法正伝

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裴註です。 法正の祖父、法真(ほうしん)について書かれてます。 註1. 三輔決錄注曰:真字高卿,少明五經,兼通讖緯,學無常師,名有高才。常幅巾見扶風守,守曰:「哀公雖不肖,猶臣仲尼,柳下惠不去父母之邦,欲相屈為功曹何如?」真曰:「以明府見待有禮,故四時朝覲,若欲吏使之,真將在北山之北南山之南矣。」扶風守遂不敢以為吏。初,真年未弱冠,父在南郡,步往候父,已欲去,父留之待正旦,使觀朝吏會。會者數百人,真於䆫中闚其與父語。畢,問真「孰賢」?真曰:「曹掾胡廣有公卿之量。」其後廣果歷九卿三公之位,世以服真之知人。前後徵辟,皆不就,友人郭正等美之,號曰玄德先生。年八十九,中平五年卒。正父衍,字季謀,司徒掾、廷尉左監。 (訳) 三輔決錄注にいう、 法真(ほうしん)はあざなを高卿(こうけい)といい 若くして五経に明るく 同時に讖緯(しんい)にも通暁していた。 学業に於いて決まった師を持たなかったが 高才として評判があった。 かつて幅巾(ふくきん)を被って 扶風の太守に(まみ)えた際 太守が述べた。 「(魯の)哀公は不肖と雖も なお仲尼(孔子)を臣下とし 柳下恵は父母の国を去らなかった。 あなたにも、意を曲げてでも功曹に なっていただきたいのだが、如何か」 法真が言った。 「明府(あなた様)の待遇に礼があるので 故に季節が変わるたび朝見しておりますが もし吏人として使おうと仰るなら 私は北山の北、南山の南に 暮らそうと思います」 扶風の太守はかくて 彼を官吏として用いようとしなかった。 かつて、法真の年齢が弱冠(20歳) に満たなかったとき、父は南郡にあり 歩いて父のもとまで挨拶に往き、 去ろうとした折、 父が留めて正月まで待たせ 朝賀に出席する官吏を観察させた。 集まった者は数百人おり、 法真は窓から、彼らが 父と語らうのを窺っていた。 (会見を)()えて父が法真に問うた。 「(いず)れが賢士か」 法真は言った。 「曹掾の胡広(ここう)には 公卿の器量がございました」 その後、果たして胡広は 九卿三公の位を歴任し 世間は法真の人を見る目に感服した。 前後して出仕の要請があったが 全て就任しなかったため 友人の郭正(かくせい)らがこれを愛でて 「玄徳先生」と称した。 八十九歳で、中平五年(188年)に卒した。 法正の父の法衍(ほうえん)は あざなを季謀(きぼう)といい、 司徒掾、廷尉左監となった。
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