのふくらんだ胸を指さす。
「キミはホントは女の子で生まれるはずだったんだお? 聖なる処女になるはずだったんだお。けど、ちょっとした間違いで染色体が欠けちゃったんだお。ジブリールはそれを治しただけだお。いまのキミが運命に定められた本物のキミだお」
「オレの本来の性別が女だって……」
十五年間、男として生きていたオレの人生はなんだったんだ。いままでかろうじて一貫性を保持していた自我がもう、皿に落とされたばかりのプリンのように揺れている。絶望で目の前が暗くなるってこういうことか。
「……いや、いや、いやいやいやいや!」
負けるな、戦え。今この瞬間、この自称天使の言うことに「ウン」と言ってしまったら、それこそすべてが終わる。灰色の勉強生活も、将来のドリトル先生も、なにもかもが瓦解して、オレは出産し、子育てする羽目になる。
そのがけっぷちのキワッキワで、オレの自我は全力で踏みとどまった。
「本来が女だったとしても、もう男として生きてきたんだ。これからも男として生きていくんだよ! 第一、おまえはオレが純愛中だって言ってたじゃねえか。だったら、男としての純愛を応援しろよ! 自分の言動に責任を持て。オレは女が好きなんだ!」
「うーん、困ったんだお。たしかに純愛レーダーには男として女の子に好意を抱いているっていう反応が出てたんだお。でも、救世主を産んでもらわないと、ジブリール怒られちゃうんだお」
「誰に怒られるんだよ」
「ボスだお」
ジブリールはシーツの上に「の」の字を大量に書く。
「ボスはあ、カッコよくてえ、渋くてえ、なんでもできるんだお。でもあえて何もしないで人間を見守ってるんだお。人間の勇気と正義感を信じてるんだお。ジブリールはボスにお仕えするのが、生まれたときからの使命なんだお」
「そのカッコいいボスがなんでおまえを怒るんだよ。人間の好きなようにさせてるんだろ。だったらオレの好きなようにやらせろ」
「ジブリール、ちょっと間違っちゃったんだお」
天使は居心地悪そうに、左右の人差し指の先をあわせて、モジモジする。
「ホントにちょっとだけだお? ちょっと、聖処女の染色体を決めるときに、クシャミしちゃっただけだお? そしたら手がすべって、染色体が」
「オレの性別を決めたのはてめえか!」
すべての元凶はやっぱり、この頭が悪そうな自称天使だったのだ。オレは両手の拳骨で天使の金色の頭を挟んでグリグリした。ジブリールがわめく。
「でも、でも! みんな許してくれたお。みんな笑って、たいしたことないって。いつかそっと治せばいいから、ナイショ、ナイショにしてくれるって」
オレは絶叫する。
「たいしたことなくねえよ! 大問題じゃねえか」
「ウリエルだけは怒ってたけど。男になっちゃったら男の運命が与えられるべきだって、言い張って、だから今まで性別を変えることができなかったんだお。いまはウリエルが病気で弱ってるし、なにより純愛中なら、魂は告命天使のジブリールの支配下に入るから、ジブリールのステッキで治すことが」
「おまえの周りでまともなのは、そのウリエルってやつだけか?! そいつが寝込んでるからその隙にオレを変えようとしたんだな?! さっさとオレを男に戻せ」
「いやだお、ボスが決めたとおりに運命の男性と結ばれて、救世主を産んでもらうんだお」
オレはベッドの上であぐらをかき、天使の矛盾を糾弾する。
「じゃあ、オレの純愛の応援はしねえのかよ、純愛をかなえさせるのがおまえじゃねえのか、無責任だな」
「……ジブリール、困ったんだお」
天使は爆乳の前で腕組みする。眉間に皺を寄せた。
「ジブリールは愛の天使、純愛を応援するのが喜びなんだお」
オレは容赦なく攻め立てる。
「オレが女なら、純愛はかなわない。オレが男なら、救世は無理。どっちにしても破滅なら、オレの好きなほうにしろ! さっさと男に戻せ」
「いいことを考えついたお!」
ぱっとジブリールの表情が明るくなった。おもむろに胸の谷間からあのステッキを取り出す。
「純愛の相手を変えればいいんだお! 男性と純愛するように運命を改造すればいいんだお」
「相手を変えるなんて純愛じゃねえだろ。男と純愛なんて冗談じゃねえ!」
オレはステッキの忌まわしい力を思い出してベッドから飛び降りる。が、ジブリールの声はもう呪文を詠唱し始めていた。
