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序章2
ガレスのいる書斎のドアの前にたどり着いた。
コンコンとノックをすると、入れと返事があった。
「父様、失礼します。メアリアンです」
自分の名を言ってから、ドアを開ける。書斎の中では積み上げられたたくさんの書類に埋もれるように父のガレスが執務をしていた。
アンがそっと近づいたら、気配に気づいたのだろう。
ガレスが視線をこちらに向けてくる。
「…アンか。侍女のメグからは聞いてはいるな?」
端的に言われたが、アンは頷いた。
「はい。聞きました。父様と兄様たちから、私に話があるとか。皇太子殿下のことだとは見当をつけていましたけど」
「そうだ。お前にも王宮から手紙が届いていただろう?わたしの許にも似たようなものが届いている。後でエドワードも書斎に来るはずだ。しばらく、待っていなさい」
ガレスから指示をされて、アンは頷いて机の近くのソファーに腰掛けた。
薄い茶色の革製のソファーは見かけよりもふかふかとしていて、座り心地がよい。
その感触を楽しみながらも兄のエドワードを待つ。
ガレスのペンを走らせる音と自分の息づかいしか聞こえない。
そのくらい、書斎は静かだった。
部屋は淡い水色と茶色で統一されていて、少し寒々しい印象を与える。
だが、ガレスはこの部屋を気に入っていた。
本棚がいくつかあり、そこにはたくさんの本が陳列している。
法律やら経済を主題にしたものが多い。
難しそうな題名のものが多く、アンは頭が混乱しそうになる。
別に勉強が苦手ということはないが。
よく、読めるなと思った。
ふと、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「…父上。エドワードです」
長兄のエドワードの声がして、ガレスは返事をする。
「入りなさい」
短くいうと、ドアが静かに開かれた。
濃い茶色の髪と瞳の長身の青年が入ってくる。
「入りますよ。て、アンじゃないか。もう来てたのか?」
「…ええ。父様と兄様がお呼びだと聞きましたので」
驚いた様子のエドワードがアンを見ながら、声をあげた。
すると、ガレスは強面の顔を緩ませて笑う。
「アンだったら、お前よりもかなり早めに来ていたぞ。それこそ、三十分も前にな」
「そうでしたか。まあ、自分の今後に関わることだしな」
エドワードは髪を撫でつけながら、アンに視線をちらりと向けてくる。
「…それでだ。アン、皇太子様からの書状を読んだだろうが。側妃の件については受けるのだろう?」
ガレスはまっすぐにアンを見据えながら、重々しく口にした。
アンは少し間を置くと答える。
「…受けます。断ったら不敬罪になりますものね」
「アン。あのサミュエル様、皇太子様はかなり女癖が悪いぞ。それは覚えておけ」
エドワードが言い放つとアンは頷いた。皇太子がどういう目的で自分を召し上げるのかはわからない。
それでも、国で一、二を争う名家の令嬢を側妃ー妾めかけとして王宮へ入らせるのだ。
受けて立ってやろうと決めたのであった。
皇太子殿下のおられる後宮に入ることが決まると、シンフォード邸は一気に騒がしくなる。
まず、母のフィオナと妹たちがアンに後宮へ行く時用の衣装や他の装飾品を選ぶために都みやこで指折りの店に押し掛けたり、お針子を邸に呼びつけたりした。
父と兄たちは男だから役に立たないと言われているので、口を挟んでこない。
「…アンは髪が黒いから、ドレスも落ち着いた色にしましょう。それと、瞳の色と同じ琥珀のペンダントも作りましょうね」
母のフィオナは満面の笑顔でいう。
妹もうれしそうに頷いた。
「そうそう。アン姉様には水色や緑が似合うと思うの。後、黄色とかね」
「…そうかしら。そんなにたくさんの衣装を作らなくても。夜会や他の時に着ることを考えると母様たちの気持ちはわからなくもないけど」
アンは難しい顔で反論する。
だが、フィオナは厳しい顔つきになって、アンに注意してきた。
「何を言っているの!ただでさえ、皇太子殿下の側妃として後宮へ入るのは外聞の悪いことなのに。衣装くらい、公爵家の風格を持ったものを選ばないと。あなたが馬鹿にされることになるのですよ?」
妹もそれには賛同する。
「そうよ。姉様は側妃ではなく、正妃ともなれる身分なのよ。だから、衣装をそれらしくするくらい許されると思うわ」
アンは反論するのをあきらめた。
母と妹たちは内心、側妃として召し上げられることについて、かなり不満に思っているらしい。
アンも似たような気持ちなだけに複雑ではあった。
ドレスのサイズを測るために侍女やお針子たちがアンの首や肩の辺りにメジャーを当てる。
他の部分も事細かに測られて、終わる頃にはへとへとになっていた。
お針子が道具をしまって、頭を下げた。 「では、明日も参ります。ドレスは後宮にあがられる日までには仕立てますので」
「ええ、わかりましたわ。良いドレスが仕上がるのを楽しみにしております」
代わりに母のフィオナが笑顔で答えると、お針子こと少女たちは恐縮でございますと緊張した面もちで言って、部屋を出ていった。
それを見送ると、アンは母に視線を送る。
「母様、圧力をかけても良いことはありませんよ?」
皮肉を込めて言うと、フィオナは琥珀の瞳を細める。
「…本当に可愛くない子ね。まあ、いいけど。アン、皇太子様の御前ではもう少し、その皮肉を控えるように。失礼になるわよ」
「わかっています。父様や母様の顔に泥を塗るような真似は慎みますわ。安心なさってくださいな」
「本当にそうなってくれるといいのだけどね。わたしもね、あなたが後宮で悔しい思いをたくさんしなければいけないということはわかっているの。だから、一人で送り出すのは心配なのよ」
フィオナはアンの黒髪をなでる。
さらさらとした髪はなめらかで手触りはひんやりとしていた。
「…あなたはわたしに似ていないということでいらぬそしりを受けてきたわ。それが申し訳なくて。同じ家格の方だったらよかったのに」
フィオナはそう言いながら、涙をうっすらと浮かべた。
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