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第1章 第4話 パンツがなければ、お菓子を食べれ ばいいじゃない
そして、探偵事務所に行く時間はやってきた。麻莉は、泉美の強引さに負けたのだった。
気が弛緩気味の麻莉は普段通りの地味なスカートを履いてきたが、泉美は大学のミスコンにそのまま出られそうなお嬢様系ファッションに身を包んでいた。思わず羨望の眼差しで見つめてしまった。
「彼女いなくて募集中だって言っていたのぉ」泉美は嬉々とした表情で言う。
「えー、同い年の彼ピの方がよくない?」
「今日は彼ピには触れないでね。あたし、彼氏はいなことになっているから」
「はいはい」
泉美が探偵事務所のドアを開けた。
(わたしが主役なのに、今日も主導権をとられてそう)
お待ちしていました、と男が手を合わせて迎えた。
注文を聞かれたのち、飲み物を取りに男は一旦奥の部屋に消えた。
泉美が黄色い声を出す。「きゃー、かっこいいわぁ」
「どこが! ってか、ストーカー被害を受けているのはわたしだから、ちょっとは遠慮していてよね」
江口探偵が飲み物を持ってきた。
「本題に入る前に料金の説明からいいですか」
(う。今日は無料じゃなかったのだった)
麻莉は財布の中身を確認したくなった。足りなかったらどうしよう。
「では」と探偵が料金説明を終えてから、話し出した。「誠に勝手ながら、井上麻莉様の周辺を探らせて頂きました」
まだ正式な依頼もしていないのに勝手すぎるだろ、と麻莉は思ったが、口にはしなかった。怒っても表に出せないタイプである。
江口探偵はそのまま話を続けた。「ストーカー被害は難しいもので、何か起きないと警察は動いてくれません。ですが、何か起きてからでは遅いのです。私は常々、未然に防ぐべきだと思っています」
(だから、断りもなく身辺を探ったと言い訳しているのか。探偵に調査されているなんて全く感じなかった!)
「まだ調査日数が浅いので確証は得られていませんが、ストーカーで有り得る、もしくは今後なりそうな人物を二人程ピックアップしてきました」
泉美から事前に聞いていたとはいえ、ショックだった。一人のストーカーでも怖いのに二人だなんて。二倍の怖さだ。
「ストーカー開始の時期からみて、コンビニバイトで麻莉さんを見つけたのでしょう。井上麻莉様のファンになったのです」
(ファンなんて言い方、やめて……)
鳥肌がたった。
江口探偵が懐から写真を二枚出した。一枚目を自信満々に見せる。
「私はこの人物が一番危険かと予測しています。心当たりはありますよね?」
恐る恐る写真の人物を見た。病的に痩せた、眼鏡を掛けた、不健康そうな男の人だ。何を考えているか分からない細い目、窪んだ眼窩が怖い。20代くらいだ。
見知っている人物ではない。
「知らない人です。本当にこの人がストーカーですか?」
「コンビニによく来ていますよ。覚えていませんか。名を山岸雄太と言います」
名前を言われても、客は名乗らないので分からない。
「さあ、お客さんはいっぱいいるので」
泉美も身を乗り出して写真を見た。
「オタクそう。イケメンだったらよかったのにね」
「イケメンでもストーカーなんてする人は嫌っ」
覚えのない人だったので、探偵の言うことが信じられなくなってきた。この事務所に来させて、お金を稼ぐ戦法ではなかろうか。まだ日にちが浅いのだ。そう簡単にストーカーがみつけられると思えない。この探偵が本当に自分の身の回りを調査したかもあやしい。それっぽい男の人の写真を用意しただけじゃないか。
「私はこの男性が一番ストーカーとして怪しいと思ったのですが、覚えがないですか……」
麻莉の反応が思しくなかったので、江口探偵は目に見えて落胆していた。
「江口さん、二人目のストーカー候補の写真も見せてくださいー」
泉美が求めたので、江口探偵が二枚目の写真を出した。
この人は見覚えがあった。いつも、『箸くらい持っているよ!』など怒鳴ってくる男の人だ。坊主頭が印象に残っている。ここに来る前も会った。というか、最近、毎日会っている。
しかし、この人は嫌な客だが、ストーカーとは遠い存在だ。ましてや、自分に興味を持っているとは思えない。
「井上麻莉さん、この人物はよくコンビニに来ますよね」
「来ますけど……」
「この男は他のレジが空いていても、井上麻莉様のレジに行きます」
「この人は違います。いつもわたしに罵声を浴びせてきますが、ストーカーではないです。クレーマーです。迷惑なのには変わらないですが……」
麻莉は今までのエピソードを話した。そうすれば誤解が解けるはず。
だが、探偵は納得しなかった。
「好きの裏返しという可能性もあります。ドSな性格で、井上麻莉様に罵声を浴びせて快感を得ている可能性もあります」
