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第一章
……俺は夢を見た。
雨と霧。
視界がぼやけていた。
木々の間から垣間見れる黒い異形の姿。
異形は黒いシルエットに包まれた人らしき影を見下ろした。
人らしき影は、なにやら黒い影に怯えて足を震わせていた。
同時に、異形の姿をした者は手を開いて黒い影の首と思わしきところに掴み始め、黒い影は必死にもがいている。
やめろ。
俺は状況もわからずに、その言葉を発していた。
声は届かず、黒い影の体はゆらりと地面に身を投じた。
そして、手を離した異形の者は意識がないことを見定めたのか、人らしき影から手を放して俺を見つめた。
来るな。
そう言葉を発したが、声は喉の奥で止まっていた。
俺は愕然としていた。
その姿を眼にも止めずに、こちらに近づいてくる。まるで人を狩るような殺人鬼のように堂々としていた。
来るな!
俺は必死に異形から離れようと、反対側の奥に茂みに必死に走り出した。
だが、異形は走り出すこともせずに歩みを進め、俺に近づいていく。
頼むから来ないでくれ!
だが、その声は届かず。
既に、異形は間近に迫っていた。
俺の鼓動は、止まらなかった。
やめてくれ!
もう駄目だ。
異形は雷が叫ぶと同時に、雄たけびを上げた。
手遅れだ。
その時、確信した。
激しい雷騰。
雨は降り続けていた。
――夢
四月十九日の午後十六時。
か。
天(てん)河(かわ)学園高校探偵部の早川(はやかわ)健人(けんと)は目を覚ました。
きっと授業が終わって早々、探偵部の部室に向かって寝ていたのだろう。
ちなみに探偵部というのは、公式の部活ではない。勝手に健人が作った部活だ。
健人は左から後ろ、右に首をゆっくりと動かして、腕をあげる。そして学生服の袖を直して近くの手鏡の傍まで顔を近づける。そういやこの手鏡、持ち主は? そんなこと思いながら指先で少し長めの髪を整える。
「こんなもんかな」
仕上げに学生服のネクタイを軽く締める。
「しっかし、なんかこう……違う……」
健人は部屋を見渡して、不平不満をこぼす。
手鏡もそうだが、見た通りに飾り気のない、何の変哲もない部屋だ。木製の幅百八十センチの長机に椅子、そして健人が某通販で購入したセラミックコーヒーミルとコーヒーメーカー。後は前に部室で余っていたノートパソコンと紙コップやら印刷用紙やら。
「俺にはもう、コーヒーしか信頼を築けないのか……」
コーヒーメーカーの水タンクを手に取って、紙コップに注ぐ。
「うん、美味だ」
健人はキレのあるキリマンジャロブレンドを口に含み、その味を堪能していると後ろから肩をぽんっと叩かれた。
「何が美味なんですか?」
現れたのは身長百六十センチ(ぐらい)のおかっぱ髪の小柄の少女。
名前は雪野雪子。
自称母親の教育により、完璧な礼儀作法を身につけているとかなんとか。でも成績優秀なのは確かで、身なりもそれっぽいからあながち間違っていないかもしれない。
そしてなにより探偵部の常連だ。
一週間前、いやもっと前の話だろう。
突然、遊びに来たのだ。
最初は茶化しに来たのかと疑っていたのだが、どうやら雰囲気から察するに単に遊びに来ているらしい。
まあどちらにしろ、今は貴重な客だ。
それに何かいいことありそうな気がしてならない。上手くは伝えられないが、幸運を持ってくるような女性に違いない。
探偵としての直感だ。
「……ああ、お前か……」
「新しい依頼主か……とか思ったでしょ?」
少女はくすっと笑い、鞄を机の上に置く。
「わたしもコーヒー、貰いますね」
健人の隣の空いた椅子に座って紙コップを取り、水タンクに残っているコーヒーを手慣れた感じで注ぎ始める。
今思うと、コーヒーやら紙コップやら。俺と雪子しか使っていないのだ。本来依頼主用を接待するために買ったのだが。そう健人は黙々と思った。
「頂いてもいいですよね?」
「いいよ」
注いでから言うな、と言いたかったが、飲み干せるようなコーヒーの量では無いからよしとした。
「コーヒー好きなのか?」
「まあ、嫌いではないですよ? 落ち着きますからね」
「そう」
二人は椅子に座って、淡々とコーヒーを飲み干した。
「もう一つ聞きたいことがあるんだけどさ……」
健人は机の上に紙コップを置いて、喉まで届いた言葉を一瞬だけ考えた。聞いていいのか悪いのか、と。
「なんです?」
「どうして、ここにいるんだ?」
率直な疑問を発した。
結局言葉に出してしまっていたが、言わずにはいられない。
「そうですね……興味があったからじゃ、だめですか?」
呑気に言う雪子。
「あっ、いや、ただ聞いただけだ」
「わたし、邪魔でしたか?」
「だから、ただ聞いただけだ。それに邪魔とは言っていない」
「そうでしたか……よかった!」
雪子は両手を合わせて、にぱっと笑って見せた。
その笑顔はとても可憐で、目視した男はこの瞬間、一目惚れしてしまうだろう。けれどそれは健人の心の中で留めた。
「あの健人さん、学園の地下室の話、聞いたことあります?」
「そうだな。地下室か……聞いたことがある。幽霊が出るとかなんとか言ってたな。死んだ父親が話していた記憶がある」
「ごめんなさい! 余計なこと言って……!」
「昔の話だ。それよりも地下室で最近妙な話を聞いたな」
健人は顎に手をあてる。
「ええ。生徒が一人、また一人と消えていく話ですね」
「実に胡散臭い話だ」
「ですね」
雪子が頷くと合わせて、扉の奥からトンっと音が鳴った。
「何か音がしませんでしたか?」
雪子はきょとんとして健人に言った。
「ああ」
久しぶりの依頼か、という期待は半ば捨てて、健人は腰を上げた。
「さて、何が来たのかな……」
扉に近づくと、一通の手紙が間に挟まれていた。
健人は手紙を持って、机の上にあるペーパーナイフで開封する。
「明日の午前十時に生徒会室に集まってください……早川健人殿……俺宛の手紙か」
部室にいるのは健人と雪子だげた。当然といえば当然だ。
集まる?
