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1.ジブリール
朝、起きたら、目の前が爆乳だった。
「これはないわー」
いくらオレが健全な男子中学生だったとしても、仰臥しているオレの上にミニのナース服姿の爆乳の天使が座りこみ、顔の前で、たぷんたぷん胸を揺らしながら「おはよう、いい朝だお♥」などという夢を見るのはいかがなものか。第一、オレは巨乳は好きだが、爆乳は嫌いなんだ。物には限度というものがある。早く起きよう。こんな夢から醒めよう。中学生の欲望が具現化したとしても、これはストレートすぎて頭が悪すぎる。自分に絶望したくなるわ。
……って、どうやって眼を覚ますんだっけ。
そっと指で両目に触ってみる。開いてる。瞼はちゃんとあがっている。
てか、いま、オレって、
「もう起きてる?! マジか、これ」
わめいて上体を起こしたら、天使はころりと転がり落ちて、
「ジブリール、びっくりしたお」
とロリ顔の口を大きくあけて笑った。
そして、オレは走っていた。予鈴ももう鳴っているだろうに、学校から五キロは離れた見知らぬ町を全速力で走っていた。
「畜生、遅刻で内申点が下がったら、どうしてくれるんだよ」
ようやく足を止めて、一息つく。腕で額の汗を拭った。ここまでくればさすがにまけただろう。
「ジブリールの勝ち♥!」
唐突に目の前が黒いレースのパンティで覆われた。誰かがオレの顔面にヒップアタックしたのだ。そいつは、
「告命天使・ジブリール見参! あなたの純愛をかなえちゃうお♥」
ミニのナース姿のロリ顔金髪美女が目の横でピースしながら、ニコニコ笑う。
オレのうめき声が漏れる。
「くっそお、なんてしつこい悪霊だ!」
「違うお、ジブリール、悪霊じゃないお。ジブリールは純愛をかなえる大天使だお。ほら、証拠の六枚羽根♥」
非常識にも宙に浮かんでいる美女の背中で白い翼がはためく。だが、そんなことはどうでもいい。
「どっかいけよ、もお!」
オレは青空に絶叫した。
説明しよう。オレは嶋本静流(しまもとしずる)、中学三年の男子である。通っているのは私立館川(たちかわ)学園中学校、通称「カワリツ」と呼ばれる県内有数の進学校だ。オレの将来の夢は「イギリスのドリトル先生みたいな動物の名医になること」。
“ドリトル先生”は、ヒュー・ロフティングさんが書いた物語に登場する、世界で唯一の動物語を理解する獣医だ。たとえば犬には犬語で、猫には猫語で問診し、診察する。もちろん、犬猫以外の生き物にも、ちゃんと研究してその生物の言葉で対応する。ドリトル先生は自分の努力で動物語を習得し、空前絶後の名医として動物たちに心から信用されて尊敬されている。
あのひとみたいにオレもなりたい。動物たちに「あなたに診てもらえてよかった」って言ってもらえるような、信頼される獣医になりたい。その夢に向かって、毎日毎日勉強勉強、よけいなことに使う時間は一分もない。それなのに、
「恵まれた方、あなたに神の恩寵が下りました。ジブリールがあなたの純愛をかなえます♥」
今朝、妙な夢を見てうなされて起きたら、身体の上にこのしつこい悪霊が大またを開いて座っていて、オレに振り落されてもニコニコしながら「はい、一緒に子育てしましょうね♥」とかぬかしやがった。オレは最初、勉強に疲れた気のせい・妄想だと思い、放置していたが、こいつがトイレまでついてくるにいたって、徹底抗戦を決意、逃走をはかり、現在に至る。
空中の自称天使は笑顔で問いかけてくる。
「生まれるのは男の子がイイデスカー? 女の子がイイデスカー?」
「子ども以前に、女子とそういうお付き合いがないわ! 勉強第一」
「心配しないで、ジブリールが何でも教えてあげるから」
天使は青空を背景に大きく両手を広げて『大丈夫感』をアピールしてくるが、もう何もかもが『おかしい・異常』にしか見えねー。うさんくさいことこの上ない。
「百歩譲って、おまえが幻覚ではなく本物の天使だとしよう。だが、オレにはかなえてもらう必要がある恋愛はない!」
「そんなはずはないお」
ジブリールは白衣の胸の谷間からスマートフォンを取り出し、操作する。
「この純愛レーダーに反応アリ♥ 君は純愛中であることは間違いないお。さあ、純愛をかなえるんだお」
オレは言葉を叩き返す。
「千歩譲って、オレが純愛中だとしよう。だからっておまえになにができるんだ? 第一、他人にかなえてもらうような恋愛、本当の純愛なのか」
天使はスマートフォンを胸にしまうと泣き真似をする。
「意外と理性的なんだお。前の子はすぐ信じてくれたのに、信じてくれないとジブリール悲しくて泣いちゃうお」
「泣け泣け、ああ、もう泣きわめけ」
オレは自販機の横に座りこんだ。ポケットから出したスマホを操作すると、着信が三回。全部、親友の平岡(ひらおか)からだ。三年間皆勤のオレが朝礼に出ていないので、心配しているんだろう。いいやつだ。
「畜生、泣きてえのはこっちだよ」
こんな幻覚見るほど、オレはおかしくなっていたのか? ストレスがたまっていたとか?
