雨の日のふんすい

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 次の日の放課後も、桜田くんは旧音楽室にいたわけで。  私が入っても、意に介する様子もない。 (うわー。別に構わないんだけど、完全にここを自分の練習場所に決めちゃってるよ) 雨の日のふんすいだ。今日も。この曲が彼にとってのウォーミングアップだったりするのだろうか。 「その曲って」 またしても、私は気が付いたら口を開いていた。 「楽譜が、英語で書かれてるよね」 桜田くんが鍵盤から顔を上げて私の顔を見た。数秒前まで、私などいないかのようだったのに、それこそ穴が開くほど、凝視という言葉がまさしく相応しいほど、彼の眼は私の眼を捉えていた。 (え、何、何~⁉ 私、何か怒らせた?) ありがたいことに(?)桜田くんのあの眼をこれほどじっくり見る機会を得ても、やはりそこから感情を読み取ることがどうしてもできないのだ。 「だから?」 「へ?」 「だから、この曲を覚えてたっていうの」 「あ、えーと……」 予想外の質問が返ってきて思わず拍子抜けする。 「なんていうか……この曲、楽譜のパッと見が、結構印象的じゃない?」 「というと?」 「え⁉ ん、ほらー、2ページ目の、アクセラレーティング何たらって書いてある辺りとかさあ、なんか、あのおっきいスラーが、なんか噴水の水の放物線に見えない?」 彼はなおも私の顔を凝視している。自分で聞いておいて、何のコメントもないことが怖い。沈黙が怖い。さっきと変わったことといえば、私を見つめる桜田くんの顔の角度が、彼が微かに首を傾げたことで少し傾いた点である。 「……君は変わっているね」 ……は。ちょっと待ってほしい。あなたにだけは、言われたくないんだけど……。 「そんなことを言い出すなんて、君の方こそ好きなんじゃないの、この曲」 「えっ。うーん……」 別に、特別好きだからこの曲を覚えていたわけではないのだ。寧ろ―― 「だったら君も弾けばいいだろ、この曲。弾けるんだろ、昔弾いたことあるんだから」 そう言うと桜田くんは軽く飛び下りるようにピアノ椅子から下りると、私に「座れ」とでも言うようにそれを引いた。  ――何を思ったか私は、首から下げているサックスを傍らのボロ机に置いて、その鍵盤の前に向かいかけた。  ――だめだ。 「……弾けない」 「え?」 私にこの曲は、ギロックの雨の日のふんすいは、弾けない。 「……もうずっと前だもん、弾いたの。忘れちゃったから、弾けないよ」 動揺を、悟られないように。わざとらしいくらいの笑顔を作って、サックスを握りしめ直す。 「弾けないのか? ……それは、一度弾いた曲も、時間が経つと忘れてしまうってこと?」 「……は? えーと……」 桜田くんの疑問が、これまた斜め上の方向へ向かっているので、私は狼狽えた。……ああいや、私の不自然な笑顔をスルーしてくれたので、ありがたいと思うべきなのだろうけど。――だとしても。自分の方から誤魔化しておいてこんなことを言うのもなんだが、ふつうに、こんな痛々しい態度をとった人間の心の機微を、少しも感じ取らない方が不思議だ。 (桜田くんって、なんか――) 「ああ、楽譜を貸そうか。……あーでも、さすがにギロックは今持ってないか……」 何やらぶつぶつと呟き始める桜田くんを慌てて制する。 「あああの! ……おかまいなくっ! ……いきなり渡されたって、すぐには弾けないし」 「……初見も、できないのか?」 これ普通だったら、さっきから桜田くんの言動は人を見下してバカにしているようにしか取れないし、腹を立てたり傷付くに値するものだが、――たぶん、そうではないのだ。彼には、自分がずっと前から当たり前にできていたことが、人にできないということの想像がついていなかったのだ。 「……桜田くんは、もしかして、全部覚えてるの?」 「覚えてる。楽譜は一度見れば覚える。今まで弾いたことある曲は全部覚えてる、再現できる」 桜田くんは無表情を崩すこともなく、抑揚のない声を崩すこともなく、事も無げに言う。事も無げ過ぎて、自分の方がおかしいんじゃないのかと錯覚するような話しぶりだから、「すごいね」と言いかけた言葉を、飲み込んでしまった。 (何、やっぱり私がおかしいのか? もしかして桜田くんのようにできる方が普通なの? ……いや、そんなことはないよね……) ……どちらにしたって、私にはそのような芸当はできない。私にとってピアノは、単なる習い事の範疇を出るものではない。……去年合唱の伴奏をした曲だって、今はもう弾けない。 「君にはそういう短期記憶しかできないみたいだけど、そんな部活にいたら暗譜の必要に迫られることもあるでしょ。君の頭の中ってどうなってるわけ」 「えっ……と」 ……私としては、桜田くんの頭の中の方が得体が知れないけどね。……うーん。自分の頭の中がどうなってるかなんて、考えたこともなかった。 「私は……吹かないと、弾かないと覚えられないからなあ。ただ単に、覚えるまで吹く、弾くから覚えられるってだけなんだろうなあ。何ていうか、暗譜でやる時は、頭の中で楽譜を追って、めくって……てしてるというか……」 またしても桜田くんの視線が痛いほど私に刺さった。その眼は今また、丸く見開かれている。 「……君はやっぱり変わっているよ。つまり君の興味は、画像としての楽譜ってことだろ。だから、ギロックだってもう弾くことはできなくても、英語で書かれてただの、そういうことは覚えてるし、スラーで並んだ音符が噴水の放物線だなんて、楽譜を絵みたいに言うんだ……まあ、楽譜の見た目なんて、そんなもの覚えてても、画像から音が想起できなければ仕方ないけどね」 ……その通りだ。指を動かさなければいけない、音を聴かなければいけない、そんなこと当然なのに、私が覚えているのは絵としての楽譜だったから、雨の日のふんすいも、今まで弾いたどの曲も、私にはもう弾けないのだ。 「あーでも」 私は手の中のサックスを見下ろす。そういえば、ピアノで弾いた曲は殆ど覚えていられないが、こいつで吹いた曲はまだ、思い出そうとすれば再現できることに気が付いた。……それって、単なる習い事のピアノよりも、サックスは部活でやってるんだから記憶に残りやすくて、身体に染み込みやすくて当然だからというだけなのか、ピアノよりはサックスの方がそれでもまだ向いているということなのか――。 「よく分からない、けど、こっちの方が、それでもマシ」 私はサックスをちょっと掲げてみせる。 「……そう」 それだけ答えると、桜田くんは再びピアノ椅子に座った。私は彼に背を向ける形になって、譜面台に向かい合った。チューナーの電源を入れる。側面の穴に通したディズニーキャラクターのストラップは、いつだったか――たしか去年の誕生日に、桃ちゃんがくれたものだった。私は、桜田くんを騙しているような後ろめたさに、彼の方を振り返ることができない。  ごめん。雨の日のふんすいを弾けない理由は、忘れてしまったからというだけではない。
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