友達の友達

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友達の友達

 片想いというのは引きちぎれるような想いだ。身を焦がしているうちはまだいい方で、引きちぎれてしまっては命は助かるまい。  初夏のやさしい光に桜の葉がやわらかく揺れる頃のことだ。  昼休みになり腹が空いたので、他の学生同様、学食への人波に乗った。女の子が多いキャフェテリアは相当混雑しているようだったけれど、俺達がいつもお世話になっている安くて量のある第一食堂はまだ席に余裕がありそうだった。自然、歩幅もゆったりしたものになる。  一食の手前にあるキャフェの掲示板近くに、うろうろする男を見つける。同じ学科の竹田誠だった。入学したばかりの俺達は、わりと頻繁に口をきく中になっていた。 「よう、竹田。人と待ち合わせ?」 「うん、まあ」 「何キョロキョロしてんの?」 「方向音痴なんだよ、あいつ」  成程。それは心配になる。  しかしさっきも言った通り、この時間は食堂に向かって人波ができているので、迷うというのは考えすぎじゃないかと思う。 「うーん、普通ならそう考えるところなんだけど、アイツ本当に危なっかしくて」 「そうか、それは大変そうだな。それじゃ俺はそろそろ……」  竹田くーん、と走ってきたのは紛れもない女の子だった。顎の下までの長さの髪はふわっふわで、チワワのように小顔でつぶらな瞳をしていた。 「ごめんね、やっぱり待たせちゃったね。キャフェもういっぱいじゃない? 外に行く? そういうの、迷惑?」 「想定の範囲内。気にするなよ。食べたいもの、ある?」 「えーっと……」  考えているという口ぶりで、彼女の目はぼくにたっぷり注がれていた。思えばあの時、一分一秒でも長く見つめ返していればよかったものの、後悔先に立たず。目を合わせることなんてできなかった。  俺の全てを知り尽くしてしまったんじゃないかと思うほど、穴が開くほど見つめられた後で、竹田が相槌をようやく打つ。 「ああ! そうそう、こいつは同じ学科の星野。星野、下の名前なんだっけ?」 「陸斗(りくと)」 「空と陸なんて欲張りなんだ。わたしは小野塚史緒(おのづかふみお)。これと言っておもしろくない名前でしょう? すぐに忘れても怒らないよ。史緒って呼んで。苗字より変わってるから」  方向音痴で待ち合わせに遅れてわたわたしていた彼女とは思えないくらい、スラスラ早口で彼女は簡単に自己紹介した。 「行こう。昼休み終わる」 「まだ食べるもの決まってない」 「道道決めればいいよ」  嵐のような出会いだった。  竹田と「史緒」さんは、友達なのかそれ以上なのか測りにくい距離で歩き去ってしまった。  俺は予定通り一食で、魚の塩焼き定食を食べる。今日は鯖だった。  一人暮らしだと栄養がどうしても偏る。こういうところでリセットしなくてはならない。 「なんかさっきはお騒がせして悪かったな」  昼休み明けの必修科目で、竹田は俺の隣に座った。何となく、居心地が悪かった。尻の座りが悪い。 「昼飯、ちゃんと食えたの?」 「ああ、お好み焼き。史緒がどうしても食べたいって言うからさ」 「お好み焼き、いいんじゃね」 「俺が嫌なんだ。史緒に似合わないと思わない?」  ああ、そうか、そういう理由。確かに好きな女の子にはちょっと素敵な店を選んでほしい。懐が痛んでも。 「何食べた?」 「広島風ともんじゃ」 「東西入り乱れてるな」 「だと思うだろう? 史緒ってそういうとこ、センスないっていうか、天真爛漫なのか、測りかねる……」  彼女? と聞くのは憚られた。どっちみち、彼女と俺の道は平行線で、これ以上交わることはないように思えたからだ。これ以上は……。 「わっ!」 「うおっ!?」  後ろから思いっきりどつかれる。前のめりになってバランスを失う。 「星野くん、授業終わった?」 「ああ、うん。竹田待ってるの?」 「うーん……、星野くんは今日はもう帰るだけ?」 「そうだけど?」  彼女が何を言いたいのかわからなかった。目の前でつぶらな瞳をくりくりさせている。よく見ると睫毛が上にくるんとキレイにカールしている。その睫毛が伏せられることなく俺の目をじっと見ている。  ……圧がすごい。 「あのね、わたしが方向音痴だって聞いたでしょう? ……駅まで送ってくれない?」 