ほかの生徒たちも来るのだろうか。
生徒とも限らないか。
健人は手紙を注意深く拝見する。
「送り主は誰です?」
「わからん」
「怪しいですね」
雪子は眉間にしわをよせて、人差し指を顎にあてる。
その様は実に可愛らしく、キュートだったことは本人には言えない。
「とりあえず、これは俺の仕事だ」
「明日、行くんですか?」
「まあな。無視するわけにはいかないしな」
「でも、明日土曜日で休日ですよ?」
「仕方ないさ。それにこういう機会は滅多にないんだ。面倒な誘いは嫌いだが、こういうミステリアスな誘いは嫌いじゃない」
「なにか楽しそうですね」
「遊びじゃない」
「ごめんなさい。でも、いつもと違って楽しそうだなって思いまして」
雪子は笑うと、何故か心が無になっていく健人だったが、すぐに咳払いして手紙を上着の胸ポケットにしまい込む。
「あの……」
「うん?」
「わたしもついて行ってもいいですか?」
「駄目だ」
「どうしてですか」
雪子は反発する。
まるで親に駄々をこねる子供みたいな表情で、健人を見つめた。
眉毛が上に上がっているのがどうもまた可愛らしいかった。それが雪子に見つめられた健人の素朴な感想だった。
だが、それとこれは別の話だ。
「駄目のものは駄目だ。これは俺宛に来た手紙だ。連れて行くわけにはいかない。ましてこんな怪しい話に巻き込まれる必要がない」
「そうですか……そうですね」
食い下がるのかと思いきや、雪子は引き下がってしまった。
少し意外だったが、納得したのならいいだろう。
「明日は学校休みなので、おとなしく家に引きこもってます……」
テンションの低い声で、雪子は鞄を膝の上に置く。
そして、そっと溜息をこぼしていた。
「わかればいいさ」
健人はそう呟いた。
四月二十日の土曜日。
午前九時三十分。
教室の時計を確認して。こっそりと三階の奥にある生徒会室を目指して歩き出した。念のため、人に出会わないように用心する。
校庭のテニスコートで自主練しているテニス部たちがいるから、大丈夫だろうが。
そう考えて三階にのぼると、右肩をとんとんと叩かれる。
一瞬だけ健人の背筋は凍りつくが、すぐさまに落ち着きを戻して用心しながら後ろを振り向いた。
後ろに立っていたのは昔の同級生、田島(たしま)英太郎(えいたろう)。
中学時代で同じクラスの男性だったが、正直あまり会いたくない人物のひとりだ。というよりは基本、昔の知り合いとは会いたくないスタンスを俺は取っている。
それにこいつは昔から陰湿な行動が多く、無駄なちょっかいを出してくる。いわゆる中学時代にいるガキ大将みたいな人物だ。
「よう」
「ああ」
英太郎の挨拶に、健人は平然を装って適当に挨拶を交わす。
「お前、ここの学校に入学したんだな」
「まあな」
「ところでお前さ。部活入ってるのか?」
「部活? 一応な」
「探偵部だろ?」
「なぜわかったんだ?」
「察しがつく。それよりこの手紙、お前も持っているんだろ?」
英太郎は上着のポケットから健人と同じ手紙を取り出して、健人にひらひらと見せつ
けるように見せた。
てっきり探偵部についてとやかく言ってくるのだろうと覚悟していたが、そんな考えを巡らせる暇はなかったようだ。
「じゃあ、手紙はお前が?」
健人は英太郎に指をさす。
その様を見た英太郎は、何故かクスクスと笑っていた。
気分は悪いが、今さら気にしても仕方ない。
「確かに探偵部の扉に差し込んだのは俺だ。でも書いたのは俺じゃない」
「それじゃあ誰が書いたんだ?」
「さあな。昨日の十二時……昼休みか、俺が教科書取りにロッカーに行って、丁度鍵を落としてな……その時だったかな。美人の女教師が鍵を拾ってくれてよ。ついでに手紙を二通貰ってさ。最初はラブレターかと思ってビビったんだけど一通は探偵部にって聞いた瞬間に興覚めしちゃったよ。でもさ、俺は運命だと思ってんだよ。きっとこの手紙は俺とあの先生の運命の赤い糸的なものだと思っているよ。あっでもお前の手紙は違うよ。バレンタインデーでいういわゆる義理チョコみたいなものだよ。だってさ……俺、結構見た目には自信があるんだ。それにコミュ力は高いと思うんだよね。東京に着いたときスカウトされてさ――」
「わかったわかった」
「何がわかったんだ?」
「理解したから、これ以上は言うなということだ」
これ以上、話が続くと埒が明かない。
健人は考えた。
「お前さ……相変わらずきもいな」
突然と、英太郎は言った。
きっと思考タイムに走った健人を見て、素直に感想をもらしたのだろう。
「はは……何も言えん」
こんなに減らず口だとは思わなかったが、情報が得られたからよしとしよう。健人は前髪をつまんで口を開いた。
「やっぱり……」
きっと女教師の名前を尋ねたところで、こいつは知らない。そう考えた健人は前髪から手を放した。
「いいや」
「そうか? じゃあ俺は忙しいから先行くわ」
英太郎は口元をにたにたさせながら、健人より先に生徒会室に向かった。
目的地は一緒なのに忙しいもないだろと、健人は呟いた。
隣の教室の時計を見て、時間を確認する。
「四十五分か……まだ時間があるな……」
人の通りが少ない珍しい学校内を少し探索して回った。
午後十時。
健人は生徒会室の部屋に入室する。
薄暗く、気分を憂鬱にするには持ってこいの部屋だ。
決して快適な部屋とは程遠い。
「あれ、誰もいない……英太郎はもう帰っちまったのか?」
健人は周囲を見渡した。
