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抜けるような青い空に、白い雲が糸を引いていく。
僕はそれを見て、まるで夢のようだと思った。
だから
夢なら覚めてくれ、と思った。
僕が市役所に行ったのは、住民票を取るためだった。
酷く暑い日だったが、二枚の自動ドアで区切られた市役所内は冷房のお陰で天国のような快適さだった。思わず背伸びをして、冷気を存分に吸い込む。額に浮き出ていた汗まで冷たく感じられてきた。
僕は自転車を漕いでいる最中に失った水分を補うべく、冷水器に向かった。
トイレの横に設置してあるそれは、ペダルを踏むとやたらと冷たい水がちょろちょろと上の飲み口から出るタイプで、正直言うと、飲み口に口を付けて飲んでいる人がごく稀にいたりするので嫌ではあった。だけど、住民票の窓口に行く前にちょっと飲むだけだし、自販機で紙コップとなれば、ベンチに座ってゆっくりしたい衝動が湧き上がってしまう。面倒な事はさっさとやってしまうのに限る。
だから冷水器だ。
幸いにも冷水器の前には誰もいなかった。
さっと飲んで、さっと窓口に行く。そこでどれだけ待たされるのかは判らないが、運が良ければ十分もかからずに帰れるかもしれない。またあの暑い中に出て行くのは少し嫌だけども、家に帰ったらクーラーを全開にして、冷蔵庫の冷えたビールを――
汗の匂いがした。
僕のではない。後ろから冷房の風に乗って、ふわりと大きく匂ってきたのだ。
振り返ると男の人が立っていた。
サラリーマンだろうか、長身で柔和な顔。ワイシャツの袖をまくってハンカチで額を拭いている。
「いやあ、暑いですねえ」
男はそう言って笑った。男の人の額にも僕と同じかそれ以上にびっしりと大粒の汗が浮かんでいる。
僕は男が徒歩でここに来たのだなと推測した。そして、こう言った。
「ホントに酷い暑さですね。あ、僕はいいんで、お先にどうぞ」
僕がそう言って横にどくと、男は「いや、それは――」と申し訳なさそうな顔をした。
「いやいや、お先にどうぞ。僕は――ちょっとそこで涼むんで後で飲みますんで」
僕はそう言うと、その場を離れた。まあ、些細な自己満足だけど、一日一回、何か良い事をすればビールが美味くなる(ような気がする)のだ。
僕はベンチに腰かけた。曲線を描く背もたれは固かったが、ひんやりしていて心地いい。
男の人は僕に微笑むと、頭を下げ冷水器のペダルを踏んだ。
僕も軽く会釈すると、ベンチに深く腰掛け、高い天井を見ながら再び冷気をゆっくりと存分に味わった。
「おい、あんた何やってるんだ!?」
はっとして目を開ける。どうやら気持ちよくて眠ってしまったようだ。スマホで確認すると十五分といったところだろうか。
僕はうん、と伸びをするとベンチから体を起こした。視線が天井から正面に戻る。
男の人の後ろ姿が見える。
その横に警備員がいた。
「聞いてるのか? 無視するんじゃない! ほら、さっさとやめなさい!」
冷水器の前に行列ができていて、並んでいる人達がイライラとした様子で男の人を見ている。
まさか、僕が眠りこけている間、ずっと水を飲んでいたのだろうか。
そんな馬鹿な……いや、そうでもなければ警備員なんて来ないか。
僕は男の人の横顔が見える位置に、体をずらした。
男の人は目を瞑り、喉を動かしながらゴクリゴクリと水を飲んでいる。冷水器の斜め上にある照明の淡い光が、口と飲み口の間の水に反射して煌めいた。
美味そうに飲んでいるなあ。
僕はその様をうっとりと眺めた。
冷水器と、ペダルを踏んで水を飲む男の人は、それだけで完成されていた。余計なものは何も無く、ただ『渇き』と『潤す』だけがある。
変な話だけども、実に芸術的じゃないか。
僕のくだらない夢想は、悲鳴によって中断された。
「ど、どうしました? あ、熱中症――」
最初に、男の人の次に並んでいたおばさんが倒れた。悲鳴を上げ、僕の夢想が中断し、警備員が驚いて駆け寄って――彼もそのまま倒れた。
スローモーションのようにゆっくりと、首をのけ反らせ、警備員は口から舌を出し、喉を抑えて仰向けに倒れた。
並んでいた人達が驚いたように一歩下がる。
冷水器を照らしていた照明が音を立てて割れた。
どこかで、パキッ! と凄い音が木霊した。
ざわざわとしていた市役所内が、一瞬にして静かになる。
暑さでガラスが鳴った?
それとも地震?
もしくは突発的に強い風が吹いた?
