第2章 第7話 エロム街の悪夢

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第2章 第7話 エロム街の悪夢

 外の天気のように散々な旅行だ。ゆっくり温泉にも浸かれない。なんのための旅行なのか。寝る時間になっても麻莉は眠れずにいた。  何度もベッドの上で寝がえりをうつ。  そのまま寝てしまえばよかったのだが、さらに眠りを妨げるように、隣の部屋から泉美・信也カップルたちの声が聞こえてきた。 「……あん……あ、……きもちいい……」 (…………)  この旅館、安いだけあって、壁が薄すぎる。泉美の喘ぎ声が大きいのかもしれないが。  彼等の行為が終わるまで部屋から出よう。気になって眠れない。  誰にも会う予定はないがパジャマで出るわけにはいかない。明日用の服ではなく今日着ていた白のスカートにブラウスを着た。  万が一誰かに出会った時のために眉だけ描いた。  廊下に出るのが知られると気まずいので、足跡を盗んで部屋を出た。  廊下に出た。ひっそりと闇を孕んだ通路は、かすかな肌寒さに囚われる空間であった。9月上旬ってこんなに寒かったか。スカートの隙間から冷気が入ってくる。  ふと、誰かに見られているような気になった。  背後を誰かがついてきているような気がした。怖がりの妄想だろうか。  泉美と信也の声が聞こえないところまで行くと、外の風の音がよく聞こえた。台風は大分近づいているようだった。もちろん、外に出る天気ではないので、受付ホールのソファで休もうと思う。  寂しい。  受付に到着。時間も時間なだけあって、誰もいなかった。寂寞たる雰囲気を醸し出していた。  泉美と信也の乳繰り合っている声は全く聞こえない。ソファに座ると気持ちが落ち着いた。 「はあ」麻莉はため息をついた。  泉美たちは楽しんでいるのに、自分の人生は何なのか。彼氏はできたことがないのに、ストーカーに追いかけられるわ、変な探偵に好かれるわ。  いつまでこのロビーにいようか。真っ暗で肌寒い。  夜中にやっているバーでもあればよかったのに。  ここではやることもない。後ろを見渡すと、本棚があった。櫛比とハードカバーの本が並んでいる。この暗闇の中、読む気にはなれなかった。  スマホでネットサーフィンでもするか。  自分のスマホの明かりがやけに眩しく輝いた。  一人で寂しい想いをするくらいなら、江口探偵の部屋に行った方がよかっただろうか。部屋番号だけは教えてもらったが……この時間に行くわけにはいかない。  コト。  音がした。  誰もいないはずのこの空間に音がした。  自分の心臓が高鳴るのが分かった。  視線を感じる。  とても厭な視線だ。  自分の呼吸が乱れた。普段、どうやって呼吸をして生きていたのかさえ分からなくなった。 「い、井上麻莉さん」  誰かが自分のフルネームを呼んだ。聞いたことのない男の声だった。  恐るおそる振り向くと、  男が。  あの男がいた。痩せた眼鏡の、陰険な男だ。山岸といったか。  ぐるぐる廻る。畏怖が襲ってくる。 (なんでこの男がここにいるの)  今日コンビニで会った。探偵曰く、ストーカー候補第一だとか。もう一人のストーカーの大男(剛田)は来ていたのは知っていたが、こっちのストーカー(山岸)もここに泊まっているなんて聞いてない。  男は震えた声でどもりながら喋った。「い、井上麻莉さん。今でも、君と繋いだ手の微熱を覚えているよ」 「え、手を……つないだ?」  麻莉には、山岸が何を言っているのか皆目分からなかった。このストーカーとは話したのも今が初めてだ。  彼の言葉が耳にこびり付く。 「やっと想いが通じたね、僕はずっとこの時を待っていた、君を初めてコンビニで見た時から、いつだって、君はシャイなんでなかなか僕に心をひらなかった、いつもお釣りを渡すとき客の手に触れないように上からコインを落としていた、それは僕以外の客に対してもそうだった、ずっと観察していた、でも、今日初めて君が僕の手を握ってくれた、あんなことをした客は僕しかいない、君も僕と同じ気持ちだったんだね」  麻莉は恐毛を振り払った。 「違います、あれは……」  彼はこちらの言い分を全く聞いていない。  山岸は、おつりを渡した時のことを勘違いしている。手をがっちり握ってしまった。彼の言う通り、それまで手に触れずにおつりを渡していた。店長に注意されて、ちゃんとおつりを返しただけ。注意されて初めてだったから、勝手が分からず、相手の手を握るような形でおつりを渡してしまっただけだ。決して、他意はない。あれを好意があると勘違いされても困る。  義理チョコを本命チョコと勘違いされるようなもの。  山岸は一歩近づいた。痩せた頬、舐めるような視線。  麻莉は声を失ったかのように叫べなかった。嗚咽が漏れるだけだった。息が詰まる。怖くて、ソファから立とうとしたが、脚が震えた。  男が手を伸ばしてきた。 「やっ……」  麻莉はそれを払いのけ、一心不乱に駆けた。
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