5.アシュタロト

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5.アシュタロト

「あーっ、ダメなんだお!」  ジブリールがあたふたと周囲を見回す。拳を振り回しながら、誰かに必死に主張する。 「誘惑は救世主への試金石で、聖処女への誘惑はダメなんだお! 禁じられてるはずなんだお!」 「どうして天界との約束をわたくしが守る必要があるのかしら」  欲情がしたたるような色っぽい声が天井から響いた。 「わたくしが従うのはルシフェル様のご下命のみ、神の命など知ったことではないわ」  天井から黒いピンヒールのつまさきがのぞいた。ヒールは魅惑的な長い肉付きの良い足につながっている。足は豊かな尻と引き締まったウェストに続き、豊満なバストがぷるんと揺れて現れた。 「また爆乳かよ」  ボディに張りついたような黒のミニスカートのスーツに黒ブチ眼鏡の美女が天井から出現し、オレとジブリールを見下ろしていた。禁欲的なそっけない黒スーツが、逆に扇情的だ。美女は眼鏡を押し上げて、「フフフ」と笑う。 「今はジブリールなのね。残念」 「アシュタロト! なにしに来たお?!」 「なにって、あなたの邪魔をしに来たに決まってるじゃない」  美女はとん、と軽く部屋の床に降り立つ。スーツのバストの谷間から名刺を取りだし、オレに差し出してきた。 「今回は、はじめまして、よね。まずはご挨拶、名刺交換からどうぞ」 「……おまえはなんなんだ。おまえも天使か?」  胡散臭い美女にヒキながら、オレは名刺に視線を落とす。飾り気のない名刺に黒い活字が躍る。  ――堕天使・魔王。  ――アシュタロト。  ――電話番号:0120―●●●●-●●●●。  ――二十四時間・365日、いつでもお気軽にお電話を! 「フリーダイヤルなんだ……魔王……悪魔……」 「なんでも無料で相談にのるわ。気軽に電話してね」  美女は、アシュタロトは嫣然と微笑んだ。 「きっとこの頭の悪い天使に悩まされているのでしょう? 話を聞くわよ。場合によっては力を貸すわ」 「……マジか」  これはとてつもない変化球が来たもんだ。オレは打席でバットを持ち直す。天使がいるんなら、たしかに、悪魔がいたって不思議はない。悪魔と戦っていたとジブリール自身も言っていたし。  アシュタロトは力強く請け合う。 「マジよ。基本的に天使より悪魔のほうが魅力的だし、頭がいいし、話がわかるわよ。じゃなきゃ、悪魔の誘惑に乗る人間なんていないでしょ」  オレは腕組みして考え込む。 「……一理ある」  ジブリールは両手を振って一生懸命、制止する。 「ダメー、聞いちゃダメー! キミは聖なる処女、人類を救う救世主を産むの!」 「誰が産むか、クソ天使」 「そうよねえ、いまは立派な男性なのに、子どもを産めなんて、常識で考えてとまどうばかりよね」  アシュタロトは赤いルージュの唇に指を当てる。 「子どもを産まない、君の夢をかなえる将来・運命だってあっていいんじゃないかしら? たとえば、ドリトル先生みたいな獣医師になって、独立して、かわいい奥さんと結婚して、かわいい子どもを作るような?」  オレは悪魔の囁きの物分りのよさに感嘆した。なんて話が早いんだ。 「あんた、この状況をどうにかできるのか」 「もちろん。悪魔はできることしか言わないわ。わたしがつかさどるのは七つの大罪のうちの愛欲、愛欲を起こすことも鎮めることも可能よ」 「てことは、博美先生の過剰なスキンシップも」 「おとなしく家庭内にとどまってもらうのが、みんなのためにいいでしょうね」 「平岡のだっこも」 「別の女子に関心をもってもらうのがいいんじゃないかしら」 「水野の片思いも」 「元通り――ちょっと君には悲しいことかもしれないけど――別の男子へ振り当てられるのが、彼女にとっていいことかもね」 「すごい、悪魔、すごいな!」  オレは感激した。天使にはできないことばかりだが、悪魔は可能だと言ってくる。ここまでクライアントの欲求によりそうコンサルタントっていねえんじゃね? 「と、ちょっと待てよ」  オレは踏みとどまった。なんかで読んだことがある。 