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8.ガブリエル
平岡がオレの目の前で屋上から飛び降りて、死んだ。
オレはふらふらと柵のほうへ歩み寄る。
「平岡……」
「これが彼の選択だお」
オレの背後に舞い降りたジブリールが言った。
「彼は、君に忘れられることを選んだお。自分の幸せよりも、君の幸せを選んだお♥」
「……なんで、どうして!」
オレは天使に食ってかかる。
「なんで死ななきゃならねーんだよ、オレを好きになったからって死ぬ必要ねーだろ! どうして、こんな」
「君が泣いたからだお」
ジブリールは言った。
「いままで自分の目の前で泣いたことがない君が、泣いていたから、彼は自分の気持ちを殺すことを選んだんだお。死ぬしかなかったんだお。なぜなら」
天使の言葉は容赦なくオレの魂を貫く。
「なぜなら、君への思いは、生命がけの恋だったからだお。殺すことでしか、殺せないからだお。それは水野ちゃんも、博美先生も同じだお? 運命の恋ってそういうことだお♥」
「そんなん、そんなん、おまえのステッキのせいじゃねえか! あいつは悪くない!」
「彼はそうは思わなかったんだお♥」
ジブリールの言葉に、オレはへたりこむ。畜生、畜生、もう取り返しがつかねえじゃねえか。仮にウリエルにステッキを作ってもらっても、もう平岡は戻ってこない。
「ちくしょう」
もううめき声しか出なかった。オレは天使を呪った、神を呪った、自分を呪った。運命を、摂理とやらを呪った。
「平岡……」
恐る恐る、柵に手をかける。下を覗こうとしたそのとき、
「だいぶ迷惑をかけてしまったようだな」
初めて聞く声が響いた。深く、耳にしみこむような渋い声だった。ジブリールが、はっと頭を起こす。キョロキョロあたりを見回した。
「ボス♥?」
「ボスだと?」
ジブリールのボス? それって、つまり、
「神様?!」
オレは思わず頭上を振り仰いだ。光が、強い白い光が、スポットライトのようにオレの上に落ちてきた。
「ゆるしてほしい」
声は心底嘆いている口調で言うと、ぱっと消えた。その代わりに、
「なんだ、あれは」
空の奥から、二つの影が舞い降りてくる。だんだん細かいところがわかるようになると、それは二人の天使だった。茶褐色の鷲のような翼の天使と、孔雀のような色鮮やかな翼の天使だった。そして茶褐色の翼の天使の腕には、
「平岡!」
目を閉じて、平岡が抱かれていた。その天使は静かに翼をたたみ、屋上に降りると平岡を寝かせた。オレは思わず走り寄る。
「平岡、平岡」
「眠っているだけだ」
天使は言った。謹厳実直そうな表情で眉間には深く皺が刻み込まれている。
「しばらくすれば目を覚ます。飛び降りた記憶はない」
「あんたは?」
「わたしは大天使ウリエル」
「あんたが?!」
ジブリールの周囲で唯一まともな思考の人。続いて、孔雀の羽根の天使が微笑んだ。
「わたしは大天使ラファエル。わたしたちは、神の命を受け、平岡君を救いにやってきた」
「平岡は助かったんだな?」
「安心してよい」
ウリエルが言った。
「彼には傷一つない。それから、ジブリールの干渉による運命の恋愛という因子は消去しておく。また自殺されては困るからな。ただ、友人としても、平岡君は君をとても大切に思っている。君も彼を大切にしてくれ」
そう言い終わると、ウリエルはジブリールの頭に拳骨を落とした。
「おまえはまた! やらかしたな!」
「どうしてー、なんでウリエルがいるんだお? インフルエンザは」
「ボスが治したのだよ」
ラファエルが柔らかく答えた。
「嶋本君、無原罪の君は、ボスにとって特別な人なのだよ。いや、人類は皆、ボスにとって特別なのだ。今回はジブリールのせいで運命がゆがみ、迷惑をかけてしまい、すまなかった。ボスは君の、君自身の選択をなによりも尊重する。君がドリトル先生のような獣医になり、かわいい奥さんとかわいい子供が欲しいと願うのなら、その通りになるだろう。君がそのために、その夢と将来のために、努力するならば」
「まったく、ジブリールは話にならんな」
ウリエルは苦い汁を飲んだような顔をしている。もう一度、拳骨を金髪頭に落とすと、
「ガブリエルを呼べ。早く替われ」
と言った。ガブリエル? オレが疑問符を浮かべるとウリエルは言う。
「君は、このジブリールが天界の副将軍だと信じられるか? 不可能だろう。堕天使の中にはミカエルとて手を焼く者がいるのだ。それをこの頭が軽い天使になんとかできると思うか?」
「そりゃ無理だとは思いましたけど。でも本人が主張したので。自分はとってもエライ天使だと」
「間違いではない。ただし、真実でもない」
「大天使次長はガブリエル、ジブリールではないよ」
ラファエルがそっと言い添えた。だから、ガブリエルって誰?
