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表参道のガラス張りのカフェで、仕事のメールを打ち込む。
キーボードをたたきながら、隣のテーブルの上で本を読む女性の手が気になって仕方がない。
触りたい。
触りたくて仕方がない。
いや、正確に言うなら、その手を握って確認したいのだ。
手の温度を知りたいのだ。
白い指先は細く、爪は伸ばしてはいない。
マニキュアは、薄いピンク色で、遠目で見ると、少女の爪のように見える。
手の甲は、透けるようで、血管は青く、ただ浮き上がってはいなくて、皮膚の奥に沈んでいる。
きっと、そうだ。
しかし、その手を握り締めなきゃ、本当のことは分からない。
匠は、コップに残った氷を、口に含んで考えていた。
声を掛けるべきか。
いや、声を掛けたって、彼女の手を握り締めることは出来ないだろう。
誰だって、そうだ。
手を握らせてくださいなんてこと、普通に聞いたら、頭のオカシナ人にしか思えないだろう。
悩んでいるうちに、彼女は席を立って出て行ってしまった。
匠は、ため息をついた。
こんな状況が、続くのは、気が重かった。
しかし、仕方がないのである。
匠には、中学生のころに握り締めた、ある手が、どうにも堪らなく愛しくて、それ以外の手は、受け付けることが出来なくなっていた。
あれは、中学1年の夏だった。
隣の家に、その家の娘の従妹だという25歳ぐらいの女性が、1週間遊びにやってきたことがあった。
名前を、沙織さんと言う。
サラサラのロングヘア―に、清楚な白い花柄のワンピースが、いわゆる良いところのお嬢さまであることを示していた。
隣に住んでいるので、何度か家に行って、お茶やお菓子を一緒に食べたり、テレビを見たりして過ごす時間もあった。
でも、ただ話すだけなので、素敵な人だなと思ってはいたが、恋愛感情を抱くというわけでもなかった。
それが、ある日、電車で20分ほどの街にあるデパートに、彼女を案内することになった。
電車に乗り込むときに、沙織さんは、何気なく匠の手を取って中に誘導した。
匠は、全身が神経細胞になったかと思うぐらいに、彼女の手にウットリとしてしまった。
その手は、ひんやりと、そして滑らかで、細い指は、僕の手の中で折れてしまうんじゃないかと思うほど、か弱かった。
一瞬にして、恋に落ちてしまったのである。
当時の匠は、まだ女性の手も握ったことが無くて、ましてや、女性と付き合ったこともなかった。
それが、沙織さんに手を握られて、女性という存在の魅力の虜になってしまったのである。
いや、女性の魅力と言うよりも、沙織さんの手の魅力というべきだろう。
或いは、もともと、沙織さんに対する恋心の芽のようなものが、匠のこころの中にあって、それが一気に表面に現れたのかもしれない。
沙織さんにしてみれば、年の離れた弟ぐらいにしか思ってなかったに違いない。
それでも、匠にしてみれば、そこに沙織さんの匠に対する恋心を発見するぐらいの妄想は、容易に出来たのである。
それ以来、匠は、沙織さんが、どこかへ出かけると聞くと、一緒に出歩くようになった。
そして、何気なく手を伸ばした。
沙織さんは、笑顔で匠と手をつないでくれたのだ。
ああ、これが女性の手なのか。
何て、気持ちの良いものなのだろうか。
沙織さんと手をつなぐと、匠は、密かに、そして静かに、沙織さんの手の感触を楽しんでいた。
透けるような白い肌。
そして、その皮膚に指を滑らすと、滑らかで、絹の何十倍もの、きめの細かさ。
指の骨は、今にも折れてしまいそうなぐらいに細く、長い。
匠は、その指の骨を、人差し指で、そっと撫でて、骨の形を探っていた。
指の骨も、指の関節も、そして、手の甲に埋め込まれている骨たちも、それらを取り出して、頬ずりしたい欲望にかられていた。
指の筋肉というほど、肉は付いていないが、その柔らかさは、匠のこころを虜にするには十分な肉の厚さだった。
柔らかいその肉は、或いは、沙織さんの胸や、腰辺りの肉と同じ肉なのだと、淫らな想像もしてみた。
手の甲は、薄く、沙織の華奢な身体を想像させた。
そうやって、匠は、沙織の手を、そうとは気づかれないように、楽しんでいた。
或いは、沙織は、そうやって、匠が自分の手を、一種、イヤラシイ気持ちで触っていることを解っていたのかもしれない。
でも、敢えて、触らせていた。
それは、沙織の異性に対する奔放さの欠片だったのかもしれない。
しかし、匠が沙織の虜になった理由は、それだけじゃない。
もっと、決定的なことがあった。
最初に、沙織が匠の手を握った時のことだ。
沙織の手が、ひんやりと、冷たかったのだ。
それは、血が通っていないのではないかと錯覚してしまいそうなぐらいに冷たかった。
その冷たさが、匠を虜にしてしまったのだ。
そんな楽しい時間も終わって、沙織は、1週間を過ぎると、また東京へ帰ってしまった。
しかし、匠は、その手の冷たさを忘れることができないでいた。
冷たい手にしか、女性を感じなくなってしまったのだ。
それ以来、匠の冷たい手を探す迷走が始まったのである。
匠が、高校生になり、大学生になり、彼女と言ってもいいような女性と付き合うことも、2度や3度あった。
しかし、彼女たちの手は、温かかった。
勿論、匠は、彼女たちを愛してはいた。
これは、間違いがない。
ただ、その手が許せなかったのだ。
女性の手は、ひんやりと、そして、か細くなくちゃいけない。
そう、思いこんでいた。