「悪魔って契約とかするんじゃ? で、魂獲られたりするんじゃなかったっけ?」 「本来はそうだけど、今回は特別に無料サービスよ」  アシュタロトが唇の前に指を一本立てる。 「君が救世主を産まない、それだけで悪魔にとって価値がある。だから君が男の子として生きることに無料で全面協力するわ。悪魔の無料奉仕なんて滅多にないわよ」  ジブリールが必死にオレとアシュタロトの間に割って入る。 「ダメなの、聞いちゃダメなの! アシュタロトが言うことは悪魔の誘惑、偽りの幸せなの。本当の、運命の純愛をまっとうするのが人類のため、みんなのためなの」 「いや、どう考えても、アシュタロトさんが言うことのほうがスジが通ってるだろ」  腕組みしてひとつうなずいたオレの肩に、アシュタロトは軽く手を乗せる。 「わたくしたち、うまくやっていけそうね?」 「そッスね。なんかそんな気がしてきたッス」  オレはワアワアと泣き出した天使をジロジロと見下す。 「救世主がいないってことが悪魔にとってはいいことなんスか」 「人類が滅びるから。ルシフェル様は人類がお嫌いなの」 「人類ってすぐ滅びるんスか。オレが獣医になる前に滅びると困るんスけど」 「大丈夫、滅びるのは次の一千年紀よ。西暦三千年以降の話ね」 「うーん、なら別に気にしなくてもいいような。それまで人類が自力でもつかどうかも怪しいし」 「そうね。環境破壊やさまざまなマイナスの要因があるから、仮に君が救世主を産んだとしても、人類が西暦三千年の元日を見ることができるかどうかは疑問だわね」  オレは深くうなずく。 「なんか聞けば聞くほど、話せば話すほど、アシュタロトさんの言うことはもっともッスね。オレ、納得できたッス」 「キミは、人類の希望なんだお! 救世主は次の一千年紀へ生命をつなぐために生まれてくるの! 『希望』を我欲のために潰しちゃダメなんだおっ」 「我欲っていうか、本人の意志よね」  アシュタロトは冷静にツッコミを入れた。 「そもそも、女性で生まれていればこんなに苦悩しなくてすんだのに。なぜ君が男性で生まれたの?」 「それはこのクソ天使がちょっとした間違いを起こして染色体が欠けて」 「では、ジブリールが悪いじゃないの」 「そんなことないお、ジブリール、染色体を治したお! ちゃんと女の子にしたお♥」 「その結果、オレは心が折れそうになりましたが」  胸がふくらみ、前を確認する勇気が消えたあの瞬間を思い出して、オレは身震いした。恐ろしい。恐ろしすぎる。アシュタロトが疑問を投げる。 「ジブリールは女性になったとき、なにかフォローしてくれたの? その、責任をとって」 「……ナプキンを用意してました」  あの青い花柄の衝撃が脳裏に再来し、オレは首を振る。 「あと、タンポンも用意してるって言ってました」 「それはフォローではなく、どん底へ突き落としているようなものね」 「その通りッス」 「でもいまは男性に戻っているわね。ジブリールが後悔して戻してくれたのかしら」 「いや、自分の力で戻ったッス」 「ジブリールは君の人生に対してなにかフォローしてくれたの?」 「純愛ハーレムを作ってくれたッス。結果、死にそうになりましたけど」 「純愛ハーレム?」 「男ひとりと女ふたりがオレを奪い合う状況になりました。全員がオレに対して純愛してて恋の成就を願ってるというハーレムです」 「でも君はひとりしかいないじゃない」  アシュタロトのごもっともな指摘に、オレは首を振る。 「いや、ジブリールはオレが三人に『愛してるよ♥』って言えばなにもかもうまくいくと言ってました」 「それは法律に触れるし、いろんなタブーに触れるんじゃないかしら」  オレもそう思う。 「その通りッス」 「あきれたわね」  アシュタロトはため息をついて前かがみになり、床で泣いている大天使に指を突きつけた。 「ジブリール、あなた、いい加減にもほどがあるわよ。なぜ自分の失敗の責任を強引にこの子にとらせようとするの? この子、普通の男の子じゃない。夢見て、努力して、恋をして当たり前の幸せをつかむ権利があるのよ。それを救世主だの、聖なる処女だの、全部あなたが失敗してやりそこなったことじゃない。