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雨の日のふんすい
ピアノの旋律が聞こえる。
私は旧音楽室のドアの前に立ち、首から下げたアルトサックスをきゅっと握りしめた。手汗が楽器のボディに汚れを作るのではないかと不安になるような、ちょっとした緊迫。このおんぼろ旧校舎の音楽室で、一体誰がピアノなど弾いているというのか。意を決して、塗装が剥げて朽ちかけた木製のドアを引き開ける。
古くて、新校舎の音楽室にあるのよりもしょぼいピアノの前に座る少年は、思わぬ邪魔者が登場するも、こちらに目も向けなかった。西日で黄金色に染まった色白の頬も、柔らかに流れを描く髪も。女子すら羨むような顔立ちなのに、鍵盤の上の指先に視線を走らせる瞳に、静かな冷たさと虚ろさを感じて、私は彼を見つめたまま、一歩も動けなくなった。そんな私とは対照的に、鍵盤の上の彼は、どこまでも自由だった。新学期になって買い直したのか、少しサイズの合っていない学生服の袖から控えめに覗く、その10本の指は、いくらでも自由自在に白鍵の上を、黒鍵の上を動き回っていく。これはもはや、ピアノの「旋律」ではない。陳腐な表現をすれば「音のシャワー」、池に降り注ぎ水面に跳ねる雨粒、雨が、吹き出される水が作る無数の水紋、天気雨に反射する噴水の輝き……。彼のピアノは、そんな風景「そのもの」だった。
すみません、ここ、パート練習で使うんです、そう言うために、口を開いたのに。
「……ギロック」
ペダルで少しだけ残した最後の和音が消えた静寂に、気づいたらその一言を投げ込んでいた。雨の日のふんすい。ギロックの。この曲はやたら鮮明に記憶にあった。楽譜が英語で書かれていたから。速度もペダルも、指示は全部イタリア語ではなく、英語だった。2ページ目。「accellerating and growing louder」。アクセラレーティング。アクセラレーティング。まだ英語を知らなかった当時の私は、その言葉がやけに耳に残って、それを無意識のうちに今でも覚えていたのだ。左手の音符が上段に踊り出、右手と左手、全部が長い長いスラーで結ばれ、紙の上でおたまじゃくしたちが作る絵は、そう、まるで放物線を描く噴水の水のような。そんな、絵画のような楽譜、その画像イメージが、音に先行して私の記憶に植え付けられていた。
そして少年の演奏は。左手が右手を飛び越える。高音から低音へ、水溜まりをジャンプするような音の跳躍。放物線の、水飛沫の躍動を、妨げるものなど何もない。譜面と、鍵盤の上の指の、腕の動きが、ここまで障壁なくリンクする光景を、私は生まれて初めて目の当たりにした。
私の呟き声が聞こえたのか、少年がこちらに顔を向けた。そういえば彼とは初めて真正面から相対したが、やはりその眼の、彼自身が抑え込めない冷たさに、もう雪解けの季節からはかなり経ったというのに、背筋がひやりとしたような気になった。
桜田奏也くん。
1学年3クラスしかない田舎の中学で、3年生にもなれば、同学年で話したことのない奴の方が少なくなる。そうだとしても、桜田くんは有名人と言ってよかった。私にはそれがどれくらいすごいのか分からないピアノのコンクールでよく入賞しては、全校集会などで表彰されているからだ。1年生や2年生でも、桜田くんの名前を聞いたことのない者の方が珍しいだろう。
「吹部? ここ使うの?」
ピアノ椅子から立ち上がることもなく、桜田くんが言葉を発した。そういえば、彼の声を聞いたことすら、初めてかもしれなかった。こちらが気味が悪くなるほど抑揚のない声音。そこから彼の感情を読み取るのはほぼ不可能に思われた。
私は我に返り、何か返答をしなければと焦った。
「え、えと、パート練、するので……」
「パート練?」
無表情な桜田くんがわずかに眉をひそめ、その声にも疑念の色が顔を覗かせた。