「この『ジブリール』は、男性向けの人格なのだよ」
ウリエルから衝撃の発言がもたらされた。
「君が女性なら、男性の『ガブリエル』、君が男性なら、女性の『ジブリール』が現れる。早くガブリエルを召喚しろ。おまえでは話にならない」
「ええー、ステッキがないから、無理だお♥」
「これでいいだろう」
ウリエルが先端にハートマークがついた魔法ステッキ的な棒を取り出した。
「あ、ジブリールのステッキだお♥」
「だお、ではない」
ウリエルの拳骨がまた落ちた。
「ボスに言われて、急遽、わたしが作ったのだ。ほら、替われ」
「仕方ないお、じゃあ、魔法だお♥」
ジブリールがステッキをふりかざし、あの呪文を唱える。
「リリララルルラ、ジブリールはガブリエルに、なーれ♥」
ステッキから桃色の光が降り注ぎ、ジブリールを包んだ。ぼわん、と光の中でシルエットが頭二つ大きくなる。翼の数が増えて、六枚から十枚になった。やがて光が消えると、ステッキを手にしていたのは、
「うわ、マジか」
ギリシア彫刻のような怜悧な顔立ち、金の短髪に深い青の瞳。長身の美丈夫がひとり立っていた。腰には大きな剣を佩いている。天使は、
「はじめましてだな、嶋本君」
容貌に似合いの、落ち着いたテノールの声で言った。
「わたしは大天使次長ガブリエル。ジブリールの男性形だ」
「ち、違いすぎるだろ!」
初対面(?)で失礼かもしれないが、オレは突っ込まずにはいられなかった。あの能天気なチラパン・ロリ巨乳天使の男性形がこれか。なんという、なんという変身だ。
「本当に、同一人物?!」
「間違いない」
ウリエルが保証した。
「ジブリールとガブリエルは、人間の理想の異性となって現れる。だから今のガブリエルは君が女性だったのなら、信用せずにはいられない男性となって顕現する」
「……オレの理想の女性形があのジブリールだってのは、ちょっとした絶望ッスね」
「人間の意識と無意識は異なるということだ。だから気にすることはない。君はいままで思っていたように、かわいい奥さんを夢見ていればよい。君の無意識が爆乳を欲していたとしても、恥じることはない」
「……いや、ちょっと、かなり、すごく、自分に絶望するッス」
オレは屋上に両手をついて落ちこんだ。オレの理想のお嫁さんがジブリールみたいなのだとしたら、オレは自覚していないだけで、単なるオスという名のケダモノなのかもしれない。もう少し、自分のことを理性的な人間だと思っていたけど、そうなの……。アレがオレの理想の女性なの……。
「だが、ガブリエルになったのだから、もう大丈夫だ」
ウリエルは親しげにガブリエルと肩を組む。
「ガブリエルは理想の男性だ、頼りがいがあって、包容力があって、気配りができて、実力もある。安心して今後のことを相談したまえ」
「そんなに持ち上げないでくれ、ウリエル」
ガブリエルは爽やかに微笑する。
「今回は嶋本君にはとても迷惑をかけてしまった。申し訳ない。すまなかった」
美丈夫は頭を下げる。オレはあわてて手を振る。
「いや、あれはジブリールがやったことッスから。ガブリエルさんには関係がないというか。ていうか、オレは純愛ハーレムをやめてくれればそれでいいわけで。ガブリエルさんならなんとかなるんですよね?」
「それなんだが」
ガブリエルの表情が曇る。
「ジブリールがかけた純愛の魔法は運命の恋の魔法、運命を直接書き換えた。人間の魂には強制書き込みの限界回数がある。あまりにも不条理に運命を操作すると、魂が耐え切れず壊れてしまうのだ」
「あ、それは前にジブリールが言ってたかも」
――キミの魂が壊れそうだから、運んだんだお。
「ジブリールの強力な運命干渉で普通の魂に干渉できるのはせいぜい一回だ。それ以上は無理をして魂が崩壊する」
「え、それってどういうことッスか」
「つまり、平岡君のように他人のために自殺するほどの覚悟と決意を持てる、無原罪の魂ならともかく、普通の魂に運命の恋を上書きできるのは一回限りということだ。逆に言えば、いま水野さんと博美先生から運命の恋を解除すると、彼女たちはもう二度と運命の恋はできない。今回の人生では」
「え」
「運命の恋とはそういうものだ。一生に一回だから、運命の恋なのだ」
「で、でも博美先生は結婚してましたよね、旦那さんとしたのが運命の恋だったんじゃ」
「恋愛ではあったのだろう。けれどジブリールによってさらに強力な純愛に書き換えられてしまったのだ」