「リリララルルラ、誰もが嶋本静流に恋しちゃうようになーれ♥」
そのとき、前触れなく保健室のドアが開いた。
「あ」
オレの口から間の抜けた声が漏れた。
悪魔のような天使がかざしたステッキから降り注ぐ光を、
オレの親友の平岡と、
オレが本当にほんのり淡く、愛情と言うほどでもないけど、憬れっていうか、「ああ、いいなあ」と想ってた保健委員の水野(みずの)と、
担任でスタイルよくて美人で有名な博美(ひろみ)先生が、
まともに浴びた。三人とも、背筋に電流が走ったように固まる。
「ああああああ」
オレはこの先の運命を予測して、リノリウムの冷たい床にへたりこんだ。
純愛をかなえるジブリールの力。性別を変えるほどの力。
もう、すべてが手遅れなのか……。
***
「っていう、夢を見たんだよ。ちょっと変かな」
平岡が屋上で笑いながら言った。オレは「ははは」と声を合わせながら冷や汗をかく。
あれから。保健室の入り口で三人は白目を剥いて固まり(運命を書き換えるにはちょっと時間がかかるんだお♥)、その間にオレは、勝ち誇って油断したジブリールからあのステッキを奪い取ることに成功した。
「折るぞ、この杖、もうそれでいいな!」
天使は拳を振り回してオレを制止しようとする。
「ダメー、折っちゃダメー! ジブリール、それがないと困るんだおっ」
「困ってるのはこっちだっつの。おまえの迷惑なんか知るか」
てめえ、ある日突然、強引にオレになにしてくれたと思ってんだ。人を性転換させておいて「困る」なんてセリフ、ふざけんな。
天使は必死に暴れる。
「その杖はジブリールの力の塊なんだお! ウリエルが作ってくれたんだお。ジブリールの力を操作するコントローラーはそれしかないんだお」
「コントローラーだと?! いいこと聞いた!」
オレはステッキをかざし、あのおぞましい呪文を唱えた。
「リリララルルラ、オレは男の子に、なーれ!」
ぱあ、とステッキの先端から白い光が射し、
「やった、戻ったっ」
スカート姿が男子の制服に戻る。声が変わった。視線の高さが変わった。念のため、間違いなく性別が戻ってるか、そっと前を確認し、次の瞬間、
「てやっ!」
オレは膝でステッキを真っ二つに折った。折れたステッキは空気に溶けこんで消滅した。こんな危険物、こんな頭のおかしい天使に持たせておけるか。
「いやぁああ、えーん、ウリエルに怒られるんだお」
天使は泣き崩れる。ざまあみろ。今日目覚めて以来、初めて胸がスカッとした。ああいい気分だ。ちょっとなにか忘れてるような気もするが、かまうもんか。
「あれ、嶋本じゃないか」
瞬きして、平岡が言った。オレを見て、どこかまぶしげに目を細める。
その途端、オレは自分が犯した最大のミスを悟った。
「しまったああああ」
このクソ天使の恋愛呪文が三人にかかったままだった。
――リリララルルラ、誰もが嶋本静流に恋しちゃうようになーれ♥
もうステッキはない、ジブリールの力を操作することはできない。
「心配していたんだ、朝礼にいなかったから。家に電話したらお母さんは学校へ行ったって言うし。やっぱり保健室で寝ていたんだな」
体調は大丈夫か、と平岡が問いかけてくる。あわせるように、
「どこか悪いの?」
「痛いところはない?」
なぜか頬をほんのりと染めて水野と博美先生も尋ねてくる。
「た、体調は大丈夫ですよ」
オレは幼子のように泣きじゃくるジブリールが三人に見えるのではないかと危惧したが、どうやらオレにしか見えないらしい。そういや、朝の逃走中も、ジブリールをよけようとしたのはオレだけだった。便利な設定を安易に使いやがって。
「逆に、三人は大丈夫なのか? なんだか顔色がすこし赤いけど」
「そうかな、赤いかな」
「き、気にしないで」
「なんでもないわよ」
平岡、水野、博美先生はそれぞれ答えるとオレと視線を合わせようとせず、天井や壁を眺める。ヤバイ、完璧に恋愛中だ。
てか、ジブリールの表現によれば「純愛中」だ。
場をとりつくろって教室に戻っても、三人の視線がオレの背中に強烈に突き刺さるのを感じた。
そして昼食時、屋上に話は戻る。平岡は語る。
「なんか、オレさ、今日、変な夢見たんだよ。すごいかわいい奥さんと旅行してる夢。子どもがもうすぐ産まれそうでさ、変だけど、嬉しくてたまらない夢なんだ」
