第1章 第1話 悪魔が来りてケツを拭く

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第1章 第1話 悪魔が来りてケツを拭く

 視線を感じる。  井上麻莉はバイトからの帰り道であった。大通りから脇道に一本逸れただけで、辺りは暗闇に飲み込まれた。  背後が気になった。跫が脳裏に反響する。自分のハイヒールとは別の音だ。 (誰かにつけられている?)  自分のアパートまで速足で歩いた。  自意識過剰かもしれないが、最近、何かが身に迫っている予感がする。  九月になってから気候が悪い日が多い。昼までの台風の残りの泥濘を避けながら、無心で走った。  コツコツコツ。自分のとは違う靴音がする。  後ろを振り向くのが怖かった。  角を曲がったところで、全力疾走した。  自宅アパートの扉を開け、階段を足早に上った。二階の踊り場からそっと外を見た。  人影は見えなかった。アパート前の街灯が揺ら揺らと灯っていた。  乱暴に自宅に雪崩れ込んだ。家に着いても動悸は収まらなかった。背後を確認できなかったので相手の正体は不明だ。気息奄々の麻莉は化粧も落とさず、部屋の隅で震えていた。   落ち着いてから、友達に電話を掛けた。一人暮らしのため、頼れるのは親友の泉美だけだ。実家にいた時は怖い思いなんて全くしなかった。あの時に戻りたい。こういう時は、実家暮らしだった時のありがたみが沁みる。  泉美に電話すると、緩い声がスマホから流れた。「んー、もしもし~」  電話越しにも泉美がベッドでくつろいでいるのが想像できた。 「相談してもいい?」 「お金貸してとかはダメよ、あたしも金欠なんで」 「違うって! バイト、また始めたから大丈夫」  先月から、コンビニバイトを始めたのだ。人見知りする癖を直したくて、敢えて接客業に挑んでみた。 「金じゃない相談ってことは、男絡みか。むしろ、あたしに紹介して」 「ちょっと! 泉美は彼ピいるでしょ」 「アイツは将来性にかけるからな~」  恋人がいるだけでも羨ましい。  麻莉は恥ずかしながら生まれてこの方、男性と付き合ったことはない。  泉美に相談事を伝えた。「最近誰かに後ろをつけられている気がするの」 「え、恋の予感? コンビニバイトで、麻莉に一目惚れした男が現れたの?」 「いや、ストーカーのようなやつ」 「それマジ卍のやつ?」 「卍かは分からないけど、見られているような気もするの」  恋の視線ではない。厭な視線だ。  思い出すだけで鳥肌が立つ。 「なんか具体的なことされたの? 盗聴器しかけられたとかー。家に忍び込まれていたとかー。下着を盗まれたとかー」 「ええっ! そんなことされたら死んじゃう!」  そのようなことがこの後、起こりうるのかと身震いしてきた。 「そのくらいのことがなきゃ警察は動かないよ」 「えーーーー。何かあってからじゃ遅いじゃん!」 「それさー。本当にストーカーなの? 麻莉の思い過ごしじゃない?」  そう言われると辛い。過敏になりすぎか。 「よくよく考えてみたら、本当にストーカーがいるのかも分からない。どうやって調べればいいかな」 「探偵とか雇ってみれば」 「え、その選択肢はなかった」  目から鱗が落ちた気がした。 「分かった、ちょっと調べてみるね。ありがとぉ」  希望の光が見えた。  ネットで調べた。すぐに検索に引っかかった探偵事務所は、料金が桁違いに高かったからスルーした。  何ページか潜るうちに、大学生にも良心的な料金の探偵事務所をみつけた。 『江口探偵事務所』、ここにしよう。他の事務所に比べると料金も安く、近場だ。なんといっても初回の相談は無料らしい。探偵事務所なんて行ったことないから、まずは相談がてら訪ねてみようと思った。  それはみすぼらしいビルの一室だった。泉美を連れてきてよかった。一人だったら引き返していたところだ。江口探偵事務所と書いてある。予約した名称と一致しているので、間違いない。 「ほら、入りなさいよ」  泉美に後押しされ、ドアを開けた。ベルの音がビル内に反響した。 「いらっしゃいませ。井上麻莉様でございますね」出てきた男は麻莉の苗字を呼ぶ。 「あ、は、はい」  麻莉はお辞儀をした。  急に男性が相見えたので、多少きょどってしまった。男性の人とはいまいち目を見て話せない。 (わたしが来るのを待っていたってことは、繁盛してなさそう)  そこにお掛け下さい、とカウンターの前を示された。  麻莉と泉美が座に着くと、男が訊いてきた。「お飲み物はいかがですか? 紅茶、コーヒー、お茶などあります」 「あたしはアイコで」  泉美が作り笑顔で答える。泉美は初対面の人には愛想がいい。  泉美のフレンドリーさが羨ましかった。  麻莉も彼女と同じものを注文した。  男は、「少々お待ちください」と奥の部屋に消えた。  店員は男性一人のようだった。  泉美は待ち時間の中、手鏡を出して、一生懸命化粧直しをしていた。 「泉美、どうしたの?」 「思ったより、若い男だったからオメカシしとかないと。探偵のイメージからもっと歳いったオッサンを想像していたの。割といい男じゃない」 「え、どこが?」  よく顔は見ていなかった。ワイシャツのカフスが派手だなと思ったくらいだ。ネクタイはつけていなく、首元が見えていた。20代後半から30代前半に見えるが、職業柄もっと歳をとっているのだろう。麻莉の探偵のイメージはトレンチコートを着て(今はまだ夏なのでそれはないが)、タバコを吸っていて、嗄れ声の筋肉質のおじさんのイメージだった。が、どれも正反対のイメージの人だった。  マイナーな探偵事務所を選んでしまったのを後悔してきた。