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自覚
終わっていく今日にさよならと、やってくる明日にこんにちは。
それは、当たり前のことだけれど、ふと、それがずっと胸の底に留まり続けるものになることが人生にはいくつかあるのではないか。
この話は、きっと彼女にとってそういうものになる日々の話。
最初に断っておこう。この話は、決して単純なハッピーエンドの話ではない。めでたし、めでたし、で終わってほしい人は、気に食わないだろう。これは、少女の敗北の話とも言えるのだから。
でも、敗北の話だからと言って、必ずしも不幸な結末とは言えない、ということも言っておこうか。
彼女の明日は、きっと、そんなに意地悪ではないはずだから。
最初からこれっぽっちも勝てる可能性などなかった彼女の、その精一杯の奮闘ぶりを、私は語らずにはいられない。
私の拙い言葉でなんとか伝えよう。
ある日の放課後、私はクラスメイトの女の子と、ファーストフード店にいた。なんとなくの気分で、私はバニラシェイクを、彼女はチーズバーガーとテリヤキバーガー(選べないから両方にしたらしい)、それにウーロン茶(一応、カロリーに気を使ったつもりらしい)を前にして、向かい合っていた。
彼女は、深刻そうな顔をしている。それほど何かを深刻に悩んでいるのか。それとも、ただ、どちらのハンバーガーを先に食べるか思い悩んでいるだけなのか。
丹羽満月。彼女とは、偶然ただ同じクラスになっただけで、特にべたべたと親しくしているわけではない。
けれど、ふとしたきっかけがあってから、時折こうやって放課後にこのファーストフード店に連れて来られる。いわゆる『女の子同士の密談』というやつだ。でも、彼女が一方的に話をしたいだけなのだけれど。私の方には、別に用はない。
ついに、彼女はチーズバーガーに手を伸ばした。
一つ目のハンバーガーをぺろりと平らげて、二つ目の包みを開けようとしたところで、手が止まった。
彼女はどちらかと言えば見た目が細身のわりに、本当によく食べる。お昼ご飯を食べているところを見ても、驚くやら呆れるやら。今日は、アンパン、クリームパン、卵サンド、焼きそばパン……他にも何かあったかもしれないが、そうやって覚えきれないくらいのパンを食べていた。しかもパンばかり。
どうやら彼女の家はパン屋らしく、お弁当の代わりに親が持たせてくれているのだとか。それを聞いて、少しばかりは納得できることもあったが。
そんなこともあって、一部の女子から、女の子としてどうなの、とか、引くよね、とか、後で絶対に吐いてる、とか、陰口を叩かれて、冷たくされていたりもするのだ。結局のところそれはただのやっかみなのだろうが。女の子たちは皆、ダイエットに励み、小鳥の餌箱みたいな弁当をつついて食べているのに、胃袋に入りきるのか疑わしいくらい食べている丹羽さんのウエストの方が細い事実を受け入れたくないのだろう。
ちなみに、過食症であるとか、その類の病気ではないと本人は言っている。後で吐き出したりはしておらず、ちゃんと胃袋は消化しているらしい。その上で太らないとは、人体の神秘だ。
しかし、そんなくだらないことを彼女自身はあまり気にしている様子はない。
彼女が目下気にしていることと言えば。
「高梨先輩、恋人がいたんだ。間違いない。だって、キスしてたの、見ちゃったし」
私は、そう、とだけ答えて、彼女が続きを話すのを待っていた。
「高梨先輩も、私が見てたの絶対気付いてた。でもさ、別に恋人がいたって、不思議なことは何もないけど……でも、相手は大人の人だし、それって青少年保護なんちゃらっていう条例にひっかかるんじゃないのかな。それに、お……」
そこでハンバーガーをのどに詰まらせて、丹羽さんは咳込んだ。私は、すっとウーロン茶を彼女に差し出した。彼女は勢いよくそれをのどに流し込み、ようやく落ち着いたようだ。
「あ、ありがとう。……と、とにかく、なんか、いかがわしいっていうか、ただれているっていうか」
なぜか顔を赤くしながら、頭の中のイメージを振り切ろうとするかのように、彼女はばくばくと勢いよくハンバーガーを頬張った。
また喉を詰まらせるのではないかと、私はちょっと心配になる。
「丹羽さん」
「何?」
「暇そうに見えても、私だって暇じゃないの。話を簡潔にしてね。ただ、週刊誌の記者のようにそういう暴露話を私にしたいわけじゃないんでしょう。もしそうなら、私は高梨先輩のそんな裏の顔に些かも興味がないから、帰らせてもらうけど」
「ま、待って、そうじゃなくて」
「何が言いたいの?」
「うん……ええっとね……なんかわかんないけど、すっごいもやもやするの。そうよね、先輩がどこの誰と付き合ってようと、どんなにただれた関係であろうと、私には関係ないはずなのに。そのはずなのに、もやもやするし、ちょっと胃がむかむかして、今日はハンバーガーも二個しか食べられない」
二個も食べれば十分だろう。そうツッコミたかったが、しゅるしゅると丹羽さんから元気がなくなっていくのがわかった。あと半分残っているハンバーガーは手に持ったままで、口に運ぼうとしない。
ああ、これが噂に名高いあの病気か。お医者様でも、草津の湯でも治せないという。
「それは、恋というものだからでしょう」