確かに毎日勉強漬けだけど、厳しい毎日だけど、オレなりに充実感も感じていた。第一志望だったカワリツに入れたし、テストでは上位だし、自分が着実に夢に向かって進んでいるという手ごたえがあった。なのに、この能天気な自称天使のせいで、将来の獣医のドリトル先生がパアになりかけている。離岸する船の上からドリトル先生が手を振りながら、「元気でね」と叫んでいるのが聞こえる。こんな非常識な存在に、オレの人生を振り回されてたまるか。
「よっし、気を取り直そう」
自分に言い聞かせる。今のところ、このジブリールとかいう自称天使・悪霊は「子作り」以外のことは何も言ってない。純愛とか寝ぼけたことをぬかしているだけだ。特に行動はしていない。
なら、別に、気にしなくていいのでは?
トイレをのぞかれるのが嫌だったし、風呂もついてくるとかありえないと思ってたけど、ドリトル先生に手を振って「サヨウナラ」と言われるくらいなら、悪霊の一匹や二匹、我慢しよう。いずれ慣れるだろう。芥川龍之介だって言ってた。「人生は地獄よりも地獄的である。」人間は習慣の生物だ。慣れれば騒音だっていずれ平気になるはず……。
「子作りは若いほうがいいもんねー。お産の後が違うもんねー」
ジブリールは出産について具体的になにやら言っているが、完全無視。
そうだ、無視、それでいこう。
「オレは今後、一切、おまえの言うことは聞かない。聞いてない」
宣言すると、自称天使は悲しそうに涙を浮かべた。
「でも、子作りにはジブリールの応援が絶対必要だお? ちゃんと妊娠して産むためにはジブリールの変身能力がないと無理だお?」
「変身能力ぅ~? バカバカしい、オレはドリトル先生に」
言いかけて、すさまじい悪寒に襲われた。
いま、なんつった、この悪霊は。
――ちゃんと妊娠して産むためにはジブリールの変身能力がないと無理だお?
こいつが言ってる妊娠ってなんだ? 誰の? いや、誰が、妊娠するんだ?
……オレが?
オレは顔面蒼白になり、瞼がプルプル痙攣するのを自覚した。ヤバイ、なんだかわからんが、こいつは絶対にヤバイ! 男のオレをとてつもねー異常事態が襲来している。これからなにが起きるのかわからんが、嫌な予感しかしねえぞ!
そんなオレの恐慌状態を、完璧に無視してジブリールは話を進める。
「大丈夫、最初はみんな慣れないけど、ジブリール、優しくするから。運命の男性は、もうキミを待っているんだお。リリララルルラ♥」
天使は胸の谷間から取り出した魔法ステッキ的な棒を振りかざす。
「カワイコちゃんに、なーれ♥」
棒の先端から白い光が降り注ぐ。
「ぎゃー!!!!」
オレは絶叫した。声がかれるほど叫んだ。叫んで叫んで、息が切れても叫んだ。
声が変わってしまうまで。
鈍い叫びが、甲高い、女子の声音に変わるまで。
「なにしてくれてんだ、この悪霊!」
オレは震える手で、自分の胸を押さえる。やわらかいがしっかりとした弾力がある。尻、尻も心なしか丸くなった気がする。前、を確認する勇気はなかった。もし前がなくなってたら、オレの自我が崩壊するしかない。ドリトル先生に置いていかれるどころじゃない、人生、がけっぷちだ。
――人生は地獄よりも地獄的である。
まさに、まさにその通りの展開だった。
「せ、制服の肩がゆるゆるじゃねえか、逆に胸元は苦しい。これって、これって」
「カワイイ女の子のできあがり♥」
「死ね、死んでしまえ! おまえなんか、死ね」
オレは力の限り、満足げな天使を足蹴にする。
「オ、オレはなあ、獣医になって、ドリトル先生みたいな名医になるんだよ! こんな年齢で性転換しちゃうような人生、歩んでねーんだよ! もっと着実に地に足着いた人生を一生懸命、頑張ってんだ、それが」
それが、なんでだよ。
小学生のときから、友達が遊びに行く後ろ姿を見ながら、夜遅くまで塾に通った。中学受験では心が折れそうになったけど、どうにかドリトル先生になりたい、って夢を支えに切り抜けた。やっとやっと高校受験、大学受験が見えてきて、オレの人生はこれから、これからなのに。
――恵まれた方、あなたに神の恩寵が下りました。ジブリールがあなたの純愛をかなえます♥
目が熱くなった。視界が歪んだ。なんでだ、なんでだよ?!
「こんな、こんなんが神の恩寵とやらなら、そんな恩寵、いらねえんだよ! オレの邪魔、すんなよ、必死に頑張ってるやつの人生、簡単に曲げんなよ!」
「でもお、みんなのためにも、キミの妊娠をかなえなきゃダメなんだお?」
ステッキをするすると胸の谷間にしまったジブリールは思案気な表情になる。
「千年に一人、生まれてくる救世主がいないと、人間は滅んでしまうんだお? みんな死んじゃうんだお? つまり、救世主を産まないと、遠い未来のキミの夢も死んじゃうんだお?」
「……なんだそれ、どういう罰ゲーム……」
オレは脱力して地面にへたりこむ。救世主? 妊娠しないとみんな死ぬ? もう話の脈絡がぜんぜんわからない。眩暈がする。身体に力が入らなかった。なんだか股間が熱い。濡れているような……。太ももをずらして、ズボンを見て、オレは再度、仰天した。
「血、血が出てる! 股から血が出てるっ」
「問題ないお、ただの生理だお。排卵のための子宮の準備が」
「生理?! 生理っつったのか、いま?! なんでオレに生理がくるんだよ?!」
「ちゃんと生理用のナプキンは用意してあるからダイジョブだお? タンポンのほうが好きなら、タンポンもあるお?」
天使が胸の谷間から取り出してみせた可愛らしい薄青の花柄のナプキン。それが、オレが見た最後の光景だった。
――人生は地獄よりも地獄的である。
オレは、眼前の現実に耐えきれずに失神した。
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