生徒会室は探偵部と同じくらい、それ以上に古い印象がある部屋だった。黒板と掃除用具の棚、乱雑に片づけられた長机とパイプ椅子。そして視覚で見えるぐらいのホコリがちらほらと見え隠れしている。ここの生徒会室はずっと放置され続けられていた。
役員決めで生徒会という組織自体は存在している。おそらく別室で会議が行われていたのだろう。
この部屋で会議というのも酷なものだ。
健人が扉を閉めると、かちっと音が鳴る。
「ちょっと! 閉じ込められたとかじゃないよな?」
健人は扉を開け閉めしても、びくりともしない。
おそらくオートロックが仕掛けられていた。
「おっおい!」
健人は焦りを見せる。
やはり扉に鍵が掛けられていた。きっと単純に健人を閉じ込めるための、意図的なものに違いない。誰かが仕組んだと推測するしかなかった。
「俺に恨みでもあるのか……」
ぼやいていても仕方ない。
ここは行動あるのみ。
健人は扉を思い切り壊そうかと考えたが、後で弁償しろと教師が集まってきては面倒だ。まあ本来、一番手っ取り早く助かる方法かもしれないが。
「おい! 誰か開けてくれ!」
扉をノックするが、案の定今は学校が休みである。当然人通りが少ないので希望薄である。
つまり、俺は生徒会室に閉じ込められているということだ。
古典的な罠にまんまとしてハマって、なんともいえない感情が湧き上がってくる。怒りと虚しさ。どちらかというと虚しさのほうが強いかもしれない。
仕方ない、待ちながら別の方法を考えるか。
椅子に腰をかけた健人が物思いにふける途端、また扉が音が鳴りだした。
「健人さん!」
少女の声が聞こえる。
のんびりとした声と焦りが混じる声が、室内にいる健人にも充分伝わっていた。
「無事でしたか?」
雪子だ。
健人は安堵する。
「ああ。助かった。しかし、どうしてこんなところに……」
「驚きましたか? 実は健人さんの後をつけたんです。トイレの途中、見失ってしまったんですけどね」
雪子は顔に恥じらいの色が溢れているのにも関わらず、そう言ってのけた。
「それにしても、どうしてついてきた?」
「それは……」
雪子は一瞬だけ考える。
「気になったからです」
胸を張って、言ってのけた。
「まあいい。それにしても英太郎の奴、どこ行きやがったんだ。会ったら懲らしめてやる」
俺を閉じ込めたのは英太郎だ。
あの手紙も奴が仕組んだ罠。
最初の目撃者が英太郎だけという理由で、健人はそう思い込むようにしていた。
そうしないと、なんだか気が晴れなかったのだ。
「帰るか」
「待ってください」
雪子は指をさした。
視線の奥、生徒会室の乱雑された椅子の下に小さな扉を発見する。まるで怪しいですよと言わんばかりの扉だ。
「あれ……明らかに怪しいですよね?」
「確かに……本来の目的はこっちなのかもしれないな」
「気をつけたほうがいいかもしれませんね」
「だな」
二人は、乱雑された椅子を横によせて、扉の蓋を開けた。
午後十一時半を過ぎていた。
健人と雪子は扉の奥へと突き進み、暗い階段を慎重におりていく。
ひょっとしたらコウモリでも潜んでいるんじゃないかと思わせるような雰囲気だが、さすがに出くわすような事態にはならなかった。
そして、学園内と比べると、涼しくて、気温に関しては案外快適かもしれない。また、地中にであることも含めて、一般湿度は高い感じがある。
「こんなところに地下通路があるなんてな。もしかしてここが噂の学園の地下室かもしれないな」
健人は所々興味深々の様子で上を中心に見渡す。
「そうかもしれませんね。それにしても……結構深いですね」
「まさか死体が埋もれているとか、そういう怖い話じゃないだろうな」
「冗談でもやめてください!」
「悪い……でもあまり大声出さないほうがいいんじゃないか?」
「それは健人さんが悪いんです」
雪子はむすっと頬を膨らませて、懐中電灯で当たりを手探りに照らし始めた。
「やっぱり広いですね……健人さん」
「今のところ、なにもないけどな」
天井や足元を確認していた健人は溜息をこぼして、凹凸の激しい壁に寄りかかる。同時に雪子の足が止まる。
「あれ……」
雪子は先頭にいる健人の右肩をたたく。
「なんだ?」
健人は振り返る。
「奥に小部屋があります」
雪子が小声で言った。
「行ってみるか……危険だったら引き返す」
「はい……」
二人は恐る恐る小部屋に入り、もう一度雪子から借りた懐中電灯で健人は周囲に明かりを照らした。
「個室みたいだな。それにしても埃臭いな……」
古びた黒板や椅子、探偵部や生徒会室にある部室品が一式そろっていた。恐らくここも授業の一環として使われていたのだろう。
「痛っ!」
雪子はなにかに触れて、手を反射的に放した。
「どうした!」
「このペンダント触ったら急に痺れが……」
雪子は警戒心をあらわに、不安な声を出した。
「離れてろ」
健人はズボンの左ポケットからハンカチを取り出して、利き腕じゃない左手でペンダントを掴む。
「何もないじゃないか」
「でもさっきは確かに……もう一回、触れてみますね」
雪子はそっと人差し指で触れた。
だが、ペンダントは反応を示さなかった。
「あれ? 何も起きませんね……」
「不安が強まってたからじゃないのか?」
「そうかもしれませんね」
「特にめぼしいものはないし、帰るか」
「結局原因はつかめませんでしたけど」
「でも、犯人はだいだい予測つく」
「英太郎さんですか?」
「ああ。奴に違いない」
「果たしてそうでしょうか?」
「違うのか?」
「どうでしょうね。私もまだそこまではわかりません」
