序章:曇った空と帝都

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序章:曇った空と帝都

橋は長々と続いていて、太陽の見えぬ曇り空の下、人々は行き交う。小石だけは何かを知っているかのようにそこにある。 帝都に立っている大きな大きな時計台が眠たそうにあくびする。 人々はいそいそと自分の事に精一杯で、周りを見るものは誰一人としていない。 朝食のパンを求めるもの、職場に足を急ぐもの、新聞配達に勤しむもの、幸福を謳歌するもの…。その一方で、失業し生きていく活力を忘れたもの、社会に対する憎しみを募らせるもの、生きるというエゴイズム故に倫理を捨てるもの…。 この国では貧富の差はその経済体制故に合法となる。それどころか貧富の差というものがそもそもここの政治体制として、絶対普遍の正義であり、守られなくてはならないものだった。 1776年にアダム・スミスが『国富論』より、自由資本主義経済を唱え、世界は目まぐるしく発展した。莫大な富と金をもたらした資本主義は世界を武力ではなく、経済的に支配しつつあった。だが、資本主義という経済体制上、貧富の差は免れない。 そうした状況下でこの国も資本主義経済を成り立たせ、世界中の国々との貿易で莫大な富を築いた。 人々は明日はどうやって生き延びるかすらままならない状況で、ひたすらに金に怯えていた。 ─これでは王に怯えていた時代と同じだ! ただ怯えている相手が王様から金になっただけじゃないか!─ そう皆心の中で叫んでいた。 そんな殺伐とした人混みの中、周りのギスギスした空気に相反するかのように能天気に一人、歩く少女がいた。 この、少女を見る度に皆、変な少女だと思ったに相違ない。 それは少女の姿格好が不思議であったからであろう。 白色のブラウスの上に水色のベストを羽織り、襟に真っ赤なリボンを巻いている。水色のスカートをまとい、赤いリボンの着いた、頭に被るにしては若干小さい、真っ黒なシルクハットを斜めに被っている。 この国の年頃の少女にしては小柄で、おまけに履いている靴は少女の足には少し大きく、傍から見ると大層愉快な格好になっていた。 少なくとも、よっぽどの世間知らずですら、少女の格好はこの国の流行とは程遠い事と気がつくのは明らかだった。 さらに奇妙なのはその顔つきだろう。 普通、この国の人間は鼻が高く、肌は白色で目は青い。そして何より顔の彫りが深い。要するに顔立ちがはっきりとしている。 しかし、少女は鼻は高くもなく、低くもなく。肌は白いがどことなく黄色も混じっている。つまりは少しだけモンゴロイド系統の肌の色。目は青、というよりは黒みがかった蒼…とでも言おうか。顔の彫りは浅く、この国の人間ではないことは誰の目にも明らかだった。 その行動も奇妙だった。 不意に少女は帝都を流れる大きな川にかかる、恐らく帝都一の橋の手すりの上で軽やかに歩き出した。 「ちょっと…あの子何してるの?」 「可哀想に…きっとおかしくなっちゃったのよ…」 「まぁ…」 そんな紳士や婦人などのひそひそ話を横に、少女は楽しげに川を渡っていく。 能天気に、そして軽やかに、踊るように。だけど一歩づつ、確実に、丁寧に。 何せひとつ踏み間違えると帝都の汚くて臭いこの川に落ちることになる。そして少女にはドブ川に飛び込む気は更々無かった。 少女は橋の手すりの上に踊る。 そうして相変わらず帝都の曇り空は晴れない。 それどころかポツポツと雨が降ってきた。 なんでもここに降る雨は黒い雨と聞く。 黒い雨はぴちゃぴちゃと天から降り注ぐ。 そうして、あっという間に灰色の景色を黒色にする。周りの黒服たちは皆、目的地へ急ぐ。間に合わないもの達は雨宿りする。とある紳士の黒いシルクハットからは真っ黒な雫が滴り、雨粒がついてるのか、シルクハットが溶けてるのか、よく分からなくなってくる。 