「…………へー…………」
あの、その夢、なんだか、既視感があるような……。
「ウリエルは仕事キッチリなんだお♥ ちゃんと運命は動いていたんだお」
なれなれしく、オレの肩に肩車しているジブリールが得意げに言った。
「キミと運命の男性はもう出会っていたんだお♥」
……マジか。信じられない。てか、信じたくない。さっきまでは清い友情だったのに。誰にでも誇れる友達だったのに。
いまはもう友情ではなく、「純愛」になってしまっている。オレの頭に爆乳を載せて、ケロっと泣き止んだ天使が語る。
「ウリエルはキミが男の子だから、運命の人は友達になるように修正したんだお。本当は結ばれるはずだったんだお。いまはキミに純愛中だお♥」
「……」
オレは平岡と視線を合わせることができず、サンドウィッチをひたすら咀嚼する。なんだ、このサンドウィッチ、紙みてえな味だな。こんなもん、商品として売っていいのかよ。
……違うよな、この味は、サンドウィッチのせいじゃねえよな。畜生。
オレは目が潤むのを意識した。なんでこんなことになるんだよ。昨日まではドリトル先生目指して一心不乱に勉強して、それだけで充実した毎日だったのに、このアホ天使が変な夢見せて、変な呪文唱えたせいで、なにもかもがグチャグチャだよ。
「やっぱ気分悪いのか、嶋本」
心配そうに平岡が表情を曇らせる。その気遣いには一点の非もない。こいつは、なにも悪いことはしていない。こいつは悪くないんだ。こいつの中の感情が変わってしまったんだとしても、オレは、こいつの友達でいたい。
一番の、親友でありたい。
「なんでもねえよ、ちょっとこのサンドウィッチがハズレだっただけだ」
「ツナサンド、好きじゃなかったっけ」
「いやもう、嫌いだな。駄目だなー、オレは。好き嫌い多くて。ははは」
目元を腕で隠して、オレは膝の上に顔を伏せる。ぐっと涙をこらえた。何よりもオレを案じるようになってしまったこいつの前では、もう泣けない。
「ハムサンドにすりゃよかったよ」
笑いを作って話しかけると、平岡はすこしだけ憂愁を解く。
「そっか。明日はハムサンドにしろよ」
「うん、そうするわ」
もう二度と、ツナサンドは食べない。オレは心に誓った。
平岡は剣道部だが、オレは帰宅部なので(塾と自習がある)、終礼とともに別れた。帰り支度をして靴箱で靴を出してたオレに、
「嶋本、ちょっといいかな」
やっぱり鞄を手にした水野が靴箱の角から現れ、話しかけてきた。このタイミング、オレを待っていたんだろう。相変わらず肩車状態で頭上で爆乳を揺らすクソ天使を落とそうとするのに必死で、声をかけられるまで気づかなかった。
「どうかした?」
オレは平常を装って会話を続ける。いいなと想っていた女子から話しかけられる。昨日までのオレなら、それだけで「今日はいい日だった」と思って夜、気分よく眠れただろうが、水野のこの精神状態が水野本人の意志ではなく、魔法のステッキのせいだと知っている以上、嬉しい気持ちになれるはずない。ある意味、これは洗脳なのだ。いや、『純愛』である分、単なる洗脳よりもタチが悪い。
「今朝、調子が悪くて保健室にいたでしょ。大丈夫かなと思って。ほら、わたし、一応、保健委員だし」
水野は頬をかすかに上気させて言った。そう、水野の気持ちは本当に純粋な心配と気遣いと善意と好意だ。だからよけいに、
「平気だよ、なんか迷惑かけちゃって悪かったな。ごめん」
こうして普通の同級生を装って、限界をちゃんとわきまえるようにして期待を持たせるようなことは言えない。冷たくせざるをえない。応えるわけにはいかないからだ。だってこれは水野の本心じゃない。それにつけこむようなことはできない。
好きな女子に自らあえて距離を置く。そんなの単なる拷問だ。
「じゃあ、オレ、塾があるから。水野も早く帰れよ」
「……うん、また明日ね」
水野の瞳が悲しげに潤むのを見てしまうと、二重の自己嫌悪でいたたまれなくなる。なにがどうしてこうなった。いや、わかってるけど、わかりたくない。なにが悲しくてこんなマゾヒスティックなことをしなきゃならないのか。
――水野には自覚がない。
――つけこんでしまえ。
オレの右耳の脇から悪魔の囁きが聞こえる。左の耳には天使の誘惑が響く。
――だって純愛だお?
