エピローグ 悲愴のマリア

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エピローグ 悲愴のマリア

「ああああああああああああああ」  麻莉は顔を覆った。自分じゃない誰かが唆したのだ。あんな過去は自分のものじゃない。  麻莉は泣き崩れた。一度咳を切った涙は後から後から流れ落ち、なかなか留まろうとしなかった。幾ら隠そうとしても凌辱された過去は変えられなかった。自分が強ければまだ誤魔化しきれたかもしれないが、あの事を思い出してしまって、それどころではなかった。涙が壊れた蛇口のようにとめどなく溢れた。 「探偵さん……わたしのことを好きだと言ってたのは嘘だったんですか? ずっと疑ってたんですか」  この男にも騙されていた。自分の気持ちまで弄んでいた。自分が見ていたのは湖に映った月だった。抱き着こうとすれば、沈んでいくだけだった。 「騙してなんかいない。ずっと好きだし、今でも好きだ」 「嘘を言わないで下さい。わたしをこれから警察に突き出すんですか」  ここが自分の断頭台になるのだ。これからは、人を(あや)めた事実と、ストーカーの慰安婦になった過去のトラウマに未来永劫、囚われ続けるのだ。 「いや、警察に突き出すのは俺の役目ではない。警察に自首するかどうかは麻莉の自由だ。麻莉の犯行は情状酌量の余地がある。山岸は殺されて当然のことをした。その報いはあって当然だと思う。だが」  江口颯介は『だが』で言葉をいったん切った。 「剛田をスケープゴートにしようとしたのは間違っている。彼は今まで麻莉のことをバイト中にいじめていたかもしれない。でも、それは殺人の罪をなすりつけるほどのことか? それだけは正したかった。麻莉が誤った道を踏むのは避けてほしかった」 「あぁ……」麻莉は泣いて泣いて謝った。「ごめんなさい……ごめんなさい、わたしとんでもないことをしようとしてました。わたし、なんてひどいことを……」 「剛田に罪をなすりつけることは、もうやめるんだ。それを知っているのは俺だけだ。警察にはそれ以外を素直に言えばいい。まだやり直せる。昨日絶望の淵に落ちたのなら、今日は這い上がればいい」  (もう、わたしには起き上がる気力はない。このまま倒れたままだ) 「探偵さん、わたしの本性を知ってどう思いました。わたし、人間の屑なんです。もう、時計の針は元には戻せないんです」  江口颯介が麻莉を痛いほど強く抱いた。 「麻莉、君の時計は壊れてるのかい。そんなのは手で直せばいい。時計の針はいつでも進められる。麻莉が殺人鬼だとしても、俺は君を愛した過去は変えないよ」  嘘でも嬉しかった。心の庭に花が咲いた気がした。 「探偵様、こんなわたしでも愛してくれますか」麻莉は顔を探偵の胸に押し付けた。彼のシャツが麻莉の涙で濡れた。「わたし、心を入れ替えます。探偵様の好みの女性になるよう努力します」 「大丈夫だよ。もう好みの女性だって。いつまでも笑顔でいて」 「なんでそんなに優しくするんですか。わたし、人殺しだし、山岸に……」 「もう言わなくていいよ」探偵が麻莉の口を、口で塞いだ。昨日の夜にしたような軽いキスではなかった。彼の舌が口内に侵入してきた。  麻莉はそれに応じ、彼と舌を絡めた。とろけるようだった。ずっとこうしていたかった。颯介の恋人になりたい。  口を離すと唾液が糸を引いてエロチックだった。 「麻莉、笑顔になってくれてありがとう。麻莉が笑えば、世界も笑顔になる」  (嬉しい。この幸せがいつまでも続いてほしい。でも、でも……) 「わたし、捕まるんですよね。探偵様と愛し合えるのも今日限りなんですよね」  涙が麻莉の頬をつたる。  世間の目がどう自分に向くかは想像がつく。普通の生活は今後、自分にはできない。せめて、今だけでも愛し合いたい。これが幻でもいい。人生が儚く散る前に綺麗に枯れたい。花のように一度だけでもいいから綺麗に咲きたい。 