麻莉は改めて、この探偵はダメだと思った。
泉美が二人の写真を手にとる。
「どっちか選べば言われたら、こっちの坊主の人かなぁ」
「ちょっと、泉美! お見合いじゃないんだから」
「この男の詳細を知れば、ストーカーだと確信が思えるかもしれません。この男はヘビースモーカーでして……」
近寄ってはいないので、タバコの匂いまでは分からないのでヘビースモーカーかどうかは不明だが、吸ってそうな雰囲気はある。
ストーカーではなく、スモーカーなだけではないか。
「その人の情報は、もう結構です」
「二人の男性については、調べはついています。もし何かストーカーだと確証が掴めるアクションがあったら、警察にいつでも突き出す用意はできています」
今日、ここに来た意味はなかった。無料相談は初回だけなのだ。来なければよかった。もう帰ろうと思った。
「とりあえず、分かりました。以後、気を付けます。今日の代金は幾らでしょうか?」
財布をバッグから取り出した。
「今日のところは、井上麻莉様の感触がよくなかったので、結構です」
「え、タダですか?」
「はい、成功報酬で結構です」彼は口の端を上げて言う。「性交報酬でもいいですが」
意味が分からないので、麻莉はシカトした。
麻莉が不機嫌に黙っていると、江口探偵は言った。「井上麻莉様、送りますよ」
「結構です。それと……フルネームは長いから、かしこまらなくていいです(井上で結構です)」
「じゃ、麻莉さんって呼びます。井上とか雨が二、三回降ったら忘れそうな名前ですからね」
(はい? なんで急に下の名前……ありえないでしょう。さりげなく、苗字をディスられてるし。あんただって、江口なんて変哲もない名前じゃない!)
やっぱりこの人に頼むことはやめよう、と麻莉は思った。
「麻莉さん、家に盗聴器が仕掛けられている可能性が高いです。郵便受けも開けられていた節が見受けられました。家に入らせて、調べさせて下さい」
(わたしの郵便受けも調べていたの、信じられない。この探偵の方がストーカーなのではないか?)
「家はやめてください。それに明日から旅行だから、もう大丈夫です」
「旅行とは?」
(あ、余計なことを言ってしまったか)
泉美が説明する。
「卒業旅行みたいなものですぅ。そんな遠くないけど、温泉旅館に行くの」
まだ9月なので卒業旅行の名が正しいかは分からないが、麻莉と泉美・泉美の彼ピの三人で行く。自分に彼氏がいれば女二人、男二人で人数はよかったのだが。
江口探偵は引き下がらなかった。
「旅行中に家に忍び込まれることはよくあります。今日中に家の中を調べさせてください!」
なんだか切羽詰まった言い方をされたので断りづらく、許してしまった。旅行中にストーカーに忍び込まれるのは困る。
泉美は用があるからと帰ってしまった。
麻莉は後悔してきた。
(なんで、わたしは江口探偵が家に来るのを受けてしまったのか)
「やっぱり、家を調べるのはまた今度にしてもらえますか」
泉美がいる時じゃないとだめだ。
「明日から旅行ですよね。今日しか調べる日にちがない」
「でも……泉美がいないので」
「今はそんなことを言っている場合ではないでしょう。旅行中にストーカーが家に侵入して、どんなことをすると思いますか」
想像すると怖い。
「わたしの家を調べてどうするのですか」
「まずは盗聴器があるか調べます。その後、鍵を変えるなどセキュリティ面を強化する必要があると思います」
最悪の事態に備え、江口探偵を招くしかない。盗聴器があるならば、発見しておかないと、うかうか寝ることもできない。
麻莉は江口探偵を連れて自宅に戻った。
部屋に初めて招待する男がこの男になるとは思ってもみなかった。
無礼の極みの江口探偵は、『お邪魔します』の挨拶もそこそこに、麻莉より先に中に入って行った。断りもなくタンスを開け始める。
その目は爛々と輝いていた。
「ちょっと、なんでそんなところを見るのですか」
「盗聴器を探している」
「は、はい……」
盗聴器が家にあるかもしれない不安と男を家に招いている緊張が相まって不思議な感覚だった。
「おっ!」江口探偵が声を上げる。
引き出しの中に何かあったのか。
こんなに早くみつかるとは。江口探偵の力を侮っていた。
「この引き出しが、下着類か。うっしし」
「……あの、何やっているんですか」
江口探偵は、麻莉の下着を手にとり、涎が垂れそうな表情をしていた。
(最悪。最低)
盗聴器を発見したのかと勘違いしてしまったではないか。
もう帰ってもらおうと思ったら、江口探偵は言い訳した。
「ストーカーが家に忍び込んだら、下着を漁るでしょう」
「そうかもしれませんが」
(あなたもストーカーと変わらない、変態です!)
