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妖精が男の家を訪ねてから2か月ほどが経った。
猛暑は暦とともに遠ざかり、今はさわやかな秋の兆しがそこかしこに見え始めている。
自宅でだらしなく四肢を投げだした男はぼんやりと次のビジネスについて考えていた。
全国的に水不足も解消されつつあるため、そろそろ水や氷に代わる商売に切り替えなくてはならない。
(さて、どうしたものかな……)
この男には商才もなければ起業しようという気概もない。
水を売って暴利を得るという手法はたまたま思いついただけで、次の展開にまでは頭が回っていなかった。
当面の生活には困らないという状況もあって彼はここ数日を怠惰に過ごしていた。
この性質が数か月前に死に直面した理由であるが、今回は妖精がついているし蓄えもある。
喉の渇きを覚えた男は蛇口をひねった。
しかし水は出てこなかった。
「そっか、止めてたんだっけ」
妖精を通していくらでも水が手に入るので給水を止めてあったのだ。
(ならジュースでも――)
と冷蔵庫を開けるもあいにく飲料のストックを切らしていた。
「喉が渇いた。これに水を淹れてくれ」
室内をふわふわと漂っている妖精にコップを見せる。
はじめこそ下手に出ていた彼だったが、大金が入るようになると態度も大きくなってくる。
ぞんざいな扱いが気に入らなかったのか妖精はそれを無視した。
「おい、聞こえてるのか? 水だよ、水」
早くしろ、と乱暴な口調で急かす。
「もう無理だよ」
少女はにこにこして言った。
「無理? どういうことだ?」
「おじさんはね、もう一生分使いきったの。だからもう無いんだよ」
「なにをワケの分からないことを……いいから出せって」
しびれを切らした男が妖精を掴もうと手を伸ばした。
だが彼女はひらりと身を躱し、
「おじさん、分かってないね」
恐ろしいほど冷たい口調で言った。
「いくら妖精だからって無限に水や氷を出せると思う?」
「実際やってたじゃないか」
つまらない問答はいいからさっさと要求に応えろ、と男は語気を荒くする。
「世の中にあるものはね、全て有限なんだよ。このルールは妖精でも覆せないの。だから皆、今あるものを上手にやりくりしてるんだよ」
「なにを――?」
彼はすっかり勢いを挫かれた。
喉の渇きはさらにひどくなる。
「おじさんにあげた水や氷はね、おじさんが将来受け取るハズだったものなんだ。それを前借りして出してあげてたんだよ」
「つまり、どういうことなんだ……?」
「つまりおじさんはこれから先、もう一滴の水にも触れられないってこと! それから――」
妖精が天井を指差した。
すると途端、室内の温度がゆっくりと上昇を始める。
「おい、なんか暑くなってきたぞ……?」
「今日まで冷気も前借りしてきたからね。これからどんどん温度が上がっていくよ」
妖精の声は弾んでいたが、顔は笑っていなかった。
「ふ、ふざけるな。オレはそんなこと頼んじゃいない……!」
という抗議の声もすっかりかすれてしまっている。
「頼まれてなくてもそういう仕組みだから仕方ないんだよ。おじさんだって水を売ってお金をもらってたでしょ」
「当たり前だろ。誰がタダでやるもんか」
「妖精の力も同じだよ。おじさんにはこれまでの分を払ってもらうんだから」
男は喉を押さえてうずくまった。
じわりじわりと室温が上がっていく。
渇きはピークに達し、舌の付け根から食道の奥までもがぴたりと塞がったような強烈な苦痛が押し寄せてくる。
「たの、む……み……ず、を…………」
全身が焼かれたように熱い。
痛みに悶え苦しみ、立てた爪が虚しく床を引っ掻いた。
「体が、あつい……! 温度……下げて…………」
妖精はそのさまを中空から眺めていた。
「暑いの? おじさん?」
とぼけたように問うてくすくすと笑う。
男はもはやその顔を恨みがましく睨みつけることもできない。
「み、ず、を……み……ず…………!」
そこから先は声にならなかった。
男の体内から水分が抜けだし、サウナのようになった部屋に蒸発して消える。
贅沢の限りを尽くして肥え太った腹がしぼんでいく。
「きっともうすぐ涼しくなるから大丈夫だよ」
少女特有の高い声はもう彼には届かない。
丸く短い指が細枝のように枯れると、瑞々しかった肌は土のように褪色を始めた。
うつ伏せに倒れた彼は最後の力を振りしぼって冷蔵庫に手を伸ばそうとした。
だが途中で力尽き果てた。
体の厚みは元の半分ほどになっていた。
「あーあ、涼しくなるどころか冷たくなっちゃったね」
骨だけになった男を見下ろし、妖精は退屈そうにあくびをした。
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