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合奏が始まる前の、ザワザワとした音楽室。
「理琴、なんか楽しそうだけど、いいことでもあったの?」
いそいそと席に着き楽譜を広げている私に、前の列に座るひまちゃん――F中吹奏楽部部長の、坂下ひまさんが振り返って声を掛けてきた。
「えっ」
たしかに、ピアノの天才で有名な桜田くんと話したことは、貴重といえば貴重な体験だ。しかし会話の内容は究極に素っ気ないものだったし、それどころか寡黙な彼の本性は、呆れるほどに口の悪い男だったと知って、大人しそうな人だと思っていただけに軽くショックだったくらいだ。
それでも。私は出会ってしまった。桜田くんのギロックに。
私と同じく、桜田くんももちろん例年合唱コンで伴奏をしているから、彼のピアノを聴いたこと自体は、あった。でも、ホールの舞台照明にくらんで彼の顔も指先もおぼろげになるあの空間では、私たちは彼の「ほんとう」を、見ては、聴いては、いなかったのだ。
夕方の西日以外に光のない薄暗く黴臭い旧音楽室で、一対一でまざまざと見せつけられたギロックが、この目で確かに見た噴水の情景が、焼き付いて離れなかった。忘れられるわけがなかった。彼を見出すことができたうれしさとはまた違った。私はただただ、圧倒されていたのだ。
ひまちゃんは口の端だけでにやりと笑うと、くるりと正面に向き直った。長い黒髪にフルートを構えたその姿は、「サマになる」以外に形容しようがない。2年ちょっと、ずっと見ている姿だが、いまだに惚れ惚れとしてしまう。私でさえそう思っているのだ、ひまちゃんの隠れファンは、実はけっこう多いんじゃないだろうか。
(それにしても、私そんなに顔に出てたかなあ……)
いけないいけない、と私は自分の顔をぺちぺちと叩く。
「おい藤野、なに奇怪な動きしてるんだよ」
今度は背後から声がして振り返る。
「……なんだ込山か」
「ああ? なんだってなんだよ」
いつも通りの覇気のない声音で文句をいうと込山――込山侑吾は、傍らに置いていたユーフォニアムを持ち上げて溜め息をついた。この通りユルい男だが、これで後輩の女の子たちからは何気に人気がある。――まあたしかに、女社会の吹奏楽部に好き好んで入るような変わった男子のわりに、まずまずの見た目だとは思うが。とにかく背だけは高いし、顔だって、悪く言えば無難、よく言えば整った顔立ちをしているし。恵まれた体格から運動神経も悪くないから、どこか運動部に入ってもやっていけないことはなかったはずである。私や、大抵の他の部員のように、幼少からピアノを習っていたとか、元から楽譜が読めるとかいったわけでもなさそうだから、入部したての頃は珍しい奴もいるものだなと思っていたが、彼がなんで吹部に入ったのか、それは今でも分からない。本人すら、「ユーゴがユーフォとか、ダジャレかよって感じだよな」などと呑気なことを言っているくらいだ(当初からこんなキャラだったので、楽器決めの時も、何の希望もなかったらしく、押し付けられるまま彼はユーフォニアムになった)。
いつの間にか込山のことをまじまじと見つめていたことに気付いて、私は慌てて前を向き直った。と同時に、結城先生――顧問の結城まり先生が入ってきて、ひまちゃんが「起立、お願いします」の号令をかけた。この女性は頑なに歳を教えてはくれないが、たぶんアラフォーの独身で、結婚できない(もしくはしない)のには、何かワケがあるような気も、ないような気もする。本人に聞かれては殺されそうだが、音楽家、また指導者としては一流な結城先生だが、どうにもならない「残念さ」がその最大の要因だろう。専門は声楽だとかで、それ故なのか(それとも生まれつきなのか)声が無駄に通り、廊下や職員室などで周囲の目がある中で話しかけられようものなら、苦笑いするほかない。たまに用があって音楽準備室に入ると、そこはカオスとしか形容のしようがなく、この部屋が片付く日など来るのだろうか、と思う。往々にして音楽の先生などという人種はあまり普通ではない人が多いが、結城先生もその例に漏れなかったということだろう。
しかし先生の腕が確かなのは明白で、F中の吹部は前任の顧問の時代から通算して9年連続で西関東大会に進んでおり、今年も県大会を突破できれば10年連続、というところに来ていた。
誰も何も言わないが、私たちの間には、静かなプレッシャーが流れていた。でも、心地いい緊張感。季節は確実に、夏へと進んでいる。音楽室の空気は、温度を上げていた。
「リコト!」
今日も結城先生の怒号が飛ぶ。私は楽譜から顔を上げて先生の座る指揮台に視線をやる。ハーモニーディレクターが鳴らされる――。
日が長くなったな、と、校門を出る頃にもまだ沈んでいない太陽を見上げて目を細める。そこに、駆け寄って来る人影。
「理琴~!」
「桃ちゃん」
体当たりせんばかりの勢いの桃ちゃん――クラスメイトの、茨木桃子を抱きとめる。
「もう~、桃ちゃんは部活もないんだから、私のことわざわざ待ってなくてもいいって、いつも言ってるのに」
「いーのいーの、今日は私も残る用事、あったし」
「そう?」
歩き出しながら、私はほんの少しだけ顔を伏せた。それを隣を歩く桃ちゃんに悟られないための誤魔化しで、足元の石ころをつま先で蹴った。
桃ちゃんは、たぶん入学していちばん初めに話したひとだ。入学式の日、通学路で出会った時には、桃ちゃんが同じ新入生だとは分からなかった。大家族の長女という立場が、恐らく彼女にそれほどまでの貫禄を与えているのだろう(茨木家が一体何人きょうだいだったか、いまだに私もよく分かっていない)。
「……桜田くんって」
「ん?」
「1組の、桜田奏也くん」
「うん」
「……」
……私、今何聞こうとした。
桃ちゃんはいつものいやに包容力のある笑顔でちょっと首を傾げると、言葉に詰まってしまった私の代わりに会話を展開してくれた。
「お母さんピアノの先生で、家ピアノ教室なんでしょ。……まあ、不思議と桜田先生に習った、って人に出会ったことないけどね。やっぱりすっごいレッスン料取るのかな? 庶民には手が出ないような」
はははっ、と桃ちゃんが笑う。沈黙に助け舟を出してくれたこの人のことを、ぼけっとしたところのある私は、いつも頼ってしまう。私の歩く速度はいつの間にか、桃ちゃんから半歩遅れていた。……桃ちゃんだったら、今日の私と同じ状況で桜田くんに出会ったら、何と声を掛けるのだろう。桃ちゃんだったら、桜田くんのような気むずかしい人とも、こんなふうなあっけらかんとした笑顔で接することができるのだろうか。
「で、お父さんは音大の先生やってたこともあるんでしょー? はーあ、やっぱり家もお金持ちなんだろうなあ」
「……そんな家に生まれたのに、なんでこんなところにいるんだろ、彼」
「ほんとにね」
桃ちゃんの苦々しい笑顔を視界の端で捉えつつ、私たちが歩いてきた道の後ろに小さく見えるF中の校舎を振り返る。
こんな寂れた田舎の公立中学、彼の生まれとこれから歩むであろう人生に、どう考えても釣り合わない。……まあ実際、彼が同級生たちの中で浮いていることは確かなんだけど。
――でも彼の場合、あれは浮いているっていうか……。
足が止まりそうになって、慌てて、不思議そうにこちらを見つめる桃ちゃんに追いつく。
やっぱり私は、桜田くんのことを何も知らない。
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