最悪なことに、今のところ、この探偵の方が実害ある。
「麻莉さん、一枚持ち帰ってもよろしいでしょうか?」
「はい?」麻莉は意味が分からず訊き返した。「一枚って何を持って帰るということですか?」
「パンティをお借りしたい」
丁寧な口調だが、言っていることは物凄く変態だ。
「一応尋ねますが、何のためですか?」
江口探偵が冷静沈着に言う。「科学的に調べれば分かります。ストーカーの唾液、体液が付着しているかもしれません」
気持ち悪い想像をしてしまい、気分がブルーになった。
「科学的に調べることができるのですか」
「探偵ですから、お安い御用です。色々とつてがあります」
江口探偵が下着を横に引っ張るように広げて、恥ずかしかった。
「あ、あのそんなに見ないでください。テキトーなのを選んでください」
「このタンスにあるのは全て洗ったばかりのものですね。証拠が消えてしまっている可能性が高い。まだ洗っていないパンティはありますか?」
「昨日、洗濯してしまったので……ないです」
「では仕方ないですね。麻莉さん、今、履いているパンティを脱いで頂けますか?」
「はい? 嫌です。調べなくていいです!」
「いいのですか、犯人をこのまま野ざらしにして。麻莉さんが何かされてからじゃ、遅いですよ!」
(何かされてから!)
ストーカーのことを考えると、全身が震えた。何か起こる前に捕まえてほしい。
「分かりました。脱ぎます。向こう、向いていてもらえますか?」
「かしこまりました」と、言って江口探偵は素直に後ろを向いた。
意外だった。下着を脱ぐ姿を見たいのかと思ったが、捜査のためだったのか。麻莉は、江口探偵をセクハラだと疑っていた自分を恥じた。
麻莉はスカートの横から手を入れ、パンツを脱いだ。江口探偵が後ろを向いているとはいえ、男性が傍にいるのに脱ぐのは恥ずかしかった。立ちながら脱いだので、脚から外すときに転びそうになってしまった。一応、汚れがないかチェックした。
そのまま手渡しするのは恥ずかしかったので、コンビニのビニール袋に入れた。
「探偵さん、脱ぎました」
「ありがとうございます」江口探偵は相好を崩した。「あとでじっくり調べさせてもらいます」
『じっくり』と言う言葉が引っかかった。
「麻莉さん、次に盗聴器がないか調べましょう。一番怪しいのはコンセントです。コンセント差し込み式の盗聴器が一番メジャーです。盗聴器の電源が供給できますからね。その……ベッドの脇とかどうです、ちょっと見てみてください」
「はい!」
コンセントがあやしいのか。専門的な意見で助かった。セクハラと疑わしき言動もたまにあるが、根は探偵のようだ。
麻莉は四つん這いになって、コンセントを調べた。
江口探偵が後ろから声を掛ける。「見たことがないタップなどはないですか?」
タップダンス? たぶん、コンセントを刺すもののことかな。
知らないものはついていない。
「ないですね」
ふと、視線が気になって振り向いてみたら、江口探偵が地べたに張り付いてスカートの中を覗いていた。「ちょっと、何、パンツみようとしているんですか!」
(あ……さっき脱いで、何もつけてないのだった)
「きゃあーーーーーーーー!」
麻莉は死体でも見つけたかのような叫声を上げ、枕で江口探偵を叩いた。
どうしよう。見られた? どこまで見られた?
「もう帰って下さいっ!」
「麻莉さん、待って下さい。まだ盗聴器をみつけていません」
追い出した。盗聴器の有無より、江口探偵が家にいることのほうが危険だ。
顔の火照りはいつまでも冷めなかった。男性にアソコを晒してしまったのは初めてだ。よりによって、嫌いな人に見せることになってしまうとは。恥ずかしくて、死にそう。
(わたしは、なんておバカだったの)
バカバカバカ、と自分の頭を叩いた。
江口探偵を追い出してから、旅行の用意をした。
窓に雨が打ち付けていた。今日も雨の機嫌は収まっていなかった。灰色の空はシミのようにどす黒く澱んでいる。
明日の旅行はどうなるのだろう。何事もなければいいけど。
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