「なんだそれ」
健人はその時、一瞬だけ胸騒ぎと悪感を感じた。
四月二十日。
俺は夢を見た。
雨の音。
俺が異形になる姿。
そして闘い――
「健人さん」
名前を呼ばれたような気がした。
天河学園高校にたどり着く五分前。
登校中、ばったり会った。
雪子はいつもの清楚な雰囲気を保ちながら軽快な歩きで、鞄を両手で持って健人に話かけてきた。普段よりも元気な感じはあると思うが、如何せん最近知り合ったために雪子の普段はまだわからない。
「おはようございます」
「おはよう」
丁寧にお辞儀する雪子。
それに合わせて軽くお辞儀する健人。
なんかこういう朝はいいな。そう心の奥底で健人は思っていた。
「朝、こうして出会うの初めてですね」
「部活以外、会ってないからな」
「でも、私は会ってましたよ。健人さん」
「いや、少なくても部活以外俺は君と会っていないが……気のせいじゃないのか?」
「気のせいじゃありません!」
雪子は大声を出した。
「朝から大声を出すな。みんな見てるだろ?」
「すみません」
雪子は恥ずかしそうに咳払いする。
「探偵部以外の場所で――本当に私を見てないのですか?」
「見てない」
健人は即答する。
「ほら、隣のクラスと合同授業で一緒になりましたよ? 美術の時間に」
「ってことはB組だったのか」
何故気づかなかったのだろうか、自分でもわからなかった。決して人に無関心というわけでもないし、かといって関心があるわけでもない。(どちらかというと関心はないほうだ)ひょっとしたら俺には探偵の才能が無いのかもしれない。
もしかしたら俺よりも――
健人は雪子の顔を見る。
「ふふっ」
雪子は口元に手をかざして笑った。
「それはそうと、報告があるのです」
「報告?」
「報告です」
雪子が少し真剣な眼差しで健人を見つめた。先に報告するべきだろと健人は思ったものの他愛もない会話が思わず弾んでしまった。
まあそれはいいとして。
「英太郎さんが今朝、死体で見つかったようです」
「えっ!」
健人の声がひっくり返る。そして周りの生徒も反応して健人と隣の雪子を軽蔑するような眼差しで見つめてきた。
二人は動揺して、雪子は口をひらいた。
「健人さんこそ、変な声出さないでください!」
「わっ、悪い……」
素直に謝る健人は、何故か襟袖をぴしりと伸ばして制服の身だしなみを気にし始めた。特に乱れていたわけではない。たぶんそういう一種の癖なのだろう。
気を取り戻して健人は雪子に目を向ける。
「英太郎が死んだって……」
昨日はあんなに意気揚々としていた男が――
邪な考えを口にするところだったが、口には出さず心にも思わないようにした。亡くなった相手にそう思うのはできるだけ控えておかなければならない。でないと人してのマナーというより己のプライドというべきか。負の心は抑えなければならない。健人は自制心を持つように心がけた。
「本当なのか?」
雪子は頷いて口を開けた。
「はい……今朝のニュースで見たんですけどね。死体は仰向けに白化した状態で倒れていたようです」
「つまり、死因がわからないってことか……」
健人が言うと、周囲は田島英太郎の話題で持ち切りだった。
「ねえねえ。見た? 昨日のニュース」
「みたみた。隣のクラスの田島英太郎って人、死んだんだって」
「うそ~~私、結構タイプだったのに~~」
「えっ! 私はちょっと……勘弁」
通りすがりの女子高生の噂を耳に、雪子は難色を示していた。
「あまりいい気分ではありませんね」
「そうだな……」
健人は雪子の歩く速度に合わせると、もう玄関先へとたどり着いてしまっていた。たぶん話こんでいる内についてしまったのだ。
「ねえ、あれ見て!」
高い女性の声が響き渡る。
「雪子の声か?」
「わたしじゃありません! わざとでしょ?」
雪子は健人を見上げた形でにらみつける。
健人はしょんぼりと肩を落とした。
我ながら学生相応の悪ふざけをしていた。
「すまん。でも一体……何が起きてるんだ?」
気を取り戻した健人は謝罪を口にし、状況確認のために周囲を見回す。生徒たちは皆、広い玄関前のサングラスを着用する黒のジャケットの男を見て、スマートフォンのカメラ機能で激写する。
暑苦しく感じたのか、男は黒いジャケットを脱いで腰に巻いた。
黒いジャケットの下にはネイビーでまとめたワントーンコーデ。リラックス感の強いアロハシャツでまとめてシックな印象に仕上がっているが、どこか個性的な印象を与える男性だった。
しかし、怖そうな男が近くにいるってのに呑気なもんだ。
「通してくれ……!」
続々と生徒たちの人だかりが出来て、健人と雪子はかき分けるように前へと入り込む。
「あの人、ここの生徒じゃありませんよね?」
「ああ」
「それにあれ……あのペンダント、健人さんが持っているのと似ていませんか?」
雪子は男の首に下げているペンダントに指をさした。
それを見たのか、サングラスの男はこちらを一瞥し、
「おいおい。やっとおいでなすったか」
健人に向かってゆっくりと歩みだした。
サングラスの男、こいつは危険だ。
上手くは言えないが、只よらぬ雰囲気を醸し出していた。証拠に健人の足元が震えている。
「ここは学校だ」
「わかってるさ。それぐらい」
「それじゃ、一体何しに来たんだ?」
「人が恋しくてな……学校だと目立つだろ?」
サングラスを外して、空を見上げる。
「はあ?」
「ソーシャル・ネットワーク――SNSっていうんだけ? そのサービスを活用して面白半分に俺の画像やら動画やら取って晒してくれるんだろ? これだったら迷子になっても安心だな」