値段が高くとも有名どころにすればよかった。あの男は経験が豊富そうではない。本当にストーカー問題を解決できるのか疑わしい。  男が奥の部屋からお盆を持って戻ってきた。彼が口を開く前に泉美がしゃしゃりでた。 「あたし、付き添いできちゃった麻莉の友達ですけど、同席してもいいですかぁ」 「はい、もちろん」と男は笑顔でいい、グラスを置いた。  名刺を二つ分渡してきた。  江口颯介。読みは、えぐちそうすけ。下の名はフリガナがついていなかったら読めなかった。 「あたし、泉美です」泉美が先に満面の笑みで自己紹介する。「本日、無料相談に来たんですけど、お金って本当にかからないですかぁ」 (わたしが依頼主なのに、泉美に主導権を握られてしまっている) 「はい、もちろんです。今回の無料相談だけで辞めても問題ないです」  チャラい男だったので、そのつもりである。  チャラ男、江口探偵は続ける。「メールによると、ストーカー被害の相談ですよね。ストーカー対策の冊子もありますので、持ち帰って下さい」  渡された冊子を捲ってみると、ストーカー被害にあった場合の取るべき行動、やっちゃいけないことが事細かに書いてあった。家に帰ってから熟読しよう。  この冊子だけでもここに来た甲斐はあった。ってか、これがあったら二回目なんて来る客いないのでは。  麻莉の思ったことと同じことを泉美が質問する。「二回目以降の来店する意味ってありますかぁ?」 「ストーカー被害は、警察がなかなか対応してくれません。事件が起きてからでは遅いのです。確たる証拠を私が見つけ、警察にストーカーを突き出してみせます」  男の言っている意見には賛成だ。信頼度が少し上がった。  泉美が口を尖らせる。「でも、次からってお金結構かかりますよね……」 「料金はこのようになっています」 江口探偵はプリントされた紙を渡してきた。  二度目の来店はほとんど考えてなかったので、流し見だけした。  泉美がそれを見ながら言う。「高いですぅ。あたし、学生だからお金ないです」 「身体で払ってもいいですよ」探偵は口角を上げて言う。  冗談のつもりだろうが、全く面白くない。麻莉は不機嫌の絶頂になった。二度目の来店はない。きっぱりと心の中で決めた。  一方、泉美はきゃきゃと笑っている。 「あたし、身体で払ってもいいですかぁ」 「泉美はストーカー被害、受けてないでしょ!」  井上麻莉は嘆息し、胃のあたりで蠢く苛立ちに耐えていた。社会人と思えない、合コン的なノリにイラっときた。  第一印象は今風の若者で頼りない男だったが、第二印象はセクハラ男である。  江口探偵は、「お客様のプライバシーは第一に考えています」と秘密保持の文書を渡してきた。それを読むのも束の間、アンケートなのか、何なのか分からないが、自分の住所やら、相談に来た理由などを書かされた。  探偵がそれを読みながら麻莉に質問する。 「ストーカー被害はここ一か月ですか。最近、何か身辺の変化はありましたか? 引っ越したとか、バイト先を替えたとか、彼氏と別れたとか」  残念ながら、彼氏はいたことがない。 「バイトを一か月前から始めました」 「それは関係してそうですね。バイト仲間の男性などで、あやしい人物はいませんか?」 「いや、特には……」  バイトの店長はいい人だ。一緒に働いている女の子もフレンドリーだ。 「コンビニに来る客はどうですか? 頻繁に通っている客はいませんか?」 「よく来る客はいますけど、別にあやしいとかは……」 「そうですか」  江口探偵は麻莉が書いたアンケートに目を落とす。 「ストーカー被害かどうか、まだ確証がない、とのことですが、今までどんなことがありました? 些細なことでもいいので教えて下さい」 「バイトが終わった後に、後ろを誰かがついてきている気がするんです」  それだけである。口に出してしまうと自分の思い過ごしじゃないかと思えてきて、恥ずかしくなってきた。  麻莉は補足した。「あ、ここに来る時も後ろに視線を感じました」  それには泉美も驚きの声を上げた。「えー、あたしとずっと一緒だったじゃない。誰も尾行してないって」  江口探偵が言う。「犯罪とストーカーの足音は、いつでも忍び足でやってくるものです」 (なんか、もっともらしいことを言っている!) 「探偵さん、ストーカーがいるって信じてくれたのですね」 「一応調べてみましょうか」  江口探偵はデスクの引き出しから、録音機のような小型の機械を取り出した。見たことがない代物だった。スイッチを入れ、それを麻莉の身体の周りにかざす。  もしかして、盗聴器発見器? 麻莉が喋ろうとしたら、男は口に人差し指を当て、喋らないようにと合図してきた。  江口探偵がその探知機を麻莉の近くで翳すと、それにランプが灯った。  江口探偵は紙にメモした。 『盗聴器があります。今は何も喋らないで下さい。証拠を掴む前に逃げられたら困るので、盗聴器に気づいてないふりをしましょう』  麻莉は倒れそうになった。いつから盗聴器が? 全ての会話を聞かれていたと思ったら恐ろしくて、眩暈がした。 『今、盗聴器を探しますが、決して喋らないで下さい。静かに立ち上がって下さい』  麻莉は音を立てないように椅子から腰を上げた。緊張していたので、定規のように真っすぐに背筋を伸ばした。   江口探偵が麻莉の背後に回り、椅子をそっと引いた。 (なんで後ろに?)  疑問に思ったが喋るなと言われている手前、口を一直線に結んだ。 (え……)  江口探偵の手が麻莉の臀部に触れてきた。
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