第2章 第5話 エロニーニョ現象

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第2章 第5話 エロニーニョ現象

 9月7日朝。井上麻莉は江口探偵事務所に断りのメールを打った。  これで、もうあのセクハラ探偵と顔を合わせることもない。  結局、彼はストーカーもみつけてくれなかった。ストーカー候補だという男の一人はただのクレーマーだし、もう一人の気持ち悪い人に至っては見知らぬ人だった。  幸いなことにはお金を払っていないことか。料金出して、お尻と胸を揉まれていたならば、立ち直れなかっただろう。ノーパンを見られた過去は封印し、なかったことにした。あのことは思い出してはいけない。  バイトも辞めたかったが、優しくしてくれている店長に申し訳ないので、まだ言い出せずにいた。  今夜は泉美と共に旅行なので、キャリーバッグを持って、バイトに行った。バイトが終わったら、そのまま直行の予定である。 「52円のお釣りでございます」  お客さんに硬貨を渡すときに危なく落ちそうになった。未だに慣れていないなんて、とろすぎると自分でも反省。  レジ前が開いたところで店長がアドバイスをくれる。 「井上さん、お釣りを渡す時、いつも上から落とすように渡しているでしょ。小銭が落ちてしまう場合があるから、相手の手を持って渡した方がいいよ。小銭が落ちるとトラブルの元になるからね」 「はい、気を付けます」  見知らぬ男の人の手に触れるのが嫌だったので触れないように渡していたが、トラブルになるのは避けたい。クレーマーみたいな客もいるのだ。今日は穏便に済ませたい。  次からは、ちゃんと渡そう。客が来るまで頭の中でイメトレする。 (相手の手を持って、相手の手を持って……)  早速、お客さんがきた。  しかもお釣りが発生した。お金を落とさないように、相手の手をしっかり握って渡した。  細い手だった。骨の形が浮き出たような腕。  麻莉があまりにしっかりと握りしめたので、相手の男性はビクッと反応する。 「あ、すみません」  これではアイドルの握手会ではないか。もっと自然に渡せばよかった。  恥ずかしい。  お釣りを渡しても、レジ前の男性はなかなか帰らなかった。  顔をあげると……。  江口探偵が見せてくれた一枚目の写真の男だった。痩せこけた頬、度の強い眼鏡。開けているのかよく分からない、線のように細い目。  確か、山岸だと、江口探偵は言っていた。  この人の眼付きは怖い。見つめられるだけで、全身に悪寒が走り抜けた。  江口探偵から写真を見せられた時は、見知らぬ人だと思っていた。この感覚は分かる。よく来る客だ。  目の前の男が突き刺すような視線を麻莉に向けている。  鳥肌が立った。  この視線はいつも感じている視線だ。 (こっちを見ないで)  探偵が調べだしたストーカー候補二人のうち、危険なのはこっちだ。クレーマーの方は一見怖いが、この人のほうが得体の知れない恐ろしさがある。  息が詰まる。  頭が真っ白になって、麻莉は休憩室に逃げ込んだ。  吐き気がした。  動悸が高鳴った。  休憩室の机上のパソコン、椅子、棚がとてつもなく巨大に感じられたと思ったら、小さくも見えた。不思議の国のアリス症候群か。子供の時は、熱を出し、たまになった。  店長が休憩室に入ってきて、優しい声を掛けてくれる。「井上さん、体調が悪いの? 大丈夫?」 「すみません、急に気分が悪くなって」 「今は人数いるから、早退していいよ。悪化すると大変だから家でゆっくり休んで」  麻莉は、店長のお言葉に甘えることにした。  寝て、忘れ去りたい。嫌なことは夢に置いていきたい。  麻莉は大きく深呼吸した。外の空気を吸うと幾ばくか落ち着いた。悠々たる空が気持ちいい。  店長が気を利かせてくれてよかった。あのまま仕事をしていたら過呼吸になっていたかもしれない。  山岸に会ったことは江口探偵に伝えるべきか。もう関わらないでくれとメールしてしまった手前、連絡しづらいのでやめた。  今日は旅行の予定だ。ちょっと早いが、先に行っちゃうか。泉美とは現地集合だ。安息の地で羽を伸ばして、山岸のことは忘れよう。  旅行鞄を持ってきたことだし、そのまま直行することにした。店長に見つかったら仮病だと思われるかもしれないけど、ばれないだろう。  旅行鞄だけでなく、傘も持ってきているので手が疲れた。夜は天気が悪くなるのだ。  コツコツと自分の跫が地面に響く。  麻莉のハイヒールとは別の音もした。もう少し重みのかかった跫。  麻莉が止まると、後方の歩みも止まったのが音で分かった。  誰かが……つけてきている。  なんでこんな時に。旅行に行く時くらいやめてよ。麻莉は駅まで駆けた。  眩暈。  吐き気。  廻る視界。  荷物を捨てて走り出したい気分だった。 (来ないで! お願い、ついてこないで!)  麻莉のハイヒールがアスファルトと湿った空気に響いた。  駅に着き、人通りが多くなるとストーカーの気配はなくなった。 (よかった。尾行を巻いたのかな)  旅先ではのんびり温泉に浸かって、ゆっくりしよう。  ストーカーもセクハラ紛いの探偵もいない旅館で寛ごう。  電車の中に入ると厭な視線も感じず、平和だった。麻莉は電車のシートに座り、微睡んだ。  旅館には先着になるかと思っていたが、既に泉美とその彼ピの信也はいた。 「あら、二人とも早いのね」  信也が笑顔で返す。「お久しぶりです」  信也からは少しタバコの匂いがした。吸ってきたところなのだろう。 「二人は何時からここに……」  麻莉の舌の根の乾かぬ内に、背後からお尻を触られた。 「ひぃっ!」   このねっとりとした触り方。身体が覚えている。  なぜか、おさわり探偵の江口もいた。 「麻莉さん、今日もかわいいね」 「なんで、江口探偵さんもいるのですか!」  ストーカーの次に会いたくない人が突然現れ、荒肝を拉がれた。
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