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7.平岡
朝六時。起床する。今日は校内テストの日だ。なにがなんでも八時半までに学校へ行かねばならない。そそくさと身支度して、あの呪われた魔窟と化した部屋へ行く。行きたくないけど、行く(だって車運転できるの博美先生だけだし)。
ジブリールの言った通り、三人は気持ちよさそうに寝ていた。安心した。なにせあのジブリールの魔法(?)だ、どこまで発言内容=現実か、確証なんてない。順番に起こそうとして、オレは布団につまづいて思いっきり倒れこんだ。その先には水野の股間があった。温かな、布地一枚へだててノーパンの水野の股間に顔がうまる。
――ひょげええええ!
オレの理性が一気に限界突破、臨界に達する。大気圏を超え、月面が見えた。
「う……ん」
何を感じたのか、水野が色っぽく小声を漏らした。いかん、絶対にこれはいかん、ドリトル先生、助けて! オレはもう呪文のように「ドリトル先生、ドリトル先生」とつぶやきながら身を起こそうとして片手を布団に着く。その先にあったのは、
「あ……ん」
博美先生の巨乳だった。オレは思いきり巨乳をつかんでいた。
――ぎゃあああああ!
事故だ、これは事故だ。あわててのけぞったオレは、最終的に、反動的に、
――うおおおおおお!
平岡の上に倒れこみ、夢の国の平岡と「ちゅっ」とファースト・キスをかわしてしまった。うえええええ、オレがいったい何をしたっていうんだよ、なんで野郎とファースト・キスを……。
涙目になったオレは、それでも砕け散った心をかきあつめて、三人を起こす。もちろん、安全な順番に起こす。まず最初にプラトニック・ラブ路線の平岡。軽く揺さぶるとすぐに起きた。寝起きがいいんだな、こいつ。覚めてすぐにオレの顔を見て、満面の笑顔になる。
「嶋本」
「おはよ」
「ああ、もうそんな時間か。オレさ、いますごくいい夢を見てたんだ。中世っぽいお城でさ、すっごい清らかな女の子に従って進軍するって夢で」
あの、その夢、すっごく既視感あるけど……。やっぱりこいつがオレの運命の相手ではあるんだな。同調率がハンパない。が、断固としてお断りだ。いくらファースト・キスを捧げた相手といえど、オレはこいつのことは親友としか思ってない。とにかくあと二日でウリエルが機能するようになれば、ちゃんと元通りの友人に戻れるんだ。これ以上、波風は立てたくない。何事もないのが一番だ。ゆえに、
「平岡、悪いけど、博美先生を起こしてくれるか。オレは水野を起こすから」
もっともデンジャラスな熟女は平岡に任せ、まだ初々しい水野を起こす。
「水野、水野、朝だぞ」
軽く手を引っ張ると、「もうちょっとだけ、お母さん」と言った。なんだこれ、どんな夢を見てるんだ、どこまでかわいいんだ、水野は。そう思うのはオレだけか、恋愛フィルターがかかってるのか。水野のたった一言で悩殺されかけたオレだったが、「今日は校内テストだぞ」という脳内ドリトル先生の言葉で正気に戻る。いかん、お花畑に行くところだった。起きてもらわねば困る。
「ほら、水野」
「うーん」
ふにゃりと表情を崩し、目をこすりながら、水野が起きあがる。
「やだ、嶋本だ、わたしの寝顔、見ちゃった? うわ、恥ずかしい」
ダメだ、やっぱり水野のリアクションはいちいちかわいい。思わずオレまでテレてしまったところで、
「先生、ダメです、そんなことダメです!」
平岡の絶叫が上がった。やっぱりな、あっちはヤバイと思っていたんだよ。肉食系女教師だからな。すまん、平岡、生贄にして。だがオレのファースト・キスの代償とでも思ってくれ。
