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第1章 第3話 恐怖の胸の谷間
来る客たちは店内の涼しさに生き返るようだったが、ずっと店内でバイトしている麻莉には若干寒かった。
ふと気づいたら、お弁当を前に置かれていた。即レジ対応する。
「お弁当は温めますか?」
「電子レンジくらい持っているよ、馬鹿にすんじゃねーよ!」
(えーーーー!)
客の突飛な言に面食らった。
「も、申し訳ございません」
強く言われ、ちょっと涙ぐんでしまった。ストーカーで困っている時にクレーマーまで出てこないでほしい。
男の怒声がまだ店内に残響していた。他の客たちもカウンターの方をチラチラ見ていた。
大きな声で思い出した。最近、よく来る客だ。何故かわたしのレジの列によく来るのだ。
昨日は、ビニール袋をいるかと尋ねて怒られたのだった。『弁当を手で持って帰れっていうのか!』と怒鳴られた。そして、有料ですがよろしいですか?と尋ねたら、『そんなこと知っているよ!』と怒られた。
(わたしは規則通り、仕事をしているだけなのに)
麻莉はもう一度頭を下げてから、お弁当をレジ袋に詰めた。
男はこちらを睨んでから大きな足音をたて、出て行った。自動ドアのチャイムの音が店内にこだまする。
坊主で体格がよく、見た目から激しやすい人だった。ああいうタイプは、くしゃみも大きいのだ、きっと。
バイトが終わっても、外はまだ暑さが残っていた。また店内に戻りたくなってきた。店外に一歩出るだけで、体が汗ばんだ。
麻莉が外に出た瞬間、電柱の影に隠れた人がいた。暗くてよく見えなかった。
歩くと、電柱に隠れた人影が動いた気配がした。後ろを振り向いてないので確かではないが。
(逃げないと)
後方から、文目も分かたぬ気配がする。
(だ、だれ……?)
麻莉は競歩の如く、足を速めた。
(もしかして、わたしがバイトを終わるのを待ち伏せしていた人がいた?)
後ろが気になって仕様がない。けど、振り向けない。振り向いて誰かがいたらどうしよう。震えて、振り向けなかった。
雨がパラついてきた。天気予報を見ていなかった。
走った。
アパートまで長かった。角を曲がれば着く。
振り返った。来ていない。尾行をまいた。
アパートの方を見て、愕然とした。
(……え、人が!)
アパートの前を不審な男がうろついていた。
傘で顔は見えなかった。何が不審かは自分でも定かでなかったが、本能がそう語っていた。
どういうこと? 尾行を振り切ったはずだったのに。何故、先回りされた? 一番近いルートを通っているはずだったのに。
ちょうどそこに、同じアパートのおばさんが出てきた。
「あら、井上さん、こんにちは」
「こんにちはー、雨振り出しましたね」
「そうねー、最近、多いわね」
おばさんと話していると、アパート前の傘の男はいなくなった。よかった。
麻莉の部屋は二階である。階段を上ると息が切れた。
廊下の外壁から、アパートの外をそっと見た。
傘の男がアパート前をうろうろしていた。黒い傘で顔は見えない。性別も定かではなかったが、なんとなく男のような気がした。あの人がストーカーだろうか。脚が震えた。
麻莉は急いで部屋に戻り鍵をかけた。何度も、何度もロックされていることを確認した。
鍵を閉めても怖かった。
麻莉は、また泉美に電話した。頼れる人が彼女しかいない。
「泉美、相談があるんだけどぉ」
「また、例のストーカーのこと?」
先ほどの件を話した。後ろからつけられていると思ったら、いつの間にか先回りされていたのだ。
「瞬間移動? うけるー」
「ウケないから!」
(泉美にはわたしの恐怖が全く伝わってない! なんでへらへら笑っているのよ)
泉美が一通り笑ってから言う。「探偵事務所でストーカー対策の冊子もらったじゃない。あれになんか書いてなかったの?」
冊子のことは忘れていた。
「あ、今から読んでみる。ありがとう!」
「今度、ごはん奢ってね」
「はいはい」
電話を切るなり、ストーカー対策の冊子を読み漁った。
始めは十二分に承知しているような当たり前のことが書いてあった。
戸締りをしっかりして下さい……って、ストーカー関係なく戸締りはするよ。
元彼がストーカーになるケースも多いので、合鍵は気を付けようと記載あったが、元彼なんて妄想の中でしか存在しないから関係ない。
自分に関係なさそうなページは斜め読みした。
(バイトにおける心得なんて書いてないよねー)
パラパラと目次だけ見る。
『バイト先でお客さんがストーカー行為をする理由と対処法』
「これだ!」部屋で一人なのに思わず声を出してしまった。
客がストーカーになるパターン。
『接客上の態度を自分への好意と勘違いした』
(えー、愛想よくするのが接客業の目標じゃないの?)