「迷子?」
「だってそうだろ? でもねえ……」
男は取り囲まれている生徒には眼中に入れず、木々や建造物、一帯の景色を見るために視線を上げて包括的に眺めた。
「今の世の中、秘密の一つや二つ、持っているほうが、魅力的だとは思うんだけどね。」
「言っている意味がわからないのだが……」
健人の困った姿を見て、男は不適に笑う。
「まあいいや。俺がお前に話しかけている理由、知っているよな?」
男は健人の上着に指をさした。
「これか……?」
健人はペンダントを見せた。
「そのペンダントが何か……知ってる?」
男はにやりとして見せた。
「いや。変なペンダントとは思っているが、どこからどう見ても普通のペンダントだ。お前は何か知っているのか?」
「そうだな」
男はしばらく思考タイムになる。
「そのペンダントには特別な力がある」
「特別?」
「例えると……そう、幽霊見えるとか、急に力が溢れだすとか」
男は軽い口調で言った。
対し、健人は顰めた顔をする。
「力?」
健人は手に持っているペンダントを眺める。
最初に手にしたのは雪子。本人いわくびりびりして手に持つことさえできない的なことを発言していた。
そして次に俺は普通にペンダントを拾う。この時、異常は無かった。あるとすれば普通に触っている俺が異常だという話になるがそこまではわからない。あるいは手に持つことが出来ない雪子が力を持っている話になる。
だが、このペンダントはどう見ても普通だ。よく見ると些細なところに錆が一つ、ついているくらいだ。それと埃と色剥げ。
よく見ても、これ以上はわからない。
「どっちにしろわからないって顔だな」
健人の渋い顔を見た男は言うと、後ろから六人くらいの学校の教師たちがぞろぞろと集まってくる。なんだか大事になってきたようだ。
「わが校の生徒ではないようだね。君のような大人が来るような場所ではない!」
「ひどい言われようだな……俺はまだ学生だけどな」
「うるさい! 帰れ!」
六人の教師の一人、如何にも頑固で風貌の白髪で赤い眼鏡の中年男性がそう叫んだ。そして後ろのふくよかな女教師も「帰りなさい!」と甲高い声で叫ぶ。後ろの教師たちも追撃するように後に続いた。
こうして、健人たちは教師と生徒たちに、囲まれる形となった。
静まったかと思えば、生徒たちもざわめきだした。
指をさして健人たちを笑ってたり、スマホをこちらに向けて写真を撮ったり。ヒーローショーでも動物園でも無いのに。
そもそも動物園って撮影オーケイなのか?
そんなくだらない思考が脳に巡る健人。
「ちょっと目立ち過ぎたか……」
それはそうだろう、という言葉は口に出さず、健人はいかにも掴みかかりそうな勢いのある赤い眼鏡の男教師の肩を抑えた。
「この男はまだ何もしていません。それに、それ以上は色々とまずいですよ。先生にとって悪い噂が流れてしまいます。今の世の中はフロート板ガラスのように破片は飛び散り、風のように遠くへと行き渡るのです。先生もご存知なはずだ」
何を言っているんだ? そう言いたげな雰囲気で場は凍りついたように静まり、一瞬、白けたような悪感を得た。
だが、そんな雰囲気を無視するかのように、教師は健人を突き放した。
健人はその場で尻もちをついて、勢いよく倒れる。
我ながら、情けない。
「何するんだ!」
「うるさい! 貴様も邪魔だ……」
教師は眼鏡を取り外して笑みを浮かべる。
そして、教師の全身に歪みを生じた。
教師は姿を変え、灰色を基調とした蛇のような異形へと変貌した。当然、周囲の教師と一部の生徒たちは四方八方へと走っていった。中にはスマートフォンをかざす怖いもの知らずもいたが、写真を撮ると同時に、一人、二人の生徒が蛇の異形の触手に首を絞めつけて、一気に突き刺された。
健人は驚きを隠せずにいた。
夢で見た異形。
「おいでなすったか……健人って言ったけ? 早く逃げろ! 見た通りやばい奴だ! そして君も!」
「何故俺の名前を?」
健人は間抜けな顔できいた。
「いいから早く行け!」
「でもあんたはどうするんだ?」
健人は蛇の異形から後退りして、距離をとる。
「俺がここに来たのはこいつの正体――幻影(ミラージュ)を暴くためだ。後、ついでに言っておくが、生徒殺しの犯人もこいつだ」
男は灰色の蛇を引き付けるため、蹴りを腹部にいれる。
「生徒って……英太郎がこいつに……幻影ってなんだ? あのペンダントと関係あるのか?」
「後は自分で考えてくれ。探偵なんだろ? 探偵部に戻れ。手鏡を見ろ」
「手鏡?」
「ああ」
男は頷き、灰色の蛇の攻撃から距離を取る。
「後はよろしく。ちなみに俺は木竜一真(きりゅうかずま)だ。こっちを片づけたら話す機械はあるさ」
灰色の蛇は狙いを定め、触手で一真を払い除ける。
一真は傷んだ腕を抑えながら健人に顔を向ける。
「ひどい仕打ちだな……頼むから早くいってくれ!」
「健人さん! 今は言う通りにしましょう」
健人の体を支える雪子にそう言われ、健人は立ち上がって学校の中へと突き進む。
健人と雪子は支持通りに探偵部に向かうため、二階の階段をのぼる途中、健人は走りのスピードを落とした。
「何か引っかかる」
健人は前髪をいじり、思考を巡らせた。
「どうしたんですか? もしかして一真さんですか?」
「それもそうだが……田島英太郎は確か女教師に手紙を渡されたって言ってたな……探偵部に送った手紙もそうだ。もしかしたらあの幻影の協力者あるいは……」