「……」 「あ! 星野くんは電車使わない人だった?」  竹田と一緒に駅に行かないのかよ。奴、キミと帰るのきっと楽しみにしてる。友達を出し抜くなんて……と言うほどまだ友情は深まってないけど。 「竹田はいいの?」 「別に約束してないし」  彼女は天然だ。  もしかすると竹田はもう付き合っているつもりなのかもしれないのに。不憫な奴だ。彼女に惚れているのははっきり見て取れた。  いいよ、と言って自転車は自転車置き場に置き去りにして彼女と歩き出す。パッと彼女の顔が輝く。 「わたしって、すごい方向音痴なの。自分でも不思議なくらい。ナビ付きの車だって運転できないと思うの」 「へぇ、目印決めてもダメなの?」 「例えば大学は同じような校舎が多いじゃない?」  そうか? 親切に校舎の側面に学部名が書かれてるぞ。 「桜の木も並木道になっちゃってて、どの木を目印にしたかわからなくなっちゃうし」  普通、そんなものを目印にしようと思わないだろう? これは重症だ。彼女の方位磁針は初めから狂っている。例えば方位磁針の針が南北を目印にして回るとして、彼女のそれは目印などなく、くるくる、回り続けているだけだ。 「竹田くんとはたまたま(・・・・)同じ大学に進学することになって、運が良かったの」 「運……」 「助けてくれる人がいるってすごいことだよね?」  竹田の気持ちを考えないわけにはいかなかった。史緒さんを待ってる間、あんなに不安そうだったのは、彼女が方向音痴だからというわけだけではないはずだ。  そわそわして彼女を待つ。もしかしたら今も待っているかもしれない、方向音痴の彼女が竹田の居る場所を見失っているかもしれないと思って。 「史緒さん、さ。やっぱり竹田と帰りなよ。俺、一緒に帰れないや。本当は自転車通学なんだよ。ここで待ってて。ほら、ちょうど縁石が直角のところ。動いたらダメだよ」  星野くん! ……という大きな声に振り返らなかった。引かれる後ろ髪が引きちぎれるくらいの、息が弾む速さでさっき史緒さんと会った、学部前の掲示板に向かう。  いた、やっぱりそわそわしていないふりをしてスマホを持った竹田がいた。そんなふり(・・)をするくらいなら、LINEで連絡を取ればいいのに。……彼女はどう見てもそういうことにズボラそうだ。 「竹田!」 「星野……走って、どうした?」  呼吸が整わないまま、一瞬、このままコイツはここに待たせておけばいいと、悪い考えが頭の中で右往左往する。あのくりくりした黒い瞳でまだ見つめられていたい。 「史緒さん、この通りの行き止まりで待ってるよ」 「ああ、やっぱり」  急いで行ってやれよな、と膝に手をついて息を整える。立場は逆転して、背中のリュックを上下に揺らしながら竹田は走って行った。  バカだな、俺は。彼女と帰ることを想像する。一度帰れば、次もあるかもしれない。何なら毎回、竹田より先に教室を出て偶然を装ってもいいんだ。  ……これって一目惚れ? まだ彼女のことをよく知らないのに。あのふわふわした髪を思う存分撫でてみたい。  自転車のロックを外しながら、頭の中は妄想でいっぱいだった。シャーッと自転車を走らせる。気まずいことに二人の隣を、素知らぬ顔で通り過ぎる。後から来た男には、先に来た男に劣るところがあるだろう。あるはずだ、きっと。 「ねえ! この間はひどい! なんであんなところに置いて行くの? 竹田くんが来てくれたから良かったけど」 「ごめん、俺、自転車、やっぱり置いて行けなくて」 「そうだよ、隣を知らない顔で自転車に乗って通り過ぎて行っちゃって」  史緒さんは猛烈に怒っていた。頭の上に「怒」の赤い文字が書かれているようだった。俺はどうやってしらばっくれようか、そればかり考えていた。 「……でもね、星野くんのお陰でいいこともあったの。この掲示板からまっすぐ縁石に沿って歩いて、あの、直角になるところで曲がると正門に出るんだね」  爪先を見るように下を向いて、彼女はぽつりぽつりと恥ずかしそうにそう言った。 「目印できたんだ?」 「そうなの、できたの。一人で正門まで行けるようになったのは、星野くんの、お陰。正門を出るとすぐ目の前に駅が見えて、一人で帰れるようになったの」  よかったね、と言いながら彼女の目が見られない。