――人類の純愛は本当はみんなジブリールの力なんだお。ちょっと方向がズレただけだお。
――悪いことなんてひとつもないんだお?
――結ばれて幸せになるべきなんだお♥
違う!
オレはガン、と靴箱に額を打ちつけた。落ち着けオレ、どう考えても、水野の運命の相手はオレじゃなかった。今朝、起床するまでは水野とラブラブになるという将来を考えたことがなかったわけじゃない。勉強でふらふらになっていたときとか、将来、獣医になれるか不安でひとり眠れない夜とか、水野の笑顔を浮かべて目を閉じたことがあった。
でも、こんなのを望んでいたんじゃない。
こんな、ゲームの攻略でもするような、安易で自分に都合のいい関係を求めていたんじゃない。
ただ、ありのままのオレを好きになってもらえたら、と想っていただけだ。その可能性がないことは自分で一番よくわかっていた。水野が本当は、
「別のやつを見ていたことくらい……」
オレは知っていた。それをねじ曲げて、いま、自分に都合がいいからといって水野の手をとることはできない。好きだから、好きだからこそ、この歪みを絶対に肯定できない。
水野のために。オレの中の気持ちを、言い訳にしないために。
「どうしたの、なんだか今日は嶋本っぽくないね」
オレが急に靴箱に頭をぶつけてもたれて目を閉じたので、水野が驚いてハンカチを取り出した。
「傷ができて血が滲んでるよ」
背伸びして、白いハンカチを惜しげもなくオレの額に当てる。オレは目を閉じたまま動けない。水野の好意。ずっと夢見ていた気持ち。欲しくてほしくてたまらなかった想い。
でも、受け取ることはできない。
オレはそっけなく、水野を押しのけた。
「じゃ、オレ、帰るから」
「あ、うん、またね」
水野の指が汚れたハンカチを握り締める。大切そうに。その仕草、その好意、そのすべてが、オレを傷つけた。オレは乱暴に歩き出して、鞄を背負いなおして、あくびするふりをして涙を押し殺した。
平岡、水野。
畜生、なんでこんなことになっちまったんだよ!
「ウリエルにステッキ作ってくれるように頼むが一番早いお」
塾から帰宅後、オレの学習机に足を組んで座り、ナース服の裾から黒のパンティをのぞかせながら、悪霊が言った。聞き覚えがある名前に情報を確認する。
「ウリエル? たしかおまえの周囲で唯一、まともなことを言ったやつだったな」
「ウリエルも大天使だお。智天使(ケルブ)のジブリールのほうが偉いけど♥」
爆乳が誇らしげに突き出されるが、邪魔なだけだ。オレはそっけなく顔をそらし、
「そいつと連絡取れるのか」
と核心に踏みこむ。とたんに、ウリエルより偉い天使はうなだれた。
「無理だお。ウリエルはいまインフルエンザにかかって高熱が出てるお。ラファエルの診断じゃ悪性の香港B型だお。だから権能(けんのう)――天使固有の力――を発揮することができないお。それに、ステッキ作ってって頼むと、ステッキ壊れたことがバレて怒られるから、ジブリール、ウリエルに話したくないお」
「おまえの意見は聞いてねえ」
おまえがオレの意見を聞いてねえように。おまえの耳はロリ顔の頭部の飾りとしか思えない。オレの言葉はおまえの鼓膜をまったく揺らしてないとしか思えん。
「でもでもぉ、なにが問題なんだお? ジブリールにはわからないお」
天使ははばたき一つで机から浮きあがる。
「平岡君も水野ちゃんも博美先生も、キミの純愛の運命の人だお? うまくくっついちゃっていいと思うお♥」
あまりに不条理な発言内容に耐えかねて、オレの手元でシャーペンが折れる。くっそ、このシャーペンはカワリツの入試で使った縁起のいい、とっておきのシャーペンだったのに。握りしめすぎてボッキリ折れちまった。オレは一言ずつ確認するように、丁寧に返答してやる。
「いいわけあるか、大問題だ。平岡は男でオレの親友、水野は他のやつに片思いしてた、博美先生にいたっては既婚者だ。全部とくっついたら三股だし、どっちをむいても、自由恋愛とは程遠いだろうが。純愛が聞いてあきれるっつの」
ジブリールは小首をかしげる。
「人類の純愛は全部、ジブリールのステッキの力なんだお? 平岡君が将来、女の子とするはずだった恋愛も、水野ちゃんのはかない片思いも、博美先生の永遠の愛も、全部、ステッキの力だお? それはいつでも変わらないお。今回はキミがたまたま純愛を作る舞台裏を見ちゃっただけで、どれも純愛には変わらないお? 恋愛は平等だお。どれも本物の恋だお」