「単に、蛇の教師の代行としてその女性教師を利用して送り届けさせたのでは? 自分の正体を明かさず英太郎も殺害できるはずです。女性の教師が犯人だって健人さんがそう認識させるために」
「ただ英太郎が殺される理由がわからない」
「見られて不都合なものがあったとか……例えば……」
健人は脳裏に映る記憶を巡らせる。
英太郎が向かった場所は生徒会室。
だが、生徒会室には何もない。あるとしたら地下室。そしてペンダント。
「ペンダント……けど、このペンダントになにがあるってんた」
「少なくても私は意味があると思います」
雪子は言った。
「そのペンダント、私には持つことすらできませんし何より特別な力を感じます。もしかしたら英太郎さんも健人さんも何か特別な適正があると考えられますね」
「特別か……」
健人は蛇に変貌した異形を思い出して、二人は再び歩みを進めた。
あのような異形が生み出されたのか理由は不明だが、放っておくことはできない。
夢に現れた異形――人とは違う存在。
他人事ではない気がしてならなかった。
歩いている内に、探偵部は目と鼻の先。
二人は探偵部の扉をあけると、女教師が健人たちを待っていたかのように椅子に腰をかけていた。そして勝手に部室の(健人の所有物)コーヒーを飲んでいた。
「あら。こんにちわ」
女教師は二人を見ると、柔和な微笑みを浮かべた。
名前は江戸川理央。
ざっと見て、長い黒髪に手入れされた眉が特徴。細身でスタイルのいい二十代半ばの女教師だった。隣の雪子に似て似つかない雰囲気の持ち主。無論、そんなことは口に出したりはしないが。
ちなみに担当の科目はわからない。というより、初めて見た顔だ。
「手紙、送ったのあんただろ?」
健人がそう言うと、理央はふふっと笑って足を組みなおした。
「まあ、誰だってそう思うよね。下で化け物が暴れているというのに、私は教師という立場がありながらここにいるもの。優雅にコーヒーを食しているほうが変だわ」
「そうだな。あんたがここにいる事態が変だ。俺たちを頼りに来た様子でも無さそうだし、探偵部なんて誰も訪ねてくるはずがない。特に先生からは見放されているし、貶されている立場だ。教師のお客なんて見たことがない…それよりもあんた、本当にここの教師か?」
健人は一瞬だけ雪子を一瞥すると、雪子が健人を横目で見て首を傾げた。
「ええ……でも、健人くんがこんなに自虐ネタを披露するとは思わなかったわ」
健人は一瞬だけ顔を強張らせる。
「それよりもその手鏡は俺の物だ。返してくれ」
「健人くんはこんな趣味があるんだ」
理央はあちらこちらと手鏡を眺める。
「いいから返してくれ!」
「そんな言い方して返してくれる人なんて、あまりいないと思いますよ? それに相手は仮に先生ですよ?」
雪子が口を挟む。
「じゃあなんて言えばいい?」
健人は半ば呆れる。
「お願いします。健人さんに手鏡を返してください」
雪子は丁寧にお辞儀する。
「それじゃ俺とあまり変わらん」
「そうでしょうか?」
そんなやり取りをしている間、理央はくすくすと笑って見せた。
「楽しそうね」
椅子と机、そして大事なコーヒーたちが勢いよく風のように吹き飛んでいく。
健人は内心あたふたしてコーヒーたちを見守るが、そんな暇は無かった。
探偵部の部屋が歪み、黒い霧が周囲に充満する。一瞬だけ、人間体の理央が手鏡に映り込み、黒い影にも理央のシルエットが映し出されている。
そして、理央は幻影へと変貌していた。
黒い豹を模した姿に様変わりする。背が高く、背面には黒い斑点が花のように並ぶ斑紋が入っていた。
「やばそうな雰囲気だ……」
「蛇の人より、凄い覇気ですね。まるでアニメやゲームの世界ですね」
雪子は後退りして、幻影に変貌した理央を見つめる。
「呑気に話している場合じゃないな、これは」
「ねえ。私にそのペンダントを貸してくださらない?」
黒い豹は首を回し、手を差し向けた。
「こいつは大事な物だ。そう簡単に渡すことはできない」
どういう代物か分からずじまいだが、健人は取り合えずその場しのぎで言った。
「逃がさない。あなたの持っているペンダント、こちらに渡しなさい!」
同時に、一真が健人たちをかばう。
「大丈夫か?」
「あんた……無事だったのか」
「生きていたのですね」
二人は安堵する。
「その言い方はないだろうに……それより、ペンダントを手鏡に向けろ」
「どういうことだ?」
「使えばわかるって」
「そう言われてもな……」
「いいから早く!」
一真は真剣な表情で言った。
「わかった」
一真の表情に圧倒された健人は、無残に散らばっている手鏡に向けて、右手に持っているペンダントを見せた。
その瞬間、鏡にひびが割れて健人が映し出された。
鏡の中の俺は、薄気味悪い笑顔を見せる。
そしてペンダントは光に包まれ、光は俺を巻き込んだ。
「健人さん……!」
雪子の声が、次第に遠ざかっていく。
鏡の中――俺は探偵部の真ん中に立ち竦んでいた。
「ここは一体……俺は夢でも見ているのか……?」
健人は周囲を見渡した。
雪子も一真もいない。
そしてこの場には、俺たちを襲い掛かろうとした幻影、黒い豹も存在していなかった。
「俺は確か鏡に飲み込まれたはずだった」
「さすが探偵。とは言ってもまだ半人前以下か」
もう一人の健人が影から生まれ、目の前に突然と現れた。
「お前は誰だ」
健人は一度驚いたが、すぐに順応できたのか、目の前のもう一人の健人の呼びかけに冷静に対応した。