純愛の天使が聞いてあきれるわ」  ポロポロと涙をこぼしていた天使は、「ウウウ」と子どものようにうなってから、 「だって純愛は悪くないお♥」  と自己弁護した。 「純愛は悪くないけど、あなたは悪いわ」  アシュタロトが一刀両断した。ジブリールはまた泣き始める。 「大丈夫よ、わたくしがなんとかするわ」  アシュタロトは力強く約束してくれた。 「純愛ハーレムを瓦解させて、元通りにして、君を普通の男子にすればいいのよね? ご希望通りにできると思うわ」 「よろしくお願いします」  オレはあっさり悪魔に頭を下げた。悪魔のほうがはるかに話が通じるし、天使の言うことよりマトモなこと言うし、信用できる。天使の言うことはなにもかもデタラメだったし、やることは無茶苦茶だったし、信用できない。  オレは悪魔の軍門に下った。                 *** 「で、これはなんなんスか」  学習机に積み上げられた書類を前に、オレは尋ねた。家庭教師のように横に寄り添っているアシュタロトが説明する。 「これは機密保持契約書、それから無原罪の聖処女である権利を放棄するという契約書。そっちは救世主の出生について責任を放棄するという委託書。万一、ミッションに失敗した場合の賠償責任を放棄するという承諾書もあるわ。悪魔は権利関係にとても敏感なの。おかれている環境が苛酷だから、温室育ちの天使のようにどんぶり勘定でビジネスを進めないわ」 「はあ。しっかりしてるんスね」 「そうよ、地獄にはちゃんと大法官もいるわ。六法全書もある。なんでも神が定めた『運命』で片付ける天使とは違うのよ」 「理詰めッスね」  オレは捺印とサインを待っている書類をめくる。第何条、第何節と長々しく難しい条文が並ぶ。正直、『リリララルルラ』で万事を解決しようとするジブリールより信用できそうな気がする。ただ、こんだけ書類があると、中に『オレの生命の保証をしない』という条項も入っていそうで怖い。 「大丈夫よ、クライアントの身の安全は保証するわ」  アシュタロトがペンを差し出す。 「これらの書類について説明するわね。自覚はないだろうけれど、あなたの魂は聖なる処女として、無原罪の神の祝福を受けている。かいつまんで言えば、悪魔との契約によって、その祝福を放棄して今後は普通の人間の魂になる。それだけよ」 「無原罪ってなんスか」  聞いたことのない言葉に首をかしげると、アシュタロトが解説してくれる。 「罪のない魂ってこと。いま人類で無原罪は三人しかいないわ。人は楽園を追放されたときに罪を背負ってしまった。けれど、救世主の両親は無原罪として人類普遍の罪を背負っていない。その代わり、過酷な宿命があるのだけれど。だから、救世主の両親は必ずしも幸せな生涯を送るとは限らない。救世主自身が死ぬこともあるのだから、神の定めた運命の過酷さは推して知るべしね」 「罪がないのに、人並みに幸せになれないんスか」 「なれないわね」 「じゃあ、罪がないってことのメリットってないんスか」 「死ねば、無条件に天界へ行けるわ。天使よりも近く、神のそばにいることができる。それくらいかしらね」 「てことは、普通の人間になったら、地獄へ堕ちる可能性もあるってこと?」 「それはあなたの心がけ次第ね」 「うーん」  オレは悩み始めた。ジブリールの提案する人生は大却下だ、それは間違いない。どっちを向いてもNGだし。けど、絶対に地獄に行かない権利というのも、希少価値はあるかもしれない。地獄は嫌だ。 「考え方を変えてみたほうがいいわ」  悪魔はアドバイスする。 「あなたの愛する人間と同じ、普通の人間となる。そういうことよ。普通の人間はみんな自分の罪の重さによって、地獄行きかどうか決まる。自分の行動の責任を取る。当たり前よね。ただ、あなたと救世主の父親は特例扱いだった。でもそれって、本当の幸せかしら。愛する人間はみな地獄へいくかもしれないのに、ひとりだけ栄光に包まれて神の傍らにいて、幸せかしら」  悪魔はペンを置き、人差し指を立てる。 「たとえば、君の親友の平岡君。彼は救世主の父親だから、無原罪よ。死ねば、間違いなく天界行きね。だけど、平岡君の両親や将来、平岡君と結ばれる妻となる女の子はこのままなら普通の子、無原罪じゃない。