第3章 彼は彼のもの

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第3章 彼は彼のもの

ベッドの上でうつらうつらと微睡んでいる。真新しいシーツと布団の肌触りがほんとに気持ちいい。ずっとこうしていたい、けど。確か今日は、…平日? だったら仕事があるから。いつまでもこんな風にぬくぬくとしてるわけにはいかないな。そのことはわかってるのに何かが意識の端っこを遠慮がちに引っ張る。 …何だっけ。どうしてか、出勤しなきゃいけない日でも。もうそんなに早く起きる必要はないんだよ、と別人格のわたしが甘く囁きかけてくる。今までみたいに片道一時間半もかけて満員電車を乗り継いで行く必要はない。…どうしてなんだっけ? ぼんやりした起き抜けの頭に少しずつ現実の色合いが浸透していく。わたしの生活環境の何が最近変わったかって言ったら。…それはもちろん…。 ことこと、と微かな遠い物音と人の気配。階段の下からとかいう位置関係じゃないフラットな高さで響いてるのは何でだろう。そう、ここは長年過ごした実家の自室じゃないんだ。だからわたしよりずっと早くから起きて朝食の準備をしてるのは母親じゃない。…だって、この家に。もう『お母さん』はいないんだから。…てことはつまり、あれは。 「…、あ」 急に今ある現実が脳内に雪崩れ込んできて一気に覚醒した。がば、と跳ねるように起き上がって布団から這い出る。そうだった、いけない。 今朝もまた朝食を作り損ねた。 「あ、おはよう。パンとコーヒーにしちゃったけど。和食の方がよかったかな、種村さん?」 あまりに起き抜けすぎるみっともない顔を見せたくない、って抵抗感と彼より相当遅く起きたくせにのんびり身支度なんか整えてる場合じゃない、って理性との葛藤の結果、簡単に髪だけ整えて顔を手早く洗ってからさっとキッチンへと急ぐことにした。 こちらは今さっき起きたばかり、といった慌ただしさを感じさせないゆったりとした所作でフライパンから目玉焼きを取り出してお皿に載せながら、星野くんが真面目くさった表情をわたしに向ける。思わずがっくりと両肩を落として謝った。…ああ、また。今朝も負けた。 「ごめん、毎朝のように。…星野くんにばっかり、朝ごはん作ってもらう羽目になっちゃって」 目覚ましもスマホのタイマーでセットしてちゃんとかけてるのに。聴こえないほど熟睡してたのか、と我ながら呆れてると自分の部屋の方から不意に微かなアラームの音が。…どうやら今、鳴り始めたところらしい。 てことは、わたしが想定してるよりずっと早い時間帯からこの人は起きて支度してるってことか。我知らず全身の力が抜ける。 こんなに職場近くに住めることになったのに。これじゃ朝ぎりぎりに起きて母親の作ってくれた朝飯をかっこんで猛然と飛び出して満員電車に駆け込んでた時と、起きる時間言うほど変わんなくない? 彼は大人しい動物のような黒い瞳に生真面目な色をたたえて、どうしてわたしが謝るのかわからないと言いたげに首を僅かに傾げた。 「朝食なんか、たまたま早く目が覚めた方が作ればいいだけだと思うから。何も無理して起きてくる必要はないよ。まあ二人とも深く熟睡してたらやばいけど。僕は割と普段から自然と朝目が覚めちゃう方だから」 年寄りか。 全然ご年配な雰囲気などない(当たり前だ。わたしと同い年の二十九歳)つやつやの顔をこちらに向け、彼は甲斐甲斐しく尋ねた。 「種村さん、トーストにはバターだけでいいの?君はシンプルな方が好きなんだよね。でも、毎日同じだと物足りなくないかな。たまにはジャムとか塗る?」 そういう本人は見かけによらず甘いもの好きなのか、バターを塗った上に更にジャムを載せたトーストが好みだ。わたしは力なく遠慮した。 「…大丈夫。いつも通りバターだけで」 入籍して、一緒に住み始めて半月ほど。お互いの家族だけで式と食事会も済ませた。だから世間的にもわたしたちは完全に家族だ。少なくとも表向きは。 「…いただきます」 テーブルの上には星野くんが作ってくれた簡単なサラダと目玉焼き、トーストとコーヒー。カップに注ぐくらいはしなきゃと思ってそっちに向かいかけると手で制され、椅子にかけるように示された。 「大丈夫、僕の方がコーヒーメーカーに近いから。そんなに気を使わなくていいよ。手近な方、手の空いてる方がやるって考えでいて。お互いさまでしょ」 「そうかなぁ…」 曖昧に呟きつつ、だけどここで本格的に押し問答するのもなんなのでなし崩しに席につく。彼から手渡された湯気の立ち昇る温かなカップをありがたく受け取りながら、正直な気持ちを吐露してしまった。 「今のところ、手が空いてるとかそういう問題じゃなく。気の利く方がやる、って状況になってる気が…。このままだと何でもかんでも星野くんの仕事になっちゃうよ」 わたしの仕事が終わって帰宅する時にはLINEで一報入れる、ってルールになってる。そうすると大抵すぐに返信があって、今晩の夕食はカレーだけど大丈夫?とか焼き魚と肉じゃがだけど好き嫌い平気?とか彼は尋ねてくるんだけど。そう、つまりは。 終業の時点でもう負けてる。家に着く前には完璧にご飯が出来てるんだから。そこからいくら急いで帰ったって勝負はついちゃってるし。 もちろんそのことには感謝しかないけどここまで甘えていいもんなのか。こんな状況を当然みたいに受け取って慣れちゃいけない。と自分を叱咤しながら遠慮がちに提案してみる。 「毎晩ちゃんとしっかり夕飯まで作ってくれてるのはありがたいけど。そんなに毎日じゃ大変だからたまにはわたしが作るってば。…まあ、あんまり自炊の経験ないから。美味しくも手早くもないし。…会社から帰ってからだともしかしたら時間もだいぶ遅くなっちゃうかも。しれないけど…」 次第に語尾が自信なげに細くなってくる。堂々と胸を張って、この曜日は早く帰ってわたしが作るよ、美味しいもの食べさせてあげる!って言えるなら。…まだいいんですけどね。 彼はそんなわたしに苦笑するでもなく、ブルーベリーのジャムをトーストに隅まで丁寧に塗りながらおっとりと顔をこちらに向けた。
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