屋根から滴る水滴は黒ぐろとしていて、赤レンガ色の帝都を全て黒く染めていく。 ぴっちゃんぴっちゃんと絶え間なく黒い水たまりに黒い雨粒が円を幾つも描く。 汚いところが大好きなネズミすら、この雨の日は出たがらない。周りには独特なぷんとした悪臭が漂い、逃げ場もない。 この中で外にいるのはせいぜい貧民窟のホームレス達だろうか。いや、彼等も恐らくはそこに居たいとは思うまい。彼等は仕方なくそこにいるのであって、別に好き好んでこのような境遇に陥ったのではなかろう。彼等はただ脱力してぼうっと空を見上げる。そこに何があるのだろうか。昔の夢なのか、はてまた現実なのか。いつかこの国の人々も、この雨に濡れて、真っ黒になってしまわないかしら…。いや、この国が真っ黒になるんじゃないかしら。少女はそう思い、空を見上げ、そうしてはたと気がつく。 ─そうか、だからみんな黒い服なのね─ 黒い服はつまり脱力。富の代わりに自由を支配され、ゆとりを失った近代人の死装束。そうして、それの象徴こそ、この雨。 ワットが産業革命を起こした事で、我々人類は一気にその文明を飛躍的に更新した。 さらに資本主義経済の発展がこれと結びつき、この国の在り方こそが世界を支配しつつあった。 それと同時に、それまでの人類の生活様式の在り方や、文化、そういったものも全て変えていった。 例えばそれまで物、という存在は人よりはるかにその寿命は長かった。 これまでは革新的な産業や技術の発達がない限り、物が革新的に便利になることも無く、仮にそれがあったとしてもそれは非常に緩やかでで、まず人の一生の中で頻繁に起こることでは無かった。 故にいちいち物を買い換える必要も無かった。消費者のニーズがそれだから生産者側もわざわざリスクを冒してまで技術の革新をする意味も無く、単に昔から作られてきた物を作ったり、少しだけ改良しておけば、お互いに損は無かった。 しかし、産業革命以後は大量の物を安く作れるようになった。 さらに資本主義経済が生活に浸透することで、同じ商品を異なる企業が作って、その利益で競い合うようになった。 まずある企業が、安くて大量に作れる物を作る。 そうして利益が上がる。するとライバル社は必然的にその会社よりいい製品を作るか、安く売るか、しか利益を上げられなくなる。 しかし、安売り競争には限界がある。従って否が応でもいい製品をまた安く売る事になる。 従って常に市場は、安くて、いい製品が次々と出てくるようになった。 だから消費者のニーズは次第に、"便利で、かつ安いもの"を求めるようになった。それにより、大量生産によって生まれた安くて新しい物を買う、人類はいわゆる消費社会の時代に突入した。これにより、物は人よりその命は短くなった。 しばらくすると、雨が弱まり始めた。 やまない雨はない。黒い雨はやがて止み、また曇り空に戻る。 いそいそと人々は雨宿りをやめて、散々な目に遭ったと言わんばかりに屋根の下から出てきた。 活力のない街に少しだけ活気がもどる。 黒い水たまりに描かれた波紋はいつの間にか無くなり、そこには逆向きの風景が映る。 ─まぁ、どう見たってそうよね…少なくともこの格好はここではナンセンスね…─ そう少女は思うと、もう一度空を見上げ、楽しげな表情で、こう言った。 「19世紀は混沌だね」 だれも少女のつぶやきに気がつくものはいなかった。少女の言葉はただ、この街のシンボル、ビックベンの鐘の音にかき消され、大英帝国の黒い曇り空の中に吸い込まれた。はためくのはただ、英国旗のみだ。 ─ここは英国は帝都ロンドン─。 時は19世紀。正確に言うと西暦1891年。
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