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「此処か?」
中年の刑事が訊く。林だ。
中肉中背で、腹がポッコリ出ている。
所謂クールビズのような緩い格好をして、額の汗を傘をさしていない方の手で拭く。
その汗は、気温の為ではなく、体格と湿度の所為だ。
まるで、霧のような雨が空から降り注いでいた。
「はい、先輩」
牧本刑事が気合いの入った声で答える。
牧本は若く、所謂スポーツマンタイプ。髪は短く、身長も高く、体もがっしりしている。格好は林と似たようなものだが、ガタイの所為か、なぜかビシッとして見える。
「早速、現場見ますか?」
「まあ、待てーー」
と林はお堂の地蔵に手を合わす。
それを見て
「ーーここ、あれっすよね?」
牧本は言う。
「ああ。悲惨な事故だったよ。まあ実際の現場は誰も見て無いがな」
「この下にーー」
「引き上げる事も出来ねえからな。引率の教師と運転とガイドは、フロントガラスが割れた所為か、崖の途中に引っ掛かってた。途中まで降りた捜索隊が見つけた。死んでたそうだがな。でも、子供達は全員まだこの下だ。ーーそろそろ1年だろ」
「遺体は引き上げられ無いんですか?」
「高過ぎるだけじゃ無く、崖の形状も内に削れてるから、2次被害の可能性が高かった。麓側から行こうにも道無き道だ。生存は皆無だし。ヘリもそう広くは無い谷間には入れ無い。せめて様子だけでもと、ドローンも飛ばしてみたが、だいぶ上からバスの残骸の一部を映しただけだったそうだ。木が生い茂っていて、邪魔で近付けず、地形の所為か高さの為か、高度を下げ過ぎると操作不能に陥って墜落してしまうらしい。ーーあれだけ悲惨な事故だったのに、今じゃガキの遊び場か。たった1年前だぞ? ーーあの事故の日も酷い土砂降りだったな」
「雨、降り止まないっすね? 本当に毎日雨だ」
「今月に入ってからの日照時間は0.4時間らしいぞ。ーー幾ら何でも、なぁ?」
傘を差した2人は谷底を見るが、内側に削れた崖の構造上真下は見えない。さらに中腹辺りからは、深い霧が立ち込めている。
昨日ほどでは無いが、小雨もずっと降っていた。
N県警I署の林正浩刑事は、階級は警部。ノンキャリの56歳。
真面目だが、要領が悪く、万年巡査部長のまま終わるだろう思われたが、昨年ある事件を解決した事で異例の大出世を果す。
そしてもう1人は牧本知樹刑事。
今年から、地元の同じくN県警I署に所属する事になった22歳である。
刑事はまず巡査から出発になるのだが、巡査部長である。
牧本は所謂準キャリア組だった。
国家公務員総合職試験に合格したのが所謂キャリア組で、国家公務員一般職試験の合格者が準キャリア。準キャリアは初任から、巡査部長であり、私服警官(刑事)として勤務に就く。
なので、まだ就任数ヶ月の新米刑事だ。だから事件という事件も、まるで着いた事がなかった。
そして、異例の大出世を遂げた林を、心底尊敬している。
「本当でしょうか? 本当に、此処を子供達が女性を担いで下ったんでしょうか? ーー此処で、子供達って言うと、つまりーー」
見えない谷底を見ながら牧本が言う、語尾が濁る。
「お前はどう思う?」
そう聞き返され
「え? 普通はぁーー」
とまた言葉を濁す。
当たり前に否定されると思っていたから、その返しに驚いた。
「だよな? でも、普通じゃない事件もたまにある。本当にたまにな」
「……はあ?」
林は言葉の意味は分かるが、その真意は分からなかった。
自分の想像する答えと、まるで違う反応や答えが返ってくるので、少し困惑した。
一体何の事を言っているんだ? と思った。
昨日、良介はあの後麓の警察署に逃げ込んだ。
確かに、早苗は家族にも良介と出掛けると言って家を出た。
心霊スポットに向かう前に寄った、ファミレスの防犯カメラにも会計する2人が映っていた。
とにかく2人で出て、1人しか帰らないとなれば、警察が動かない訳にはいかない。
昨晩の内に地元の警察官によって土砂降りの中、出来る限りの捜索が行われて、今日は刑事事件の可能性も有りとして刑事と鑑識も参加し、本格的な捜査が行われていた。
「自分は、木田が殺して此処から落としたのでは? と思っています。動機は別れ話のもつれとか?」
牧本が言う。
木田とは良介の名字だ。
「捜査に先入観は禁物だ。それくらい常識だろ? 刑事ドラマなんかでも言ってるだろ? それくらい当たり前の事だ。事実を積み上げる事が、俺達の仕事だ。事実を積み上げれば、自ずと正解は出る」
「はぁ?」
「なんだ、その返事は?」
「はぁ」
「もしだ。もしお前の言うようだとするなら、子供の話は余分だろ? そんな話をすれば、逆に疑われる。谷を覗いて、土砂降りの所為で、滑って落ちたで良い」
「何か木田の精神にーー」
「ーーな?」
と、林は だからそうなるんだよ? と言うように言う。
「何がですか?」
「先入観があると、都合の良いように物事を考えがちになる。それじゃ、ただ木田を犯人にしたいだけじゃねーか」
「なるほど!」
林はそんな牧本を見ながら、しっかりしたガタイとは裏腹に、少し抜けた所があるなコイツ? と思った。
林はもう一度、早苗が消えたと言う場所の地面を見る。
そして言う。
「本当にそんな子供達が居たならーー。足跡も凄いが筈だが……」
「はぁ。この雨ですからね。 特に昨日の雨は、ここ最近で一番凄かった。まあ、本当に子供が居たならって話ですがーー」
雨で道の脇の土は流れ、アスファルトにも未舗装の道脇にも、子供はおろか早苗の足跡すら無かった。
全部昨日の土砂降りが、綺麗に洗い流して、泥で覆ってしまっていた。
ーーその年は、6月に入ってから雨の日がずっと続いていた。
1日も降り止む日はなかった。
梅雨だと言っても、それは異常だった。
……その雨は、まるで永遠に降り止まぬ様だった。
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