1 ジェレミーと湖畔の館

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1 ジェレミーと湖畔の館

 それは恋に落ちるのにも似た感情だった。駆け出しの画家であるジェレミーは偶然立ち寄った画廊で一枚の絵に出会った。もう半日もその前から動けずにいる。彼がみすぼらしい服装をしていることもあって、周囲から奇異な目で見られていたがそんなことが気にならない程にその絵に没頭していた。 『湖畔』というシンプルなタイトルの下には『ヨエル=ガリュー』という聞いたことのない作者名が記されていた。日が沈むまで絵を見た後、ジェレミーはその名を忘れないように頭の中で反芻しながら帰路についた。  帰宅したジェレミーは脱いだ上着を無造作に脱ぎ捨て、キャンバスの前に座った。部屋の中にはベッドと画材を入れた鞄しかない。ここでは寝るか絵を描く以外なにもしない。キャンバスに向って絵筆を構えても、頭の中を巡るのはあの絵の深い青色だった。ジェレミーが以前自身の作品で理想とし、何度試行錯誤を重ねても調合することができなかった青色があの絵には使われていた。もし許されるならば削り取って成分を分析したいところだ。  翌日もジェレミーはその湖畔の絵を見るべく画廊へ向かったのだが、すでに絵は展示スペースから外されていた。オーナーを呼んで問い詰めると昨日彼が帰ってすぐに常連客が買っていってしまったらしい。  ジェレミーは肩を落とす間もなく購入者の情報を聞き出そうとしたが、オーナーは「規則で教えることが出来兼ねます」という言葉を繰り返すだけだった。 「だったらヨエル=ガリューという画家について教えてくれ」  しつこく食い下がるジェレミーに嫌気がさしていたオーナーはようやく変わった要求に胸を撫で下ろすとともに顔を曇らせた。 「我々も詳しくは存じ上げないのですよ。絵を買い取ってくれと年に数回やってくるのですが、経歴や人物像については謎だらけなのです。もしも彼の居場所がわかったのなら我々がお聞きしたいくらいですよ」  そう言ってオーナーは皮肉めいた笑みを浮かべた。
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