「思ったより冷静だな」
もう一人の健人は微笑した。
「なんか慣れてきた俺がいる……でも、この状況は事実なのだろ?」
「事実だ」
もう一人の健人が後ろを向き、
「現にお前は俺の」
「影だって言いたいんだろ?」
健人は言った。
「よくわかってるんじゃないか」
もう一人の健人も納得し、
「これ、お前も持っているだろ?」
健人に振り向いてペンダントを見せた。
「ああ。だがな……このペンダント、そんなに大事なものなのか?」
「必要な人には必要だ」
壁にかけている時計を持って、針を一回転に動かした。
「時は戻らないが、死んだ人は新人類として進化する。ああ……もちろん肉体があって奇麗な死体じゃなければいけないがな」
「何を言っているんだ?」
健人の疑問に、もう一人の健人は耳を貸さずに話を続けた。
「ペンダントは死人じゃないと持つことは許されない。普通の人が持つと、まあ俺はそこまでは知らないが……」
もう一人の健人は針から手を放して、健人の瞳を見入る。
「つまり、お前は一回死んでいる」
「嘘だろ? 俺はここに、こうしているぞ!」
健人は必死に胸を叩いて、生きている正銘を見せた。
「だが、お前が死なないと俺はここにいない」
「お前、悪夢を見ただろ?」
「どうして――」
「お前は俺だから。お前が見ると俺も当然夢で見るんだ。寧ろ、お前より鮮明に夢が現出されるんだ」
健人の声を遮って言った。
だが、健人はもう一度口を開いた。
「一つ聞きたいことがある」
「なんだ」
「俺の考えていることはわかるか?」
「わかるさ。それぐらい」
「だったらわかるよな?」
「力が欲しいのか?」
「そうだ。この状況を凌ぐ力は欲しい」
「お前は先について、考えたことはないのか? もし、力を得たら家族や友人、様々な人から虐げられるような目で見られるぞ?」
「それは正直わからない。だが、今は現状のことで精一杯だ。未来なんて考えてもわからないが、一度死んだ人間ならやれることはある」
「死んだ事実は認めるのかい?」
「ああ」
「お前はそうやって俺に言い負かされている訳じゃないよな? それじゃ探偵にはなれない」
「俺は別に探偵になりたいわけじゃない」
「ほう?」
もう一人の健人は興味津々に俺を見つめた。
「それにやれること? お前にできることはあるのか?」
「知らない。でも、あいつだけは助けたい」
健人は一瞬だけ、隣の女の子――雪子を浮かべた。
「そうか……辛い状況になるかもしれない。それでもいいのなら力を貸そう」
「構わない」
「そこまで言うなら、わかった」
もう一人の健人はペンダントを握る。
「お前に力を授ける」
自分のペンダントを健人に放り投げた。
「おっと」
「ペンダントを一つに合わせてくれ」
受け取った健人は二つのペンダントを合わせた。
二つのペンダントは一つの個体となり、錆ついていたのが嘘のように光に満ちて黄金に輝いていた。
「これでお前は幻影の仲間入りだ。しかも特別な進化体にな」
「俺もあの姿になるのか?」
健人は自分の体をあちらこちらと眺めた。
「それはわからない。だけど、言っただろ? それは特別だ」
「特別? 俺は幻影じゃないのか?」
「ああ。そうだ」
もう一人の健人は頷き、
「幻影であって、〝幻影〟では無い」
制服の袖を整えるように引っ張る。
「それじゃ何だっていうんだ?」
「もうここに用はないはずだ。元の世界に帰ったほうがいい……今、君が行かないとあちらの世界――現実の世界が大変な目に合う」
もう一人の健人は言うと、取り付く島もなく背中を向けた。
同時に、鏡の空間に歪みが生じた。
「待ってくれ」
健人はそう言いかけるも、間に合わなかった。
バランスを失い、頭からのめり込むように地面に倒れこんだ。
鏡の中の景色はぶれ始め、健人の頭の整理がつかないままに鏡へと飛ばされた。
途端、健人は現実に戻されていた。
雪子は足を震えさせながら後ろへと下がり、一真は雪子を庇いながら黒い豹と必死に対等していた。
切羽詰まった雰囲気に、雪子はほっとしたような顔つきで、健人を見た。
「無事でしたか!」
「ああ。雪子も無事だったか。一真」
健人は雪子を見て、一真に視線を変えた。
「なんだ?」
「お前も俺のこと、知っていたのか?」
「まあね。でもこいつを片づけるのが先だ」
「だな」
健人はペンダントを強く握る。
そして、氷の結晶が健人を包み込んだ。
「健人さん!」
雪子の声に反応するかのように、冷えた氷のクリスタルを健人が拳で打ち砕く。
砕かれた氷の欠片がほとばしり、白い吹雪に取り巻かれる健人の全身に、冷たい風が纏い始めた。
銀色の騎士の仮面をかどった頭部、銀色の鎧、紫のライン――全身のアイスシルバーの輝きが放たれていた。
そして、風は過ぎ去り、三人の目の前に姿を現した。
「ようやくお見えになったか……」
一真は不適に笑った。
「やはり、あなたも幻影だったのね」
黒い豹は手に力を込めて、黒い槍のような形状を生み出した。
そして銀の騎士に目掛けて、刃を向けた。
「あんたも死んだ人間ということか」
「そういうこと。でもね……」
黒い槍は銀色の騎士の顔に目掛けて、攻撃する。
銀の騎士は隙を見ては、剣を盾替わりにする。
「死んで良かったと思っているわ」
黒い豹は言った。
「どうして!」
「悪くないのよ。今の方が断然楽しんでいる自分がいるの。昔の自分はただ漠然と人生を過ごしているだけ」
「でも、生きた人間を殺していい訳が無いだろ?」
銀の騎士――健人は言葉を続けた。
