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家にいる
「おかえり。今日は遅かったね。大丈夫? 疲れた顔してる。嫌なことでもあった?」
仕事で疲れた俺を、いつもニコニコと出迎えてくれるのは、妻のミナだ。美容院に行ったばかりのようなサラサラの黒髪と、自宅でもうっすらと化粧をしている顔は綺麗で、いつ見ても惚れ惚れとしてしまう。
俺は、妻のミナが好きだ。結婚して三年経った今も変わらず愛している。
「先にお風呂に入る? それともご飯かしら?」
「風呂に入るよ。今日は暑い中外回りで、たくさん汗をかいたんだ」
ミナは微笑んで、「ではあなたがお風呂から上がったらすぐ夕食を取れるように準備していますね」と言った。俺はその姿を満足げに見つめる。
ミナは俺の五つ下だ。会社の後輩だった。ミナが俺の部署に配属になった時から目をつけていた。何度か食事に誘い、俺から告白して交際した。二年ほど付き合い、入籍した。結婚を機に、ミナには仕事を辞めさせた。うちの会社の女の仕事なんて、結婚までの腰掛け以外の何物でもないし、何よりミナには専業主婦として俺を支えて欲しかった。
荷物を置いて風呂へ向かう。湯船に勢いよく入ると、その冷たさに仰天した。
「なっ、なんだこりゃ!」
気のせいか、ヌルヌルしている。冷たさと気持ち悪さにすぐに風呂から上がる。浴室から出ると、いつも用意されているバスタオルがない。
「ミナー、バスタオルがないぞー」
キッチンにいるはずのミナに声をかけるが、反応がない。なるべくバスマットで足だけでも拭いて、仕方なく自分でバスタオルを取りに行った。
部屋着に着替え、憤慨しながらキッチンへ向かう。
「おい、ミナ! どうなってーー」
リビングに足を踏み入れると、異臭がした。リビングと繋がっているキッチンからだった。キッチンを見ると、コンロの上に蓋をされた鍋かそのままになっている。蓋を取り中を確認すると、俺は鼻をつまんだ。
「なんだ、これは」
元は何の食べ物かわからないが、明らかに腐っていた。俺は蓋を乱暴に置くと、苛立ちながらミナを探した。
「ミナ! どこにーー」
何かを踏んで、俺はしたたかに転んだ。見れば、洗濯物と思われる衣服が廊下に散らばっている。
頭がカッとなった。
「ミナ! どこだ! 返事をしろ! ミナ!?」
俺は家中ミナを探した。しかし、和室にも寝室にもトイレにも、ミナはいない。
「どこへいったんだ」
リビングへ戻ると、ソファに座り頭を抱えた。いない、妻がいない、どこへ行ったんだ。自由にする金など渡していないから、どこへも行けないはずーー、いや、そもそも俺が帰ってきた時にはいたじゃないか。玄関が開く音はしなかったし、鍵が閉まったままだ。
家の中に、いるはずだ。どこかに隠れてるんだ。
俺はタンスや襖を開け始めた。どこだ、どこにいる。夢中で探す。どこだ、どこだーー。
「あ」
ふと、自分の手を見ると、赤く、汚れていた。
「私は、あなたの、家政婦じゃないのよ」
頭の中に響く、ミナの声。そうだ、喧嘩したんだ。それで、ミナは出て行った? いつのことだ?
だって、さっき、いたじゃないか。
俺は風呂場へと向かう。もう一度、湯船を覗く。
濁った水の中に、冷たくなったミナが沈んでいた。
それを見下ろす。
「赤ちゃんが出来たみたい」
ミナはお腹をさすりながら、はにかんだ。喜んだのもつかの間、その日からミナは変わってしまった。自分の身なりや家事に手を抜くようになった。
「つわりみたいなの」
そう言うから、一月は我慢してやった。
あの日、ミナは化粧をしておらず、髪もボサボサだった。きちんと湯船も掃除していなかった。終いには、食事は出来合いの惣菜だと言う。良くなるところが悪化するばかりだったから、俺はミナを責めた。そうしたら謝るどころか。
「しばらく実家に帰らせてほしい」
そう言ったんだ。
ふざけるな、俺に養ってもらってる癖に。誰のおかげでこんな家に住めてると思う? 飯だって今お前が着ている服だって! 全部俺の稼ぎだろ? ああ!
「なんだ、その目は」
ミナは、睨むように俺を見上げた。その手には、先程まで惣菜のトンカツを切り分けるために使っていた、包丁が握られていた。
「私、あなたの、そういうところがーー」
チャプンーー。
バスタブの中から、ミナを抱き上げる。もうグチャグチャのドロドロで、元の美しい面影など微塵もないーー。
「俺の好きなミナは、君じゃない」
俺は静かに、ミナを湯船の中に戻した。
「俺のおかげで暮らしていけるんだから。俺のためにいつだって綺麗にしとくべきだったろう? なあ」
水の中に沈んでいくミナの、ふやけた目玉が俺を見る。
「あなたの、そういうところが、きらい、なのよ」
ボコボコ、水泡の中に彼女の言葉が滲んだ。
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