私の一言に、彼女はぽかんと間抜けに口を開けたまま、完全にフリーズしてしまっている。
こっちがフリーズしたいくらいだ。だって、そんなに驚くくらい、まったく自覚がなかっただなんて、私の方が驚きだろう。
高梨先輩のことで話があるから、と、彼女が私に声をかけて来た時点で、私にはもうわかっていたことなのに。本人もちゃんとわかっているから、相談してきたのだと思っていたが。
「そう……なの?」
ふるふると、小刻みにハンバーガーを持っている丹羽さんの手が震えていた。そして、完全に困り果てているのを訴えているその目。
「いや、私に聞かれても。自分のことでしょう。そもそも、本当にどうでもいいなら、私にわざわざ先輩のこと聞いたりしないんじゃないの」
「そう……なの?」
その言葉しか入力されていない機械のように、同じ言葉を彼女は繰り返す。私は頷いた。それで納得してくれたかどうかはわからないが。
彼女は食べかけのハンバーガーをトレイの上に置いて、立ち上がるとこちらにぐっと身を乗り出してきた。もう少しで額どうしがぶつかりそうなくらいの近さまで。
「じゃあ、安藤さんは恋をした時、こういう気持ちになったの?」
「いや、それは……」
私は言葉に詰まってしまった。どうにか、いい逃げ道はないものか。ある、一つだけ。私の頭の中に、ちょうど都合のよさそうな言い訳が浮かんでくる。
「あなたがどんな気持ちかなんて、私にはわからないから、何とも言えないわよ」
「もし、これが恋なら、どうしたらいいの?」
「言えばいいんじゃないの。好きだって」
「言えるわけないじゃない!先輩には恋人がいるんだってば!しかも、お……」
彼女はそこで不自然に口を噤んで、乗り出していたその身を引いて、またおとなしく椅子に座った。
またしても『お』。何なのだろうか。『お』とは。お……。
「大人の?」
「そ……そう、大人の!」
彼女が一生懸命誤魔化すように頷いて見せるのは、何か隠したいことがあって、逆にそれが不正解だと言われているようなものなのだが。まあ、それはいくらなんでも簡単に人に言ってはいけないようなことなのかもしれないので、深追いしないのが親切心というものだろう。
高梨先輩のただれた恋愛を知ったところで、一文の得にもなりはしないのだし。
「何にしても、選択肢は二つ。一つは、すっぱり諦める。もう一つは、奪い取る」
「奪い……取る……」
「そうよ。諦められないなら、そうするしかないんじゃない。もちろん、そうする場合には徹底的に悪女になる覚悟をしなければね」
「え、諦めるとか、諦められないとか、まだそんなことまで思考が追い付いてない」
それはそうだろう。今の今まで、自分が高梨先輩のことを好きだなんて思ってもみなかったのだったら。また、困り果てて助けを求めるような目。
それはこっちが困る。
「どうするかまで私に答えを求めないでね。丹羽さんの心の問題なんだし、私が勝手に決めることでもないんだから」
「そうだけど」
私は少し溶けかけたシェイクを喉に流した。甘ったるい。今のこの会話に全く似つかわしくないくらいに。
「今すぐ答えを出す必要もないし、とりあえず、冷める前にハンバーガー食べちゃったら」
「……うん」
それから、彼女は無言でバーガーを食べ終えると、今日はありがとう、と、一言だけ言い残して帰って行った。
彼女がどんな結論を出そうとも、私には関係のないことであるが。
その日の夜、日付が変わったころに、丹羽さんからメールが来た。
何で私は女なんだろう……(涙の絵文字付き)
謎の、たったその一言。あれこれ考えて、自分の頭の中に浮かんだ考えがそれなのか。男だったら、友達になれるのに、とか、そういうことなのか。そんなことを考える方が不毛ではないか。
あるいは、そうじゃなくて。二度も言いかけて止めた、あの『お』は……。
私の頭の中に、ある一つの可能性が閃いたが、まあ、何にしても、私には関係ない。どうでもいいや。
そう思って、私は眠りにつくことにした。
何で、も何もない。
そんな、どこからどうみても投げやりにしか見えない返事を一言だけ送ってから。
その後、夜中に何度か彼女からメールが来ていたことに、朝になって気づいたが、学校で話せばいいやと、放っておいた。
いや、本当はこれ以上話したくはなかったけれど。もう、面倒くさいから。それに、これ以上踏み入って、先輩のその秘密を丹羽さんが私に話すことになるのも、誰にとっても損にしかならないことであるし。
だから、学校でもあえて私の方から丹羽さんに声をかけることはしなかった。六時間目の終了のチャイムが鳴った後、みんながそれぞれ部活動をしたり帰宅したりしても、彼女は私に話しかけてくることはなかった。
もしかすると、まだ不毛なことを頭の中でグルグルと考えているのかもしれない。
早めに家に帰って、パン屋を手伝わなければいけないので、部活動をやっていない彼女は、ふと振り返ると、いつの間にか教室からいなくなっていた。
せいぜい悩むがいい。
私は私で、今日は部活があるから忙しいのだ。そう、人のことまでそんなに構っている時間はない。学生向けの写真展に向けての写真を撮らなくてはいけない。
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