「英太郎のこと?」
一瞬だけ、黒い豹が動きを止めた。
「そうだ。あいつはまだ生きていたはずだ。なのにどうして……」
「あの人は素質があったのよ。でも、一刺したら遺体のまま……あなたと違って幻影には慣れなかったのよ。素質もあなたより下ってこと」
黒い豹は攻撃を再開した。
「殺した人間にそれを言うか!」
「憐れむぐらいの気持ちならあるわ。今の世の中、そういう気持ちでさえ無い人が沢山いるのよ? それに比べれば……すでに死人である私はまだ人格者よ」
黒い豹は素早く槍を振り回す。
「人格者? 今やっていることはそうじゃないだろ?」
銀の騎士は必死に右、左へと交互に回避する。
後ろには雪子と一真がいる。
銀の騎士は必死に攻撃を防いで、二人に被害を食らわないように槍を凌いでいた。
「確かにそうね。だから……今を楽まないとね?」
黒い豹が周囲に黒い霧を放ち、学校の廊下が闇と化した。
「健人さん! 危ない!」
銀色の騎士は身動きが取れず、金縛りのような感覚に陥る。同時に健人の感情がネガティブへと堕ちる。
「さようなら」
黒い豹はつかさず槍を振りかざした。
だが、銀の騎士は金縛りの状態から動き出した。
槍を受け止め、少しずつ全身の身震いから解放する。
そして、力を解き放つようにオーラが放たれていた。
「動けるの?」
健人自信、幻影の――銀色の騎士の力に驚きを隠せなかった。
これ程の体力と筋力、魔法のように全てを作り出せる力、様々な力が宿っている。対し、同時に制御できる不安もあった。
でも、今は目の前の幻影に集中することに専念した。
「少し痛いかもしれんが、我慢してくれ」
銀の騎士は剣を縦に一振りする。
力加減はわからない。
だが、相手を負傷するぐらいの力はあるはずだ。
銀色の騎士はなりふり構わず剣を振り下ろした。
「ギャアャア!」
黒い豹は怯み、傷だらけの理央の姿が露わにした。
気づいても尚、理央は不適な笑みを見せていた。
「止めは……刺さないのかしら?」
「人殺しの趣味はない」
銀の騎士の姿を消した健人は、理央を見た。
「甘いのね」
理央は不適に笑う。
「一応、まだ学生だからな……」
「若い子の……言い訳ね」
「勝手に言ってな」
「でも、私はそういう子は好き……でもね。一度力を使うと体の消耗が激しいのよ」
その言葉を聞いた健人は、自分の両手を見る。
「あなたは大丈夫よ。特別だから……」
理央はそう言い残して、砂のように溶けていた。
辺りは静けさが漂う。外から聞こえる元気な野球部員の生徒たちの声も、今日はまったくと言っていいほど聞こえないのだ。
そして今日、この世から一人、消えていくのだ。
健人はやるせない気持ちが溢れる。
「もう生きられないのですね……」
終始思為す雪子は、ほんの僅かに残る理央の姿を眼に焼きつけていた。
そして、理央の姿はもう跡形も無くこの世から消えていた。
「理央さん……」
健人は消滅する幻影の名を言葉にしていた。
翌日。
健人はいつも通り探偵部に居座っていた。
田島英太郎の遺体は見つかり、無事に家族に報告が届いて供養されたらしい。
「気になっていたんだが……蛇の幻影はどうしたんだ?」
「一真さん曰く、逃げてしまったようです」
雪子は前かがみになり、掃除機を使って部屋を掃除していた。
「おい、逃がしたのか!」
健人は強張った表情で、掃除機をかける雪子の背中を見た。
「ええ。居場所はわからないようです」
健人の声を気にしていないのか、雪子は淡々と掃除機の電源を止めて、そそくさと片づけていた。
「それで?」
「それでと言われましても……」
「あの人は今どこにいるんだ?」
「幻影を追うといって、どこかに行きましたよ?」
「もう行っちまったのか……あいつ……」
聞きたいこと山ほどあったのだが。
幻影やペンダント。何故、俺のことを知っていたのかも気になる。
そして一真の正体。
ひょっとしたら一真も――
椅子の背にもたれかかった健人は疲れたのか、欠伸をした。
雪子を一瞥し、
「雪子、どうしてここにいるんだ?」
雪子は一旦背伸びして、視線を健人に移した。
「うん? やっぱりわたしのこと、邪魔でしたか?」
「そうは言っていない……」
健人は咳払いし、顎に手を当てた。
一瞬だけ、背伸びした雪子のお腹が見えたことに心臓が縮み上がっていた。
「ただ……」
「ただ?」
「俺はもう普通の人間じゃないんだ。そして――」
既に故人だと伝えるべきか思索するが、伝える勇気がなかった。
我ながら情けない男だと。
「私は何も気にしていませんよ。寧ろ感謝しています」
雪子はにこっと笑って見せた。
「感謝?」
「健人さんがいなければ私と一真さんは危ないところでした」
一真はともかく。
あいつが死ぬ姿が想像できない。
絶対何か裏がある。
確かに一度、二度助けられたものの、不審な点がいくつかある。それに幻影と対等した動きがとても素人とは思えない。
正直、疑わざるを得ないのだ。
「健人さん!」
「なんだ?」
「聞いてますか?」
「悪い。でも、一応聞いてた」
「もう……健人さんから質問してきたんですよ? それにこたえているのに無視はひどいですよ」
「すまない。でも、怖くはないのか?」
「怖かったら、ここにいませんよ」
雪子は笑顔のまま、言った。
「そうか……」
健人は納得し、コーヒーを口に運んだ。
「苦くない……」
今日のコーヒーは甘味が増していた。
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