「見たところ、君一人しかいないけど」
「えっと……先輩がいなくなってから、ずっと私一人で、今年うちのパートに新入生、入れられなくて……」
「ふーん。堕ちたね、F中の吹部も」
「⁉ なっ……」
「だって、4人は必要であろうサックスに、君みたいなのが一人しかいないんだろ? 新入生を一人も入れられなかったなんていう情けない事態も、事実には変わりないんだし」
……色々と失礼過ぎて、何から突っ込めばいいのかすら分からない。彼と話したのは初めてだし、彼自身があまり社交的なタイプではなさそうなので誰かと話しているところもあまり見たことがなかったのだが、いざ接してみるとこうまで口の悪い男だったのか。
……でも。桜田くんのような音楽の素養のある人に言われてしまえば、私のような素人の域を出ない人間には、言い返すべきことなど何もない。
「西関東大会9年連続出場だかなんだか知らないけど、あんまり勘違いしない方がいいんじゃない」
「……っ、勘違いだなんて、私たちは、そんなっ……!」
殆ど中身のない口ごたえをしながら、頬が紅潮していくのが自分でも分かった。……一体、何だというのだ。この人は、吹部に何か恨みでもあるというのか。
俯いて黙り込む私を見やり、桜田くんが再び口を開く。
「藤野さん……藤野理琴さん、だよね、2組の」
私はがばと顔を上げ、桜田くんの輝きのない瞳を凝視してしまった。
「……何」
「……あ、いや、桜田くんが私のこと知ってると思わなくて」
「覚えてるよ、ピアノ弾く人のことは」
「あ……」
たしかに私は、1年の時も2年の時も、合唱コンクールでピアノ伴奏をした。……それで、桜田くんに覚えられていたのか。
……そんなことより。桜田くんがなぜ雨の日のふんすいなどという、小学生が発表会で弾くような曲を、吹部でもなければ思いつかない旧音楽室などという場所で弾いていたのか、全くもって理由の想像がつかない。
「好きなの? 雨の日のふんすい」
「……さあ」
何だ、その答えは。じゃあなんで弾いていたんだよ。
「あー。パート練習、するんだよね。僕は消えるよ」
「あ、いえ、」
ピアノ椅子から腰を浮かせかける桜田くんを制する。
「実質、個人練習みたいなものだし。お、おかまい、なく」
なんで、制した――? パート練習で場所を使いたいのはこちらだし、追い払ってしまえばいいのに――。
「まあ僕も別に邪魔はしないからさ」
ここで1ミリも遠慮しない彼も彼で、どうかとは思うけれど。ピアノの後ろの窓枠に肘をつき、大昔ブームに乗っかって植えたのか、今となっては古びた田舎の旧校舎との不釣り合いさがダサい、外の並木の南の島の木を虚ろな眼で眺める桜田くんを横目に、私は握りしめていた譜面台を床に置き、音出しを開始する。この日のパート練はほとんど、教則本をさらうことに費やされた。が。桜田くんはたしかに私の邪魔になることもなく、何をしていたんだか終始ピアノに向かっていたが、譜面台に立てた教則本越しに、時々舌打ちやら溜め息が聞こえてきた。
……いやまあね、たしかにちっとも邪魔にはなっていないんだけど。なんだろう、この絶妙にムッとする感じ。でも一方で、桜田くんにそのように思われても仕方ないか、と分かってもいた。
気が付けば、そろそろパート練を切り上げて合奏に向かわなければいけない時間になった。譜面台やら楽譜やらの荷物をまとめる私の後頭部に、桜田くんの声が降る。
「はーあ。折角、隠れ場所を見つけたんだけどな」
「私は、いつでもピアノ弾きに来てもらって、構いませんからっ……!」
自然と口を突いて出ていた。心なしか丸く見開かれたように思える桜田くんの色のない瞳と、視線が絡んだような気がした。私は譜面台を持ち上げると、桜田くんをちらりと見やり、旧音楽室を後にした。
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