大学生の時だったか、怜子と言う彼女が出来た。
2人は、映画を見たり、食事をしたり、デートを楽しんでいた。
匠も、怜子も、お互いに愛し合っていたのだ。
そんなある時、匠は、どうしても堪らなくなって、「あのさ、怜ちゃん、一回、手を冷たい水につけてみてくれない。そうだ、氷を張った水に3分ぐらいつけてみてよ。」そう怜子に頼んだ。
「いいよ。でもどうして。」
「うん、冷たい手の感じは、どんな感じかなと思ってさ。」
怜子は、奇妙に感じながらも、冷たい水に手をつけて、匠に差し出した。
その手を、匠は、握り締める。
「ああ、やっぱり、この冷たさだ。」
声には出さないが、そう確信した。
匠は、怜子の手を、まるで宝石をさわるように、いや、神聖なマリア様をさわるように、丁寧に、撫で、頬ずりして、その感触を感じていた。
「きゃ、なにしてるの。」
怜子は、戸惑ったが、まあ、これぐらい良いかと、匠のしたいようにさせていた。
しかし、本来温かい手をした女性が、いくら氷水に手をひたしたといっても、そう長くもつものではない。
3分もすれば、もとの温かい手に戻ってしまった。
そんなことがあって以来、匠は、何度も怜子に、氷水に手を浸すことを要求するようになっていた。
始めは、それに答えていた怜子であったが、やがて、匠に対する気持ちが離れて行った。
匠の性格に対する不信感である。
お互いに、愛していたが、手の温度が理由で、別れることになってしまったのである。
それ以来、中学の時の、沙織さんのように手の冷たい女性に巡り合うことも無く、時間が流れて行った。
そして、30歳になった今、匠は、ある女性と付き合っている。
手の冷たい女性だ。
同じ職場の茉莉子という、同じ年の女である。
しかし、匠は、茉莉子を愛してはいなかったのである。
見た目も、匠の好みと全く違うタイプだ。
やや筋肉質な体つきで、学生時代は、女子のバスケットクラブに入っていたらしい。
顔も、いくら酔っぱらって見ても、匠のこころを動かす要素が見当たらない。
性格だって、匠は、茉莉子に対して無関心だからケンカはしなかったが、無理に茉莉子に合わせているものだから、会うたびにストレスを感じていた。
殴ってやろうかと思ったことも、何度もある。
しかし、どうしても、匠は茉莉子から離れられないものを持っていたのだ。
ひんやりと冷たい手だ。
匠は、茉莉子と手をつなぐたびに、中学生の沙織を思い出していた。
茉莉子の手の冷たさ、そして、指の華奢な骨の形、皮膚の滑らかさ、これは、或いは、沙織さん以上のものかもしれない。
そんなある日。
茉莉子が、匠に言った。
「ねえ、あたしたち、付き合ってるんだよね。」
「うん。」匠は、適当に答える。
「じゃ、そろそろじゃない。あたしから言うのも、どうかと思うんだけれど、もう3年も付き合ってるじゃない。ねえ、そろそろでしょ。」
匠は、茉莉子の言葉を聞かない振りを決め込もうと思ったが、茉莉子は、話の筋を強引に戻してくる。
「ねえ、あたしたち、結婚するべきじゃない。そうよね。お互いに愛し合ってるもん。」
茉莉子は、いつでも直球だ。
「そうだね。」匠は、どう返事するか迷っていた。
それに、愛し合っているという言葉に、そうじゃないという言葉を言いたかったが、ただ、茉莉子の気持ちを知っていながら、だらだらと付き合ってきたことに対する罪悪感のようなものが、匠の言葉を変える。
「ああ、そうだね。愛し合ってるよね。」
「じゃ、決まりだね。」茉莉子は、とうとう結論を自分で決めてしまった。
それから、匠は、悩んだ。
そして、もう別れようと思った。
愛していないからだ。
愛していない女と、これから一生という長い時間を、暮らすなんてことは、これは出来ないだろう。
いや、茉莉子の気持ちを考えると、それはしてはいけないことなんだ。
匠を愛してくれていることは嬉しい。
だからこそ、茉莉子のために別れなくちゃいけないんだ。
そう決めた。
そして、1週間後。
匠は、カフェのテーブルで、茉莉子が用意した婚姻届けにサインをしていた。
別れようと決めたには、決めたが、どうしても茉莉子の手を放す気持ちにはなれなかったのだ。
ある意味、茉莉子の手を愛していたのかもしれない。
サインをした婚姻届けを嬉しそうに茉莉子は見つめていた。
そして、茉莉子は、匠の手を、ぎゅっと握りしめる。
「ああ、やっぱり茉莉子の手は、ひんやりとして、気持ちが良い。まあ、手の冷たさが理由で結婚するのもアリか。」と匠は心の中で思った。
すると怜子が言った。
「ああ、匠の手って、温かくて気持ちが良い。もう、この手があるから、匠と離れられないのよね。この温かい手がなかったら、とっくに別れてるのになあ。」
或いは、茉莉子も、温かい手を探す迷走の旅をしてきたのかもしれない。
そして、手の温かさを理由に、匠と結婚したかったのかもしれない。
匠は怜子を見つめた。
そして、可愛いなと思った。
これから幸せになれそうな気がした。
怜子は、婚姻届けをカバンに終うと、さっそく結婚式のパンフレットを読みだす。
そして、匠を1度も見ることも無く、20分が過ぎた。
匠は、ひょっとしたら、茉莉子は、自分の事を愛してはいないのではないかと、漠然と感じ始めていた。
茉莉子は、匠の手の温もりだけを愛していたのかもしれない。
そして、つぶやいた。
「まあ、僕と同じようなものか。」
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