人間は誰しも罪を背負い、また罪を作り、後悔し、贖っていく。平岡君自身は天界行きでも、親御さんや奥さんになる子は天界行きかわからない。それで平岡君は幸せかしらね?」 「うーん……」 「これは君自身にも言えることよ。仮に君が男性のまま、ドリトル先生みたいな獣医師になって、かわいい奥さんと結婚して、かわいい子どもを作って、やがて天寿を全うして死ぬ。君は天界行きだけど、かわいい奥さんとかわいい子どもたちは普通の人間だから、地獄へ行く可能性がある。君だけ天界へ行って、果たして、それで君は幸せなの? 愛するものと一緒にいることこそが幸せではないの?」 「ううーん……」  深い。アシュタロトが言うことは深すぎる。これは安易に契約書にサインできないし、かといって未だに部屋の隅っこで泣いているジブリールの手を取ることもできない。 「なんつーか、オレって自分がどんな立場か、ぜんぜんわかってなかったんスね。無原罪とか。救世主、出産、純愛のことばっかり言われていたけど、オレ自身がどう決めるかで物事がガラッと変わる」 「そうよ。君はいま、人生の大転機にいるのよ。今までは、そのあたりのことは全部、あの」  アシュタロトの指がジブリールの背中を指さす。 「役に立たない天使が適当に説明して、君は運命を受け入れて妊娠・出産する。そういう流れだったの。実際、前回もその前も、君はジブリールの言葉を受け入れて救世主を出産しているわ。でも、それって天使や神の都合で決め付けられた説明だった。聖処女となった君が失うものや、得られないものについてはなにも言わなかった。君はただ、人類のために、その身を捧げてきたの。自分が幸せになるとか、そういうことは全部犠牲にして」 「人類のために、犠牲になる……」  フランスのあの少女は魔女扱いされて、最期、火あぶりになっていることはオレも知っている。あれがオレの前世なら、そりゃ平凡な幸せとは程遠い人生だ。勇敢で偉い人生かもしれないけど、オレは今は普通の中学生で、勇敢でも偉くもない。勇敢で偉い人と同じ選択をしろと言われても、困る。 「アシュタロトさん、ちょっと考えさせてもらっていいッスか」  オレは、額をこすって交渉する。 「これからのオレの選択によって、オレの人生って劇的に変わっちゃうでしょ。真剣に考えたいんス」  黒衣の悪魔は自信たっぷりに微笑する。 「わたくしはかまわないけれど、あの純愛ハーレムのメンバーの行動力を考えれば、あまり時間はなくてよ。三時間以内に君のこの部屋を襲撃するでしょうね」 「それはわかってるッス。けど、やっぱ、考えたい。今まで振り回されてばかりでぜんぜん考えることができなかったから。アシュタロトさんが情報をくれて、教えてくれて、オレの考えもだいぶ固まってはきてるんで、そんなに時間はかからないと思うんスけど」 「いいわ」  アシュタロトはスーツの背中から黒い翼を広げて浮かび上がり、天井に手を着く。 「その気になったら、契約書にサインして。サインしてくれれば、自動的にそれがわたくしにも伝わって、君の選択に協力するわ」  ゆっくり、天井へ姿を消していった。 「ありがとうございます」  オレは一礼し、学習机の前に座りなおす。  これは大変なことになった。人類の運命も大問題かもしれないが、それ以前に、オレの人生が大問題だ。  ひとりだけ、無原罪の祝福の元、ずっと天界へ行き続けるか。  普通の人間になって、地獄行きの可能性を抱えたまま、生きるか。 「でも、普通の人間って誰だって、地獄行きの危険性はあるんだよな」  悪いことをしたら、地獄へ行く。考えてみれば、それは当たり前だ。なにをしても天界行きの切符を持っているほうがレアケースだ。 「そんなことないお!」  アシュタロトが消えた途端、元気を取り戻したジブリールが立ちあがった。 「人類はみんなボスの思うように、強く、正しく生きることができたら、全員だって天界へ行けるお。天界の門はいつだって開かれているお。けど、人は罪を犯して自分から地獄へ堕ちていく。それは人自身の選択で」 「けど、偉くて強くて勇気ある正しい人ばっかりじゃないだろ」  オレは指摘した。