日記

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日記

 それは実に浮浪者のような男だ。  相当に素朴で地味な服を着ていて、髪を束ねず、ぼさぼさと乱れて、真っ黒な髭とともに茫々と生やしている。とにかく、一見をすると、見窄らしく見えて、たとえ世からこの男が消えてしまったとしても、誰かが気付くことのない存在だ。  今夜、男は他人の財布を盗んだ。財布を胸の奥に隠しながら、慌てて捕まらないように走っている。後ろから追いかけてきたのはもう一人の男だ。  「逃げるな!返せ!」  後ろから大きな叫びが聞こえて、男はさらに足を速める。  ところが、男の目の前に一方通行の砦への通路が現れると、いつの間にか、追いかける男の姿が見えず、とっさに居なくなったようだ。  一方で、周りの樹木に棲む禿鷲たちは飢えているようで、今夜の飯はこの男に決めたと言わんばかりに、ただ単に「グェーンー、グェーンー」と夜空を劈くほど鳴き続ける。目玉にはすでに男の姿を焼き付けておいたくらい、じっと見詰めていて、恰も男の死を望んでいる。  男は、今夜をどうにかしたがるのならば、この一方通行の通路を通って、砦に入るしかほかがないようだ。  近寄って見てみれば、砦というと、さすがに大きさや形としては大いに違うのが分かってくる。どちらかというと、随分と派手に造られた西洋の城郭に近いものだ。それから、城郭の右側にある部屋が微かな灯りがついている。やがて男は通路を通って、扉の前のところに訪ねる。  獲物を失ったせいかもしれないけれども、夜空に誘われた遠くの禿鷲たちは、「グェーンー、グェーンー」と互いに鳴き交わして、樹木から離れて夜空を飛び回っていて、さらに何度も大きく「グェーンー、グェーンー」と騒々しく鳴いていて切りがない。  男は声が聞こえて早速に一度扉を叩く。しかし、鍵がかかっていないようで、扉が少し開いた。隙間から覗くと、灯りのつく部屋が見える。男は扉を推して中に入った。中には四つの花壇が設けられているが、どこの花でも萎れている。男は花壇を通ると、また扉が現れる。叩くと、この扉も鍵がかかっていなくて、男は順調にロビーに入って扉をしっかりと閉める。  ロビーにはテーブルなどの家具は一切なく、あるのは、上がるとさらに右と左の二つに対称的に分けられる階段と、階段の真っ先の壁に貼ってある一枚の肖像画と、ついている電気くらいだ。肖像に映る人はまるで天使の容姿で、潔く微笑む三十代の女性が、女王様のように足をクロスして洋式の椅子に座っている。そして、両手の指は交差して、膝のところに置いてある。しかし、そんな優雅な女性だけれども、まるで入ってきた男をとげとげしく目を光らせる。一方で、男はその女性を慕っているように、瞬きでさえ忘れて、微笑みながら、その肖像画をずっと見詰めている。  「グー」と男の腹が鳴き出した。男は一階で、キッチンを探りまくったけれども、このロビーにキッチンはもとより、窓でさえ無く、出口の扉と階段しかない。  やがて男は、階段を上って、肖像画の下に「マリナ」という名前に気づいたようだ。男はさらに左の階段を上った。すると、ある部屋の扉が現れた。しかし、左の部屋は入ったとしても、電気のスイッチがついていなく、部屋には窓もなくて真っ暗だ。男は手を前方に伸ばしていながら、左の部屋を徹底的に歩き回っていたが、触れたものは周囲の壁しかない。  そして、男は左の部屋を出て、右の部屋に入る。今度は電気がついているが、部屋には洋式の机が窓側の壁に置いてあって、それと洋式の椅子しかない。机の上に洋書が静かに眠っている。それに気づいた男は椅子に座る。  その洋書は分厚くて、ブラックの色だ。表紙には横に長く伸びるブラックの蝙蝠が大げさに翼を開いて、まるで表紙を耐えず、表紙を引き裂けてそこから旅立とうとしているようだ。蝙蝠の目のところは針に挿されたような細い穴が深く開いている。  男は洋書を開くと、それが日記帳だということがわかった。それに、まさか用紙もブラックだ。文字は白く刻んである。  こういう風に書かれてある。   「こういうのははじめてだった。これはなんだろう?」                             (1ページ目) 「こんやはすごくへんだった。このへやもそうだし。あのへやもそうだ。」                             (2ページ目) 「にらまれたようなプレッシャーだ。なに?」                             (3ページ目) 「はくりょくをかんじたのはなぜだろう?」                             (4ページ目) 「あ!きょうはひどいことをした。にじんでくるちはどうもけせない。」                             (5ページ目)  男は読み続ける。 「くるしがるだろう。みんな。ごめんなさい。」                             (6ページ目) 「まあ、なんらかのびょうきかもしれない。」                             (7ページ目) 「がっこうでしんだわたしのこども、どうでもいいっておもうのはなぜ?」                             (8ページ目) 「やだな、だれか、たすけて!そいつにこわいんだ。」                             (9ページ目) 「どいつにもこいつにも、るすばんにさせられた。」                             (10ページ目) 「るいせきするプレッシャー。ひとりでいると、なにかいるきがするのだ。」                             (11ページ目) 「からだがからっぽで、こころにはなにかがうごめいている。」                             (12ページ目) 「らんぼうはしたくなかった。きょうも、ひどいことをした。」                             (13ページ目) 「にじがあらわれても、なぜかあかいろしかみえなかった。」                             (14ページ目) 「げんきでいたかった。もうじぶんではなくなりそうだ。」                             (15ページ目) 「ろくに、じぶんをコントロールができなくなっ」                             (16ページ目)  紙ごとに、それぞれ一行の文しか書かれていない。日記はそこで終わった。16ページ目には、マリナという名前が現れた。恐らく、これは肖像画の女性が書いた日記だ。しかし、どの文も意味不明で、妙だ。特に16ページの文、まるで書きかけのようだ。  男は再び日記を1ページ目から見直すが、何も思いつかないようだ。そして男は日記を開けたまま、1ページ目に戻す。男は椅子から離れようとすると、窓に激しい風が吹いてきた。男はそれに惹かれて、日記のところに目を向ける。「サーサーサー」、日記の用紙は風で、1ページ目、2ページ目、3ページ目・・・と速く回る。すると、男は何かを気づけたようで、さらに日記を見直す。最後のページを見終わると、男はがたがたと体が震えながら、周りを見極める。だが、何もなくて、風の吹く音のみ聞こえてくる。  しばらく、男は周りを見まくっていた。そして、やっと、がたがたと震えながらも、部屋を出る。右の階段を下りて、ロビーへ降りようとするときに、男は振り向いてみる。しかし、いつの間にか、肖像画の女性の姿が椅子とともに消えた。その代わりに、スパイラルな静止する暗闇の穴が現れた。それは静止しているとはいえ、時には徐々に回っているのに見える。  その女性の姿が見えず、男のでこにかなりの脂汗が出てくる。そして手で拭いて、強く拳に変えて、さらに何度も周りを見極める。とことん見ていても、ロビーには何もない。とっさに男は足を動かして、急いで扉の方へ走り出す。  しかし、男は何度も開けようと繰り返していたが、扉がどうも開かない。強く蹴っても扉が開かない。  男が何度も何度も試しているうちに、後ろの階段から、ある女性の尖り声が聞こえてくる。  「わたしを探してたのかしら!さあ、おいで。」  なぜかその声はロビーでずっと響き続く。男はそれが聞こえて、扉を開けるのをさらに急ぐ。その一方で、後ろの階段を降りる音も近寄ってきている。
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