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空になったペットボトルを逆さに持ち上げる。
しかし開いた口からは一滴の水さえしたたらない。
「あ~~…………」
それでも渇いた喉が潤いを求めて尖塔のように舌を突き出させた。
熱気に触れ、根本どころか舌先までもが乾き始める。
ここにきて彼はようやく悟る。
(オレ、死ぬかも……?)
友人との冗談でよくそう言ったものだが、まさか本当に死を身近に感じるとは思いもしなかった。
この数週間、ろくに仕事もせず貯金もなく。
たった今、最後の水を飲み干したばかりだ。
支払いを滞らせたせいで電気も水道も止められてしまった。
近くの公園に行けば水飲み場で喉を潤すことができるのだが――。
「暑い…………!」
とてもそこまで歩く体力はなかった。
夏の容赦なく照りつける陽光が、窓を突き抜けて彼の足元にまで魔手を伸ばしている。
彼はその場で仰向けになった。
(なんとかしないとマズいよなあ……)
ぼんやりとした意識でそんなことを考えるのであるが、飲まず食わずで数日を過ごしたせいで指一本動かすことすら億劫になっていた。
このままでは死を待つだけである。
にもかかわらず気力も体力も萎え、いよいよ死を覚悟したときだった。
突然、どこかから冷たい空気が流れ込んできた。
床を這いながら迫るそれは彼の足先にまとわりつき、すぐに腰の辺りまで伸びた。
誰か入ってきたのか、と重い頭を持ち上げて玄関を見やる。
だがドアは閉まっている。
そもそも人の出入りがあったところで外の熱気が押し寄せてくるだけだ。
(いったい何が……!?)
ふと天井を見上げた彼はそれを認めた。
女の子が宙に浮いている。
10歳くらいの青い髪をした少女だ。
雪のように白い装束をまとい、ふわふわと浮かびながら少女は男をじっと見つめていた。
(天使……なワケがないか……)
少なくともこの男は穏やかなお迎えがくるような人生は送ってこなかった。
犯罪まがいのこともしてきたし、倫理や道徳に背く行為にも手を染めてきた。
来るなら獄卒のほうだろう。
「おじさん、大丈夫?」
少女はぐっと顔を近づけて言った。
血の気のない、白く透き通った肌をしている。
「大丈夫に見えるか?」
得体の知れない存在に嫌味を返すくらいの気力は残っていた。
既に死を覚悟した身だから恐れるものなど何もない。
「う~ん、元気がないね。顔色も悪いよ。あと目つきも」
「悪かったな」
無邪気に笑う少女に彼は舌打ちした。
とんだ死に際だ。
これなら潔く地獄に引きずり込まれたほうがマシだ。
「あ、分かった! おじさん、お水が欲しいんでしょ?」
空のボトルを見つけて少女が笑いながら言う。
「ああ……いや、金だな。電気も水道も止まっちまったからな……でも今は水だな」
「ふーん」
少女は興味なさそうに答えると、両手をぱっと上げた。
その瞬間、中空からバケツをひっくり返したように水が落ちてきた。
「おわっ!!」
頭上から大量の水を浴び、男は反射的に身を起こした。
「溺れ死ぬところだったぞ!」
「だってお水が欲しいって言ったじゃん」
「あのなあ、普通は水が欲しいって言ったらコップかなにかに入れて出すもんなんだよ――ん……? 普通……?」
彼は首をかしげた。
「そういえばお前、何者なんだ? 天使、じゃないよな? 妖怪か? お化けか?」
「ブーッ! どれもちがうよ! 失礼なおじさんだなあ」
少女は口をとがらせた。
「あたしは妖精だよ。冬と雪の妖精。すごいでしょ?」
自慢げに言って縦横無尽に宙を舞う。
その度に風が起こり、肌をたたくような冷気が室内に広がった。
「妖精ってのは羽が生えていて杖を持ってたりするもんじゃないのか?」
「それは森の妖精だね。あたしの仲間にはいろんなのがいるから」
男はひとまず信じることにした。
女の子が空を飛んだり何もないところから水を出したりと、起こった出来事は少なくとも人智を超えている。
妖精かどうかはさておいて、常識では考えられない存在であることは明らかだった。
「出てくる時期を間違えてるぞ? こんな真夏に現れたってしょうがないだろ」
「レイカってあるでしょ? あれはあたしが起こしてるんだよ。夏だからって何もしないワケじゃないんだから!」
どんな妖精も目立たないだけで一年中活動しているのだ、と少女は不満そうに言った。
「そりゃ働き者だな」
と言ってから男は気付いた。
いつの間にか疲労がとれている。
つい先ほどまで生死の境をさまよっていたというのに、得体の知れない相手に軽口をたたけるまでになっていた。
室温もずいぶんと下がっていて快適だ。
もしや、と思い彼は戸棚からコップを取り出した。
「さっきみたいに水を出せるか? ああ、これに溢れない程度で」
「簡単だよ!」
妖精は人差し指をコップのふちにあてた。
すると底からじわりと水が湧き出てきて、たちまちいっぱいになった。
飲んでみるとほどよく冷たい。
それに水道水とはちがって天然の水のように柔らかく、しかもほのかに甘みもあった。
「これは美味い! こんな水は初めてだ! 頼む、もう一杯くれ!」
そうして3杯ほど飲み干した男はまさしく生き返ったような気分になった。
「本当に不思議な奴だな。いったいどうなってるんだ?」
「えへへ、すごいでしょ? でも、おじさんには教えられないよ」
褒められてすっかり上機嫌になった妖精はさらにコップを水で満たした。
「さっきよりも甘いよ」
そう言って男に勧める。
見た目には変わらないが、飲んでみるとたしかに甘みが増していた。
「そういえばお前が現れた理由を聞いてなかったな」
腹をさすりながら彼は言った。
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