「麻莉は強い人だよ。勇気ある人だよ。もっと強く生きてくれ。これからだってまだまだ人生はある。過去なんかに縛られないでくれ。記憶は変えられる。嫌だった思い出は良い思い出に上書きすればいい。そんなの心の持ちようだ。忘れたいことはポケットにしまえばいい」  (わたしにできるだろうか。可能であれば、幸せになりたい。一時でもいい。それを永遠(とわ)の思い出に変えたい) 「探偵さん、後ろを向いてくれますか?」 「え……?」 「警戒しないで下さいよぉ。危害を加えたりとかじゃないです」 「うん、分った」颯介は後ろを向いた。 「わたしがいいって言うまで振り向かないで下さいね」  化粧直しをした。今までで一番綺麗になりたい。心は汚くても、美しいと思われたい。 「探偵さん! こっち向いていいですよ」  江口探偵は、こっちを振り向くと目を丸くした。「ええ、ま、麻莉……なんで全裸に!」  今までは恥ずかしがっていたけど、手を後ろにし、堂々と裸を見せた。彼に見られたかった。   「探偵様、犯人であるかどうか確かめるやつをやってください」 「え」 「処女かどうか確かめて下さい。わたしがまだ処女だったら犯人じゃないですよね」 「え……エッチしていいの?」 「はい、セックスして下さい。血が出るか確認して下さい」  麻莉はベッドに仰向けに寝た。緊張した。恥ずかしい発言をしてしまった。  新幹線のシートを下げる時も後ろの人に声をかけられないくらいの恥ずかしがり屋だったのに。  探偵は興奮気味に服を脱ぎ棄て、麻莉のベッドに来た。麻莉に覆い被ってきた。彼に全てを忘れられるくらい強く抱きしめられた。彼の馥郁(ふくいく)とした香りが身体にしみこんできた。  目を瞑ると億千の星が浮かぶようだった。  彼が唇を貪ってきた。全身の力が抜けるような気持ちいいディープキスだった。  これが自分の初体験だと思うことにしよう。  このまま時が止まればいいのに。 「麻莉、身体が固いね。もっとリラックスしていいよ」 「だって、経験ないから怖いです」 「麻莉さん、革命的に可愛いよ。愛してる」 「わたしも探偵様のこと愛してます」  何度だって言われたい。何度も言いたい。 「麻莉、大丈夫? 痛い?」 「ちょっと痛いけど、大丈夫です。探偵様の好きなようにやって下さい。わたし、やり方分からないのでリードして下さいね」  出口が見えなくなるくらい愛し合った。赤い血の幻影が徐々に薄うなっていくのを感じた。  麻莉は記憶をリライトした。  窓を開けると、雨は上がって、澄み切った青空が見えた。外の世界はとても広い。爽やかな大空を吹き抜ける風になろう。  窓を開けないと外の風景は見えない。  下を向いていたら泥しか見えない。上を見れば希望の光はいっぱいある。    探偵のおかげか分からないが、厭世的な気分はもう微塵もない。  罪を被せようとした剛田さんには謝罪しようと思う。危なく、えん罪が生まれるところだった。  泉美と信也にも全てを話す。友達に嘘をついていた。自分の犯行をずっと隠していた。  (嘘をついていて、ごめんね)  両親にも謝ろう。全てを話そう。  その後、自首をしようと思う。  これから、いろいろ辛い試練も待ち受けているかもしれない。でも、大丈夫。強い女になる。人生楽しいことがあれば、辛いこともあるだろう。この先の曲がり角には不安だらけだけど、一歩踏み出さないとどんな道があるかは分からない。  もう泣かない、だって明日の分の涙はもう流したから。流した涙の分だけ強くなった。  忘れたい過去はポケットにしまおう。  (あ、このスカートにはポケットないか。ポイ捨てでもいいかな)   了 【引用事例等】 ・ルカ伝福音書 ・レビ記 ・ブラムストーカー ・ノックスの十戒
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