振り返れば、平岡の体にタコのように博美先生が絡みついていた。両腕を平岡の首に絡め、両足を平岡の腰にひっかけて、「おはよう」と朝のドディープ・キスをしようとしていた。寸前で平岡の悲鳴に気づき、「あん、ごめんなさい」と言いながら離れていく。先生の浴衣は派手に着崩れて、もうなんだか紐みたいになってた。巨乳がこぼれそうになっている。人によっては眼福なんだろうけど、相手はオレに純愛中の平岡、冷静に「先生、しっかりしてください」と言って、浴衣を直してやっている。いまの平岡にはオレに勝る萌え人間はいないのだ。博美先生のあの激烈なお色気路線にもまったく動じないとは、むしろ怖いな、同じ男として。
「おはよう、嶋本君」
改めて、博美先生の朝の挨拶。胸の谷間はかろうじて隠されているが、両バストのせり出しによる圧力で浴衣の生地がピンと張りつめている。浴衣の合わせ目から太ももを見せているのがポイントらしい。ホント、博美先生はどこまでも前向きだよ、全力で後ろ方向に。
「さ、朝食を食べて学校へ行きましょう」
オレはお色気を黙殺して(平岡のマネ)、号令をかける。
「博美先生は着替えてください、水野も。平岡、おまえも着替えろよ」
「あら、嶋本君はもう着替えてるのね」
残念、という桃色の声が聞こえたが、全力で無視。着替えはデンジャラスタイムになるんじゃないかと思って、着替えまで終えていてよかった。ナイス判断、オレ。
「今日は校内テストですからね、なにがなんでも、絶対に学校へ行きますよ。寄り道はしません」
オレの宣告に、「あらん、これからなのに」「もっと一緒にいたいのに」「まだ言いたいことがあるのになあ」などと声があがるが、やっぱり全力で無視。いちいち相手にしていたら、テストに遅れる。オレもだいぶ経験値が上がってきたな。頑張ってる、オレ。
あっという間に朝食を済ませ、「平岡君、また卓球しましょうねえ」と残念そうな女将に手を振って出発。はー、しんどかった。なんだったんだ、帰宅部の合宿。とにかく異常に疲れただけじゃねえか。ホントにもう。
まあ、正直に思い返せば、水野の胸とかこう、完全にときめきがなかったわけじゃないけど、平岡とのファースト・キスと博美先生の熱烈お色気路線の強力すぎるプッシュのせいで、トータルで言えば、マイナスだな。負け越してるな。
「平岡が寝ててよかったよなあ」
唯一の救いを呟けば、「なんか言ったか」とオレに関しては地獄耳になっている平岡が鋭く反応する。いかん、ヤブヘビになる。
「いや、オレっていびきがすごいから。おまえが寝ててよかったよなあ、って話」
「いびきなんて、ぜんぜん気にならなかったぞ。大丈夫だ」
「そっか、ならいいんだ」
無難に話題を収束する。そういえば、あのクソ天使がいねえな。静かでいいけど、ウリエルと連絡が取れないと困る。
「ジブリール、おい、ジブリール」
こっそり呼ぶと、
――やっと追いついたんだお♥
天井から声が返ってきた。いったい何をしてたんだ、今まで。
――朝風呂ってサイコー♥ だお♥ ジブリール、温泉ダイスキだお♥
名残惜しげに感想を述べる。なんだかんだ言って、こいつが一番、温泉宿を堪能したよな、おまえは温泉レポーターか。いまいましく思いながら窓へ視線を流せば、
――これから着替えるお♥
バスタオル巻き姿の天使が逆さまに車窓を外からのぞきこんできた。オレは仰天して飛び上がりかけたが、シートベルトががっちり固定していて身動きできなかった。あやうく挙動不審になるところだった、よかった。
早く着替えろ! このクソ天使。
テレパシーで怒鳴りつけると、
――見ちゃダメだお。
誰が見るか、オレは爆乳には興味がねーんだ。イライラと返答を叩き返すと、
――うんしょ、うんしょ。
なにかに取り組んでいるらしい掛け声が聞こえてくる。なにをしてるんだ、あいつは。