まさかと思うが、この建物自体が何らかの要因で崩れるとか――
ひっという声に冷水器に視線を戻す。
並んでいた人達が次々と倒れ、もがいていた。喉を抑え、絞り出すような声を上げている。金縛りにあったようにそれを見続ける僕の方に、助けを求めるように手を伸ばした人がいた。
僕と同年代くらいだろうか、ガタイのいい髪を赤色に染めた男の人だった。
赤髪の人は大理石の床に手を這わせ、体を引きづりながら僕の方に手を伸ばした。僕は椅子に腰を降ろしたまま、震える手を伸ばす。
あと一メートル、というところで赤髪の人の顔に変化が起きた。
口が縦に大きく開き始めた。同時に黒目が上を向き、体全体がのけ反り始める。伸ばした指先の爪が黄色く濁り、肌がカサカサになってひび割れてゆく。
思わず僕は手を引っ込めた。
指先が少しひりひりしたからだ。
赤髪の人の目がしぼみ始めた。赤髪がぱさぱさになって抜けてゆく。頬が落ちくぼみ、顔全体が一気に小さくなったかと思うと、開いた口の中の舌がぎゅっと萎んだ。
体がそのままのけ反っていき、火であぶられたスルメのように丸くなると、かさりと信じられないような音を立てて横倒しになる。
……は?
し、死んだ?
え?
な――なんだこれ?
並んでいた人達は皆、同じような状態で床に倒れていた。
背後で悲鳴が上がった。
ベンチ越しに振り返ると、窓口で女性職員が震えながら萎んでいく最中だった。右隣の窓口の職員は脱兎のごとく奥に向かって走って逃げだした。左隣の職員は両手で口を押え立ち尽くしていたが、うぐぅという声を漏らし萎み始める。
窓口職員と、並んでいた人達がばたばたと倒れて萎んでいく。声を上げようとして、何かに掴まろうとして、そのまま萎んでいく。
ぱさり、とベンチに何かが落ちてきた。
小さな蛾だった。
羽を下にしてぴくりとも動かない。
死んでいるのか?
僕は蛾に手をゆっくりと伸ばした。
触っても平気なのだろうか。赤髪の人は触ってはいないが、手を伸ばしたら指先がひりひりした。しかし、すぐに手を引っ込めたら、今も僕は無事だ。
指先に神経を集中する。
蛾の死体を抓んで、じっくりと観察してみたい。
何か感じたら、すぐに……。
さくり、と小さな音がした。
ゆっくりと指を上に上げる。力が入りすぎたのだろうか、蛾の死体は指の下で粉々になっていた。
いや――と僕は頭を振る。
そんな力はいれていない。虫の抓み方は判っている。
触っただけで粉々になったんだ。
僕は蛾の残骸を抓んで、目の前に持ってきた。
水分が感じられない。
まるで滑らかな砂みたいだ。
さらさらと小さな音が聞こえた。
僕は床に転がっている並んだ人達に視線を戻した。
体の一部、いや服の一部までもが崩れ、砂のようになって床に拡がり始めている。
いや、と僕は耳を澄まし、天井を見上げた。
上から砂が降ってきている。
天井のボードが崩れ、剥き出しの鉄骨までもが砂になり始めている。
その間から、澄み切った空が見えた。
ふわりと熱気が降りてきた。
遠くからどーんと激しい音がする。
はっとしてそちらを見ると、壁が崩れ、その向こうでアスファルトが崩れ、更にその向こうで車が正面衝突していた。
悲鳴。
サイレン。
爆発音。
悲鳴。
悲鳴、悲鳴、爆発音、何かが倒れる音、悲鳴、そしてさらさらざらざらどさささと乾いた砂が降り積もって拡がって行く音、音、音。
これはベンチに座ったまま見ている夢なのか。
僕の周りの人達や建物は、干からびて萎み、そして砂になっていくのだ。
そんな中、あの男の人はまだ水を飲んでいる。
僕はベンチに座ったままじっとその横顔を見続けた。
夜になり、それから朝になると僕の周りは砂が拡がっているだけになってしまった。
広大な砂漠の中に、ポツンと僕が座ったベンチと、男の人が水を飲んでいる冷水器があるだけだ。
今立ち上がったら、このベンチから離れたら、僕も砂になってしまうのだろうか?
轟音をあげて戦闘機らしき物が、遥か遠くに墜落した。
爆発はしなかった。きっと飛んでいる最中から胴体も乗組員も、そして燃料も砂になっていったのだろう。
それから何機も何機も戦闘機が飛んできては砂の山になっていった。一瞬だったけど、機体の色や種類が違うように見えたから、色々な国がここを攻撃しようとしているに違いない。ミサイルらしきものも飛んできたが、戦闘機と同じように惰性で飛んできただけで、僕らのはるか手前で砂に潜っただけだった。
抜けるような青い空に、白い雲が糸を引いていく。
僕はそれを見て、まるで夢のようだと思った。
あれはきっと核弾頭に違いない。
でもきっと無駄だ。
雲だってすぐに消えるのだ。
水分は、あの冷水器を通して男の人に飲まれてしまうのだ。いや水分だけじゃない。エネルギーも何もかもがあの男の人に飲まれてしまう。
残るのは砂だけ。
だから夢なら覚めてくれ、と思った。
僕は男の人にこう言ってしまったからだ。
「いやいや、お先にどうぞ。僕は――ちょっとそこで涼むんで後で飲みますんで」
僕の順番がいずれは回ってくるのだろうか。
とはいえ、誰かに喉が渇いているのかと聞かれたなら、僕はこう答える。
はい、からからです。陽射しがとても暑いですからね、と。
暑い時、人は水を飲まずにはいられないじゃないですか、と。
了
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