「……あの、クソ天使……っ」
思わず罵ってから、眼前のガブリエルの悲しそうな顔に気付く。
「あ、いえ、すんません、つい本音がダダ漏れてしまいました」
「いや、いいのだ、気にしないでくれ。ジブリールが出ると、毎回こんな感じなのだ」
「ガブリエルさんも大変ッスね。じゃあ、ガブリエルさんは博美先生と水野の純愛を解除することはできないんスか」
「博美先生のほうはまだなんとかなるかもしれない」
ウリエルが言った。
「彼女は結婚してるし、子供もいる。ガブリエルなら、君への過剰な想いは『母性愛』で上書きできるかもしれない。その可能性はある」
「水野は?」
「彼女はごく普通の女の子だからな、純愛の受け皿になるような感情がない。彼女の運命の恋はもうやりなおしができない」
「そんな、水野は何も悪くないのに!」
「そうだな、彼女に罪はない。そこで改めて君に問う」
ガブリエルが真剣な表情でオレを見つめた。
「平岡君は元の友人に戻せた。博美先生は母性愛に書き換える。水野さんは、嶋本君、君の運命の恋の相手にしては駄目だろうか? それが彼女の魂にとって、もっとも負担が少ない方法なのだが」
「えっ……」
オレは思わぬことを言われて立ちすくんだ。そりゃあ、水野のことがオレは大好きだけど。本当に、水野の運命の人になれたら、オレは――。
ドリトル先生みたいな獣医になって、初恋の水野と結婚して、かわいい子供に恵まれて。
そんな人生、夢みたいた。すげえ幸せな、夢みたいな人生だ。
――なにかを得たら、なにかを失うお。それは運命の摂理だお。
なにかを、失う。
ジブリールの言葉が頭の中でぐわんぐわん回った。
水野がオレの運命の純愛の相手になったら、オレは何を失うんだろう。
違う。失うのは、オレじゃない。
「それは無理ッス」
オレはぎこちなく三人の天使に笑ってみせた。
「そんなことをしたら、水野の初恋は、彼女の片思いはどこへいっちゃうんスか? 水野の本来の運命の相手はどうなっちゃうんですか。そんなの、ジブリールの魔法と同じじゃないですか。アシュタロトさんとの契約と同じじゃないですか。全部を水野におっかぶせて、オレが幸せになるだけじゃないスか。そんなの、そんなの……みんなぜんぜん幸せじゃないですよ」
「君は本当に潔癖で、高潔な魂の持ち主なのだな」
ガブリエルが言った。
「いつの時代も、誰に生まれ変わっても、君は変わらない。自分よりも他人のことを想う」
「オレは、別に、そんなに大した人間じゃないッスよ」
オレは視線を床に流した。
「ただ、スジが通らないことは嫌なんです。努力したら、報われたい。夢見ていたら、かなえたい。理想論かもしれないけど、でもそういう、理想や夢がなくなったら、前へ進めなくなる。それがわかってるだけです」
――信じていたお! キミが人の夢見る強さを知っているって、ジブリール、信じていたお♥
「そういう君だから、ボスは君を選んだのだな」
ガブリエルの翼が広がった。
「ウリエル、水野さんの純愛は、兄弟愛に書き換えられないか」
「兄弟愛? しかし、彼女には兄弟がいない」
「嶋本君のことを、『憧れのおにいちゃん』として想う、そういう風に書き換えられれば、魂の負担は少ないし、運命の純愛力も抑えることができるのではないか」
「やってみる価値はあるが、保証はできない」
ウリエルは辞典のような分厚い本をどこからか取り出し、ぺらぺらとめくり始めた。
「彼女の思い出の中には……ああ、近所のおにいちゃんにあこがれて、『おにいちゃんがほしい』と母に訴えたことがあるな……。使えるかもしれない」
「その近所のおにいちゃんと嶋本君が似ていれば、いいわけだ」
「それは記憶の操作だな。それも魂に負担がかかるが、面影を似せるだけなら、大丈夫だと思う」
「では、こうしよう」
ガブリエルがステッキをかざした。なんだか、美形が魔法ステッキ持ってると微妙だな。
「運命を書き換えるんスか。博美先生も水野も、まだ教室に」
「大丈夫だ、ジブリールとは違い、わたしの権能は世界中のどこにでも届く。リリララルルラ、博美先生の純愛は母性愛に、水野さんの純愛はおにいちゃんへの憧れになーれ」
ピカアアとステッキが眩しく発光する。
こうして、オレの純愛ハーレムは瓦解した。
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