もう一度車窓を眺めて、オレは再度、飛び上がりそうになる。
きわっきわのミニの警官の制服姿の天使が、逆向きにのぞいていた。
――モデルチェンジだお♥ 温泉のお礼のサービスだお♥
誰が喜ぶんだ、おまえが着替えて。少なくとも、オレはまったく興味がねー。そんなオレの態度に関係なく、相変わらず黒のパンティをミニスカのスリットからのぞかせ、なぜか制服なのに胸の谷間が露わな格好でウィンクしてくる。背中には何枚もの白い翼がはためいている。
――今日もガンバって、子育てするんだお♥
「誰がするか、クソ天使。死ね、おまえは一回死ね」
オレは口の中でののしり、近づいてくる学校を眺めながら、ため息をつく。あーあ、テスト勉強をしたかったな。いままでテストのときは、前日まで全力で勉学に打ち込んできたのに、今回の校内テストはぜんぜん準備ができなかった。内申が下がらないといいんだけどなあ。
ホント、悩みがつきねーわ。
もう一度、ため息をついたオレに関係なく、なぜか車内ではカラオケ大会が始まっていた。あとちょっとで学校なのに、みんなのんきだなあ。水野の『ヘビー・ローテーション』はかわいいけど。
平岡が『地上の星』を歌いだした。こいつ、歌がうまいんだな、知らなかった。けど、なんで学生のおまえがそんなに情感を込めて中島みゆきを歌えるんだ? 苦労してるのかな? 平岡にもいろいろあるのかもしれないな、とオレはその時、思った。残りの二人みたいに直球で迫ってこない分、内心でたくさん悩んでいるのかもしれない。その相談にだけは乗ってやることができないけど、せめて、平岡の気持ちが本人に納得がいくように昇華できればいいのに。また親友に戻れたらいいのに。
そんなことを考えていたら、マイクがオレに回ってきた。オレはユニコーンの『大迷惑』を歌った。たぶん、平岡よりも情感がこもっていたと思う。こもってる、と思っていた。
テストの結果は、「聞かないでほしい」という一言に尽きた。当然だ、ここ数日、ろくに勉強できていない。天使だの、悪魔だの、女教師だの、いろんなものに襲われてきた。勉学なんてできてるわけがない。いままでの蓄積で赤点とか平均点とかそういうことにはなってないだろうけど、上位は狙えないかな。残念だ、いろいろな意味で。
「ドリトル先生……」
昼休み、平岡を待つ間にぽつりと言葉が漏れた。オレはドリトル先生に理想を見ていた。ああいう人になりたいと思ってた。謙虚で努力家で前向きで、真摯で。でも実際にオレに割り当てられた運命は『無原罪の救世の乙女』『純愛ハーレムの主』だった。そんなん、どうしろっていうんだよ。いまのオレは男だし、ハーレムなんてドリトル先生には必要ない。そういえば、先生はずっと独身だったな。ドリトル先生シリーズの本はかなり読みこんでいるけど、先生の妹以外の女性って出てきてない気がする。どうしてだろう。
「道を拓く者には、ストイックな向上心が求められることがあるんだお♥」
屋上の柵にとまっている天使が言った。
「ドリトル先生は、動物たちが一番にくるお。だからその分、普通の人生とはかけ離れた人生を歩んだんだお。家庭生活やかわいい子供なんかとは縁がなかったんだお♥」
「けど、先生は孤独じゃなかった。いつもたくさんの動物に囲まれていた」
「人間は? 助手のスタビンズ君や知り合いのマシュー・マグ以外に、身近で先生の生き方に理解を示した人間はいたお?」
「それは……」
オレは絶句した。天使は淡々と告げる。
「なにかを得たら、なにかを失うお。それは運命の摂理だお」
「じゃあ、オレが獣医になったら、なにかを失うっていうのか」
「他の可能性はなくなる、そういうことだお。でもそれは、なにかを得たということでもあるお? 君が聖処女として救世主を産んだら、たしかに獣医にはなれないお。けれど、違うものを得られるかもしれないお。摂理ってそういうことだお♥」