「ふざけんなよ、おまえ、こんな人為的な恋愛が純愛であってたまるか」
オレの肩が怒りで震えるが、天使は頓着せずに一方的に説明する。
「アダムとイブだって、ジブリールの呪文で夫婦になったお。人類が生まれて以来、ジブリールのステッキ以外で恋愛が起こったことはないお。ボスがジブリールに授けた権能だお。ジブリールはいつだって恋愛を、純愛を作ってきたお」
「……純愛って、おまえに作られるものなんかよ」
オレは折れたシャーペンの残骸と問題集を放り出して、ベッドに横になって壁のほうを向く。
「絶望したくなるチョイスだな」
「本当に、何が問題なんだお? 三人ともジブリール印の純愛だお。間違いないのに」
天使は心の底から不思議そうな表情になった。オレはもう機械的に返答する。
「大間違いだっての。だいたい、純愛の相手が複数いる時点でもうおかしいだろ」
「一夫多妻制もあるお♥」
「オレは! 純愛の相手は! ひとりだと思う!」
我慢しきれず、ついに壁から頭の悪い天使を振り向いて怒鳴った。
「なぜなら命はいっこしかないから! だったら、命を賭けられるのはひとりだけだろーが。オレの命の三分の一と、平岡や水野や博美先生の一生分の純愛が対等だとでも言うのかよ? どんだけ相手をないがしろにしてんだ、ふざけんな」
「それはキミの問題だお。キミが普通のひとの三倍、愛を持っていたら、大丈夫だお♥」
天使の能天気な論理の破綻ぶりに、オレの導火線に火が付く。
「オレは愛を振りまく新興宗教の教祖か?! オレのキャパはひとり分しかないわ! 三人を(しかもその中には同性と既婚者を含む)、ちゃんとひとり分ずつ好きになんかなれるわけねーだろ、そんな斬新な設定、恋愛ゲームでもねーわ、つーか、クソゲーだろ、そんなん」
ジブリールは真面目な表情で指摘する。
「クソゲーでも、キミの人生だお♥」
「お・ま・え・の・せ・い・だ・ろ」
オレは再び拳骨で金髪頭をグリグリする。
「オレは、ドリトル先生みたいな獣医になって、独立して、かわいい奥さんと結婚して、かわいい子ども作る人生なんだよ。それ以外は認めん!」
「ドリトル先生みたいな獣医になって、独立して、かわいい奥さんと、かわいい旦那様と、かわいい年上の愛人と、うまくやればいいお♥」
「おかしい、おまえの言ってることは全面的におかしい! 純愛はどこへいった?!」
「だから、全部、純愛だお。キミが純愛だと思って応えればそれで、それだけでもう純愛なんだお」
「純愛の定義がわからなくなってきた……」
オレは金髪頭を離して、ベッドに座りこむ。頭をかきむしった。
「いったい、純愛ってなんなんだ」
「相手を一途に想う気持ちだお♥」
なれなれしく隣に座った天使が言う。
「キミが女の子だったら、平岡君としていたのが純愛だお。それで救世主を産むはずだったんだお。いまちょっと対象が広がって三人になってるけど、恋愛にはいろんな種類があるお? 三人をみんな一途に愛する、そういう恋愛もあっていいお? あとはキミが応えるだけなんだお。相手はみんなスタンバイOKだお♥」
「スタンバイって、ロケット発射みたいだな。ははは、片道切符か」
オレの手がのびて、ずうずうしい天使の金髪をひっぱる。
「でも、そんなことしたら、オレは一生、オレをゆるせないだろーな」
「キミは聖処女だから、ちょっと潔癖なんだお。あと、マジメなんだお。だから苦しむんだお。なにもかもゆだねて、運命に従って、みんなで幸せになる。そういう選択肢も考えてみたほうがいいお」
「――寝る」
オレは断言して金髪を離し、毛布を頭の上まで引きあげた。泣きそうだった。自分と、みんなのために、泣きそうだった。
でも、それが純愛だって、恋愛をつかさどる天使が言うんだぜ?
間違ってるのは、オレのほうなのか?
わからない。
もう、なにがなんだか、天使の論理はオレには理解ができなかったし、理解したくもなかった。帰宅後、ろくに勉強せずに寝てしまうのは、生まれて初めてだった。
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