いままで聖処女として生まれて育ってきたころはわからなかったかもしれないが、今の普通の中学生のオレにはわかる。普通の、偉くて強くないオレには、天界の門の狭さがわかる。 「ひとりの人の中にも、勇気も弱さもある。それを正しいかどうかだけでぶった切って、地獄行きか天界行きか決めるのって、ひどくね? だったら、初めッから、人類に弱さなんて与えないで、ただ強く偉い勇気ある人間だけにすればよかったんじゃね? 選択権と弱さを与えておいて、それでいて正しくあれっていうのは、ハードルが高すぎじゃね?」  ジブリールは愕然としたようすで、 「聖なる処女のキミが、ボスを批判するお?」  と訊いてきた。オレは首を傾ける。 「批判するっていうか、おまえのボスが人類になにを期待しているのかがわからない。正しくあってほしいなら、いっくらでも正しい人間作ればよかっただろ。弱い人間なんて排除して。それこそ、聖処女だって自由意志なんか与えないで、ただ救世主を産ませれば良かっただろ。自分の思い通りにしたいのなら」 「違うお、ボスは人類の善意と勇気を信じてるんだお! 人が自ら善を選ぶ、それを待っているんだお!」 「だから、それが過酷なんだって。弱いやつのことも考えてやれよ。偉くない人の心も考えろよ」 「だって、だって」  ジブリールの目が潤んだ。 「ボスが愛した人類は、きっといつか、全員が善なる心が目覚めて、自ら天界の門を開くはずだから……」 「そんな保証がどこにある」 「保証?」  迷子のような顔でジブリールが聞き返した。オレはしかめ面で繰り返す。 「弱い人間、罪を犯してしまう人間も必ず善に目覚めて天界へ行けるっていう保証。オレにはそんなものないようにしか思えない。だってオレ自身、弱くて、偉くないから。今まで一度も罪を犯したことがないって思えないし、そりゃオレは無原罪のパスポート持ってるから何したって、救世主を産みさえすれば天界行きなのかもしれないけど。もし無原罪じゃなかったら、オレだって、地獄行きかもしれない」  天使の眼から涙がこぼれた。 「……キミには、人類の救いの希望が、見えないお?」 「そんなもん、見えない」 「……キミ自身が、人の希望の象徴なのに……?」 「そんなこと言われても、困るだけだ。オレは嶋本静流、獣医になりたいってだけの普通の男子中学生で、人類全員の善意を信じろとか見ろって言われても、見えない。見えねえよ、そんなもん」 「そんな……」  天使は絶句して、それからグシャグシャな泣き顔のまま、足元からスーッと透けて見えなくなった。 「おい、ジブリール!」  あわてて叫ぶと、声だけが降ってきた。 「キミが希望を持てないのなら、救世主を産むことをは無理だお……」 「あきらめるのかよ?!」 「……あきらめるお」  今まで、あれだけしつこかった天使が声だけになって、聞きわけがよくなって応える。 「キミが人の善を、強さを、信じられないのなら、絶対に救世主を産むことはできないお。だって、キミこそが人の希望の象徴、救いの象徴なんだお。無原罪は誰にでも与えられるものじゃないお。選ばれた魂にしか与えられない究極のボスの愛だお。それを……信じられないなら、もうキミはなにも信じることはできないお」 「……オレが、なにも信じることができない……?」  ジブリールの言葉に、オレは胸を撃ちぬかれる。さっき、オレはなんて言った?  ――……キミには、人類の救いの希望が、見えないお?  ――そんなもん、見えない。 そりゃそうだ、世の中、強くて正しい、勇敢な人間ばっかりじゃない。ひとりの人間の中だって、弱さと強さが同居している。だから、オレには、便利で偉い救いの希望なんて見えない。  けど。  ――人類全員の善意を信じろとか見ろって言われても、見えない。見えねえよ、そんなもん。  もしオレの意見が正しければ、人類に希望なんてない。  それでいいのか。  希望がなくて、いいのか。  明るい未来という夢がなくなっていいのか。殺伐としてしまうだけだったら、オレの獣医というささやかな夢や、奥さん、子どもといった、平凡な理想も砕けて消える。だってそうだろ、どんなに愛して結婚しても、奥さんは弱さからオレを裏切るかもしれない。