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招待状
土曜の夜、兄さまは深刻な表情で鏡の前に長時間、立っていた。それから深いため息を二度吐き、クローゼットの中から薄鼠色の一張羅のスーツを選んだ。
僕はその様子をそっと見つめていた。
そのスーツは兄さまが二十歳のお祝いで誂えたものだ。家にオーダーメイドの職人が来て、恭しく兄さまの身体を採寸してくれた。すっと立ったお姿が、カッコよくて羨ましかった。まだ十歳だった僕は、ソファで母とその様子をじっと見つめていた。
◇◇◇
「お母さま、いいですね。兄さまのスーツ姿、とても素敵です」
「まぁ、雪也にもお揃いで作りましょうか」
「うーん、今の僕には窮屈そうなので、やはり……いらないです」
「ではあなたが二十歳になった時、お母さまが選んであげるわね」
「それは十年後ですね。お母さまはその頃、どうなっているでしょうか」
「そうねぇ、おばあちゃまになっているかもしれないわ」
「どうして? 」
「柊一が結婚しているかもしれないでしょう。そうしたら赤ちゃんが生まれて、お母さまは、おばあちゃまになるの」
「ふぅん……柊一兄さまが結婚しないと、お母さまは、おばあちゃまになれないのですか」
「いえ、あなたでもいいのよ。雪也がその位の歳になるのが、今から楽しみよ」
「はい! 僕はきっと……お父さんになります」
「そうね、あなたの未来が楽しみね」
◇◇◇
懐かしい会話。数年前なのに遠い昔のことのよう。それから玄関で兄さまを見送った。
「兄さま、どこへお出かけになるのですか。遅くなるのですか」
兄さまは少し寂しそうに笑って、僕の頭を撫でてくれた。僕は兄さまから見たら、いつまでも小さな子供だ……もどかしい。
「うん……雪也、今日は……きっと……とても遅くなるから先に眠っていなさい。でも朝までには必ず帰るから心配しないで」
朝まで? 兄さまがそんなに遅くまで帰らないなんて、ますます心配が募るよ。出かける直前、兄さまがこの前の招待状を引き出しから取り出し、鞄に入れたのは知っている。やはり何かよくないパーティーなのか。兄さまが心配だ。
僕の家にお金がなくなってしまったのは、理解している。
使用人は去り、お父様の会社はなくなった。家も掃除が行き届かなくなり、蜘蛛の巣だらけだ。兄さまが朝から晩まで出版社で働いているから、食べていけるのだということも。
ひっ迫した状態なのに、何も出来ないのが悔しいよ。あ……でも僕にも一つだけ……出来ることがあるのでは。それは僕の主治医だった先生に電話をすることだ。
「もしもし先生っ」
「雪也くん? そんなに慌ててどうしたんだ? まさか発作か」
大人の先生の声に一気に気が緩む。
「あの、突然電話をしてすいません。実は兄さまが……」
「お兄さんに何かあったのか」
「わからないんです。先日、妙な招待状を持って帰り、気になっていたのですが、先程、一張羅のスーツを着て、思い詰めた表情のまま出掛けてしまって……怖いのです」
「なんだって! それは、どんな招待状だった? 中身を見たのか。差出人は誰だった?」
「見てはいけないと思ったのですが、どうしても心配で。あの……盗み見したのを、怒りませんか」
「怒るはずない! 大事なことだ。さぁ早く話して」
電話の相手は、僕の主治医だった森宮海里先生だ。
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