ああ、それじゃまた君を駅まで送ってあげることはないんだ。たった一度のチャンスを逃したなんて、大馬鹿者だ。 「じゃあ一人で行き帰りしてるの?」 「ううん、心配して竹田くんが一緒に歩いてくれてるの」 「竹田はいい奴だよね」 「本当にね。お世話になりっぱなし」  小さな手の細い指先が、風でバラバラになった髪を整える。ふわふわの髪の毛に覆われた彼女の顔は何故か微妙だった。 「星野くん」  その日は雨の日だった。  傘さし運転はしない主義なので、傘をさして徒歩で登校している最中だった。後ろからパーカーの袖をぐっと引かれる。 「史緒さん。一人なの?」 「うん。星野くんは今日は徒歩なのね。学部までの道は覚えたんだけど、雨の日は傘がいっぱいで心細くて」  ああ、彼女の身長では周りの人の傘が邪魔をして周りが見えにくいんだ。 「あの、それで、あの……」 「いいよ、まだ時間に余裕があるし。学部前まで送ればあとは大丈夫なんだよね?」 「うん、そうなの。助かる」  ほっと安心した顔をした後、ぱぁっと今日は雲に隠れている太陽のように笑った。握られたパーカーの袖は離されないままだ。 「星野くんはさ、食べ物は何が好き?」 「食べ物?」  また話がずいぶん飛んだな、と思った。彼女の頭の中にはどんな小宇宙があるんだろう? 「嫌いなものは特にないよ。好きな物はニンジン」 「ニンジン? ウサギさんなの?」  苦笑いする。ウサギさんだなんて、18年の人生の中で初めて言われた。そんなにかわいらしい生き物だと自分では思わない。 「煮物に入ってるやつ。肉じゃがとか、筑前煮とか。甘く煮えてて美味しいと思う。それに皮付きのまま丸ごと茹でても美味しいよ」 「ふぅん。『筑前煮』っていうのは知らないけど、要するにカレーに入ってるのより、和風に煮たのが好きなんだね」 「そういうことになるね」  筑前煮か、ふぅん、クックパッドで見てみよう、と彼女はブツブツ呪文のように呟きながら気がつけば彼女の学部前だった。 「ありがとう。迷惑かけてごめんなさい。せっかく道、教えてもらったんだから雨の日でも一人で歩けるようにがんばるから」 「大丈夫だよ、助けてくれる人がいる」 「そうだね、本当にありがとう」  パーカーの袖からそっと小さな手が離される。入口に入るのを見守っていると、彼女の赤い傘がパタンと閉じて、その向こうにいた史緒さんは小さな手をかわいらしく振った。偶然に感謝した。  星野、ちょっと。  ある日竹田に誘われて、食事に行った。 「突然だけど、史緒のこと、どう思ってる?」 「どうもこうも」  どうもこうも、好きだと言ったところで棚からぼた餅が降ってくるわけじゃあるまい。ここで彼女を「好きだ」と言ってしまう利点があるとは思えなかった。要するに、勝負に出られなかった。  はぁっ、と大きくため息をついて俺より先に彼女にダイブしてしまった竹田はテーブルに突っ伏した。 「見ての通り、アイツ天然なんだよ」 「うん、そうだな」 「わかってくれてうれしいよ」  竹田は顔を上げた。 「俺、アイツのこと、高校の時からずっと好きで、たまたま(・・・・)志望校が同じだってわかった時はすごくうれしくて。それで、俺だけがアイツのナビになれるって思ってたんだけどさ。あとは機を見て告白するだけだって」  まったくその通りじゃないか。あの無軌道な天然さを上手くコントロールして、枠外にはみ出さないようにしてやるのは相当の苦労が必要だろう。長い付き合いがあるからこそ、為せることだ。 「だけどさ、あの、言い難いんだけどさ……」 「何だよ、今更だろう?」  竹田は視線をぷいと横に向けた。 「史緒が最近、星野の話ばかりするんだ」  ドキンとするのはこういうことだと初めて知った。だって、そんなに話題になるほど彼女と過した時間は長くない。 「ないだろう。史緒さんとそんなに話したこともないよ」 「だよなぁ。……一目惚れとか、信じる? そういうのなのかな?」 「俺に言われたって」  ああ、そうだ。俺の方は一目惚れだ。だけど史緒さんが俺を好きになったようには思えなかった。 「大丈夫、安心しろよ。俺は史緒さんみたいな天然の子はタイプじゃないから。俺はしっかりした子が好きなんだ」  その時、ふと人の気配を斜め後ろに感じた。振り向くと、いるはずのない人がそこにいた。 「そうだよね。