子どもはオレを殺すかもしれない。そんなニュース、世の中にはあふれてる。ありふれている。  でも、そんな世の中でも、オレが自分の夢に無我夢中でしがみついてるのは、なんでだ。  願えば、かなうと思っているからだ。努力すれば、かなうと思っているからだ。まったく望みがなかったら、希望がまったくなかったら、なにをする気にもならない。ただ虚無があるだけだ。  ――だって、キミこそが人の希望の象徴、救いの象徴なんだお。無原罪は誰にでも与えられるものじゃないお。選ばれた魂にしか与えられない究極のボスの愛だお。  選ばれた魂にしか与えられない、愛。  選ばれたオレ。今の弱くて偉くないオレも、前世の強くて勇敢だった彼女も、その前のつつましくて芯の強かった女性も、みんな全部、オレ自身で、弱さも強さもオレ自身で、それをすべてを知った上で、『ボス』がオレを選んで無原罪にしたのだとしたら。『ボス』は人間の弱さを肯定していない。けれど、否定もしていない。  ――だって、キミこそが人の希望の象徴、救いの象徴なんだお。  強くも、勇ましくもない、平凡なオレが、希望の象徴、救いの象徴なのだとしたら。  だったら、まだ、人類の未来に希望をもてるんじゃないのか。  弱い人間もあきらめなくていいんじゃないのか。  弱いオレ自身が、証明になるんじゃないのか。保証になるんじゃないのか。  弱いオレだって、救われるのなら。  オレは手をのばし、悪魔が残していった書類の束を取る。一枚一枚、丁寧に目を通す。法律的で意味がわからない文章も多い、けど、この書類が自由への切符だった。普通の人間になる唯一の機会だった。  けど、弱いオレが選ばれなかったら、その他の弱い人は誰も、全員、選んでもらえなくなる。救われなくなる。オレに自己犠牲の心なんてない。人間の善を無条件で信じることなんてできない。  ただ、オレは、  自分自身の中の夢見る気持ちを、弱さを肯定したい。  ゆっくりと書類を破る。破る端から、書類は赤く燃え上がって消えていく。  ――残念、今回はお取引が成立しなかったようね。  アシュタロトの色っぽい声が聞こえた気がした。  ――いつかまた、きっと、いいお話をできる機会があると思うわ。  そうだろうな。きっと、オレは悪魔にすがりたくなる瞬間があるだろう。それは、天使に相談するよりも多い回数だろう。悪魔が持ってくる話は魅力的で天使が持ってくる話は過酷なものばかりだから。  でも、 「オレは、ぜってー、自分からあきらめたりしない」  言い聞かせた。 「オレはぜってーに、簡単に夢をあきらめたり、安く流されたりしねー」 「やっぱり、キミはわかってるんだお!」  突然、目の前が爆乳で埋まった。 「信じていたお! キミが人の夢見る強さを知っているって、ジブリール、信じていたお♥」 「なっ……」  オレは、オレの頭を胸元に抱え込んでなでまわす天使の手を邪険に振り払う。 「おまえ、天界へ帰ったんじゃなかったのかよ?!」 「帰るわけないお、ジブリール、信じていたから♥」  現れた天使は翼をバッサバッサはためかして笑う。 「ウソつけ、さんざん泣いてたじゃねえか!」 「泣いてないお。戦略だお」 「戦略ぅ~?! おまえ、あれ、ウソ泣きだったのかよ?!」 「ジブリールは天軍の副将軍、大天使次長だお」  えへん、と爆乳が突き出される。 「魔王のひとりに負けたりしないお♥」 「おい、おまえの今までの行動が全部、その戦略とやらの賜物だとしたら、オレはおまえを絞め殺すぞ」 「なんで~?」 「オレの人生をグチャグチャに不幸にしといて、よくも戦略なんて単語が出てきやがるな!」 「不幸じゃないお、誰にでも愛される幸せな人生だお♥」  大天使は座りこんだオレの前にかがみこみ、両手を胸元で交差させる。 「恵まれた方、あなたに神の恩寵が下りました。ジブリールがあなたの純愛をかなえます♥」 「かなえるんじゃねえ!」  オレの渾身の絶叫も、エヘヘと笑う大天使にはまったく聞こえていないようだった。
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