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「止めても無駄なのは……無駄だったのは、わかってたよ」
無理に止めれば、幸介の気持ちを踏みにじることになることも、と、泣きながら彼女はつづけた。
「だから、あの日幸介にいえなかったことがあるんだ」
吉昌の手に、瀬川は二つの時計を乗せた。
「代わりに、聞いてくれる?」
問いかけに、吉昌はうなずく。
すると瀬川は、また涙を零した。
「行かないで」
それは彼の決意を、その覚悟をわかっていたからいえなかった。過去の瀬川が飲み込んだ言葉だったのだろう。
震える涙声を受けて、吉昌はゆるく首を振った。
「そこは、行ってらっしゃいっていうところだろ」
受け取った時計たちを握り締める。
言葉とは逆に時計を差し出したというその行為自体が、なによりも雄弁な行ってらっしゃいの意味だと知りながら。
「瀬川。どうかこれからは、前を向いて生きてくれ。そしてもしもおれが早くに死んだら、そしておまえがこの時間のことを夢で見たらそのときは、あかりのことをよろしく頼む」
そう告げて、吉昌は長戸にうなずいた。彼が手を添えた車椅子に、腰を下ろす。
「またな。瀬川」
二つの時計を手に別れを告げると、彼女は一つ、うなずいた。
「またね」
かすれるような涙声に送られて、吉昌は長戸の手で運ばれていく。
廊下を進み、あかりのいる病室に差しかかったとき、その病室の前で、置いてきたはずのアサトが待っていた。
「時計は取り返せたの?」
壁に寄りかかって休んでいる体勢の彼に聞かれて、吉昌はああと答えた。
五十嵐の時計を長戸に預けて、自分の時計を握り締めた。
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