わたしみたいなの、『天然』ていうんだよね。ごめんね、迷惑かけちゃって」  狼狽える。  竹田も狼狽える。  考えろ。何かいい答えを出すんだ。 「迷惑はかかってないよ。ただ好きなタイプじゃないって話だよ。それだけ」  彼女は学食の軽いイスを引き出すと、すとんと座った。そうして下を向いたまま、 「まあ、そういうこともあるよね」 とわりとはっきりした声で言った。そこにはいつものくりくりした瞳の輝きがなかった。 「確かにわたしはしっかりしてないし、星野くんのタイプじゃないってこと、了解。たださ、ちょっとだけ勘違いしちゃってたからぐだぐだ言うね。失恋したからヤケになってるって思ってて。……わたしは初めて会った時にもう、ビビっと来ちゃって、星野くんも同じことを感じてるなって何でかな、思っちゃったの。勘違いして馴れ馴れしくしてごめんなさい。じゃあ、いつかいいことがあるとか期待しないので友達としてこれからもよろしく」  ギギっとイスを引くと、さっと立ってすたすたと去っていった。おいちょっと、と言って竹田があとを追いかけ、残されたのは俺と食べかけの定食二つだけだった。  好きな女の子に「嫌いだ」と言う日が来るなんて思ってもみなかった。だって好きだったんだ。一目惚れだと思ったら、彼女もそう思っていたなんて、神様からの贈り物としか思えない。  なのに。  タイプなんて関係ない。もしも彼女がしっかりした女だったとしても、彼女だったら好きになっていた。彼女なら、どんな人でもいいんだ。何故なら、一目惚れだったから。  あの日も、あの日も、どうして手も繋がなかったんだろう。でもダメだ。そんなことをしたら思い出だけが降り積もって忘れられなくなってしまう。史緒さんを。  もう、一人で帰ることができるようになった彼女が掲示板の前で竹田を待つ。もう二人は付き合ってるのかなぁとつまらないことばかり考える。そんな日が何日もあって、気まずくて出てきた学部棟の入口に引き返す。毎日がそんな風だった。まるでかくれんぼだ。  ある日、竹田がなかなか出てこなくて、史緒さんだけが掲示板前でつまらなさそうに俯いて立っていた。しばらく見ていてかわいそうな感じがしたけれど、もう話しかける権利もないし、自転車置き場に向かった。ロックを外して自転車のペダルを踏み込もうとすると「待って」と声がかかった。  悪い意味でドキドキする。今更、何を話せと言うんだ? 顔さえ真っ直ぐに見られる自信がない。  そう、俺は自信がない。史緒さんを受け止める自信がない。あの時、竹田の気持ちなんか考えないで踏みにじることになってでも「史緒さんが好きだ」と言っていればそれで何もかも上手く行っていたんだ。  いや、起きたことは巻戻らない。史緒さんを拒んだ自分が本当の自分だ。 「まだ竹田は来ないんだ?」 「竹田くんは帰ったよ」  え? じゃあなんでここに? 「正確には帰ってもらったの。だってわたし、本当はもう一人で帰れるんだもん。星野くんに教えてもらったから」 「……」 「わたしは確かに方向音痴だけど、気持ちはいつも真っ直ぐなの。急に曲がれないの。もう一度、きちんと言い直したくて。またふられてもいいの。星野くんのこと」 「ストップ! 言わせて。男らしくないと思われても仕方ないけどあれは嘘なんだ。俺は史緒さんに……」 「一目惚れしたんでしょう? そういうのってビビッと来るものだよ。星野くんの嘘つき」 「俺の気持ち、先に言わないでくれよ」  へへっといたずらっ子のような顔で史緒さんは笑った。目尻に涙を浮かべていた。その涙の原因が自分にあるのかと思うと情けなさでいっぱいになった。そうして彼女の笑顔を心からかわいいと、そう思った。今日もくりくりした目をしていた。  俺はその日、自転車を置いて帰った。それは本当はもう道順を覚えた彼女を駅まで送るためだ。一人暮らしをしていると言うと、彼女は遊びに来たいと目を輝かせた。その時までには「筑前煮」をマスターすると言った。  けど、彼女が俺の部屋への道を覚えるのはまだまだ先だろう。それまでに何回も、何回も二人で手を繋いで歩くんだ。目印を見つけながら、自転車は置いて、今日の二人のように。 (了)
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