特定のお客に態度を変えたことはない。皆、同じに接している。
しかし、笑顔を振りまいたところでバイト代が上がるわけじゃない。もっと与えられた仕事にのみに徹するか。
次に対処方を読んでみた。
バイト先でのみつきまとってくる場合は、シフトを変えたり、バイトを変えたりしましょう。ストーカーが発展すると、学校や職場や家までつけて来たりします。
(怖い! 次、出勤したら、店長にシフトチェンジの調整をしよう)
しかし、大学の合間にバイトをしているので時間は限られている。やはり、バイトを辞めるしかないのか。店長が優しいので気が引けるが。
他には、『はっきりと迷惑であると伝える』とあったが、これはハードルが高い。逆上されたら困る。それに、後ろを付けられている気配はあるが、誰がストーカーかまだはっきりしてないのだ。コンビニの客なんて多すぎて顔なんて覚えてられない。
警察に相談する、という対処もあった。だが、ストーカーの問題は、警察が真剣に動いてくれないことも多い、と書いてあった。基本的に警察は民事不介入であり、事件性があるケースでないと動くことができないから、らしい。
『ただし、近年はストーカーの被害が増えていて、殺人事件にまで発展するケースもあるため、警察は以前よりもストーカーへの対策を強化している』とは書いてあるものの、まだ不安だ。
水彩を水に滲ませたかの如くの天気であった。暑かったり、台風がきたり、雨が降ったり、日によって天気が違いすぎる。麻莉の気分と同じであった。
今日は厭な客は来ないで、とお祈りしていたら……神の悪戯か、またあの客が来た。
大男はカップ麺を出してきた。
嫌な顔はしないように心懸けた。
麻莉は笑顔で訊いた。「お箸を置着けしますか?」
「箸くらい持っているよ!」彼の怒鳴り声は店内に響いた。
(えーーーー!)
家に持っているかどうかを聞いているのではない。外で食べるかもしれないし、家でも割り箸を使いたい時はあるだろう。貧乏性のわたしは、とりあえず割り箸は毎回もらっている。
麻莉はやっと学習した。この人には何も喋っちゃだめだ。
何も言わずに箸を入れるのが正解か。
しかし、訊かずに箸を入れなかったら、『ラーメンを手で食べろって言うのか!』とクレームを言われていたりするかもしれないし、どうすればいいのだ。
(人それぞれ求めるものは違う。わたしは人の心は読めない)
あと、この人に怒られるパターンとしては、お酒の時か。まだ酒は購入していないが、ボタンを押させるのに苦労しそうだ。『俺が未成年に見えるのかよ!』と怒鳴られるのが目に見えている。
大学に着くと、泉美が早速話しかけてきた。
「昨夜、麻莉があたしに相談していた件、イケメソ探偵に言ったの」
「イケメソ探偵なんて、知らないし」
麻莉にとっては、ダサメン探偵である。
「そしたらね。探偵さんが、『考えられる可能性は三つあります』だってぇ」泉美がスマホを見ながら言う。「一つ目は、ストーカーが井上麻莉様の知らない近道を知っていた。二つ目は、どちらか、もしくは両方がストーカーではなくただの通りすがりだった。三つ目は、ストーカーが一人ではなく、二人であった場合です」
「ちょっと!」
麻莉は大学のデスクを思わず叩いた。周りの人たちが振り向いて恥ずかしかった。
一人のストーカーでも勘弁してほしいのに、複数人いるなんて、考えるだけでも恐ろしい。
「なんで急にストーカーがそんなに出てくるの。いままで全然そんなことなかったのに」
(もう、泣きそう)
最初の可能性はない。他の近道は存在しない。二つ目も違うと思いたい。思い違いではなく、ストーキングされている。
泉美が麻莉の手をとった。「じゃ、もう一度、例の探偵事務所に行こう!」
(なんでそうなるかね)
江口探偵に胸を揉まれたことを思い出して、顔が熱くなるのを感じた。
後ろから揉みしだかれたのがついさっきのことのように感じられる。あの光景が蘇った。あたかも、そこに何かの印でも探しているかのように探る探偵の掌。
(いやだ、もう探偵事務所には行きたくない!)
麻莉は、胸を守るように手で押さえた。
泉美が顔を覗き込んできた。
「麻莉ったら、探偵さんのことを思い出して発情しちゃっているのね」
「違うから!」
「ムキになって否定するところが、あやしいー。ほら、またこうされたいんでしょ」
泉美が胸を鷲掴みしてくる。
「やめてよ、ここ大学だから、みんな見ているって!」
麻莉は泉美の胸を揉み返した。
(泉美くらいに巨乳だったら、まだよかったのに)
麻莉は自分の貧乳を痛感して、落ち込んだ。
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