「違う生き方……」
いや、ドリトル先生以外の生き方なんて、オレにはない。だけど、
「もしかして、平岡も、いまの運命のために、なにかを選んで、なにかを失ったのか?」
声が震えた。ファースト・キスなんて、もうどうでもいい。あんなん、猫に舐められたと思えばいい。そんなことより、平岡がオレのために人生の大きなピースを失っていたとしたら。取り返しがつかない。このクソ天使のせいで平岡の人生は滅茶苦茶になった。
「でもそれは、平岡君自身の選択だお♥」
ジブリールは残酷なまでの透徹さで言った。
「他の誰でもない、本人の選択で人生が決まったのなら、他人はもう口出しはできないお」
「けど、今回のことはおまえのステッキのせいじゃないか。平岡の意志じゃない」
「ステッキの恋は本物の恋だお? 運命の恋だお? だから平岡君の選択も平岡君自身の選択だお♥」
「そんな……」
オレのことならまだいい、このクソ天使を罵ればいい、ボスとやらに次に会ったときにさんざん文句を言えばいい。オレは自分の運命を誰がねじ曲げたのか知っている。直接文句をいうことをもできる。けど、平岡は? あんなに苦しげに『地上の星』を歌った平岡は? 誰にも、誰のせいで運命が曲がったのか知らされないまま、どんどん変えられていく。あいつは誰に文句を言えばいい? 誰にも文句を言えず、すべて自分の選択だと思って生きていくのか? 親友のオレに恋をしてしまったのは、自分のせいだとずっと思って、生きていくのか? そんなの、そんなの、
「ひどすぎじゃねえか、このクソ天使!」
オレはジブリールにつかみかかった。ひらりと天使は浮かび上がって、頭上からパンティ丸見えの状態でオレに言う。
「君が応えたら、彼は幸せになるお♥」
「そんなんできるわけねーだろ、オレの夢はかわいい奥さん! あいつは親友、一番の親友なんだよ。それは変えられねーんだよ、どうやっても変えられねーんだよ! オレは平岡が大好きだよ、いいやつだよ、オレにできることなら、なんでもしてやりたいよ! けど、それでも、あいつを戀愛対象には見られねーんだよ。大好きだけど」
初めて、オレの目から涙がこぼれた。滲む程度じゃなくて、本当にぼろぼろとこぼれた。
「オレは、あいつが大好きだけど、でも、そういうふうには、できねーんだよ」
「嶋本……」
ドアのところに、平岡が立っていた。いつの間にか、購買から戻ってきていたのだ。
このタイミングで! 全部を聞かれた。オレは目を見開いて、こちらを凝視してくる平岡を見つめる。平岡はゆっくりと歩み寄ってきた。それから、あの落ち着いた、こちらを安心させる笑みを浮かべた。
「ありがとう、嶋本。オレは、もういいよ」
片手をあげて、オレの髪にそっと触れた。オレが逃げるんじゃないかと思ってるような、慎重な、軽い感触だった。あったかい、手だった。何度も触れたことがある、あったかい心だった。
ああ、こいつは、こんなになっても、こんなふうになっても、オレのことを一番に想っているのだ。かなわないとわかっていても。オレは涙を止めることができず、小さな子供のように泣いていた。オレは本当に、こいつが、こいつの真っ直ぐな心が大好きだった。
「泣かせてごめんな、嶋本」
平岡は身をひるがえした。
「悲しいことは、もう終わりにするから、泣き止めよ」
平岡の手が屋上の柵にかかった。オレはあわてて手を伸ばすが、届かない。平岡は笑顔の残像を残して、屋上から飛び降りた。
六階建ての屋上だ。平岡は死んだ。
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