2.獣の帰還

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2.獣の帰還

 肥えた月が樹々のあいだを昇っていく。  樹木の枝はとうに雪で覆われている。森の中にぽかりとあいた空き地沿いにならぶ巨木の枝に薄い氷の層が生まれている。いつも同じ方向から雪を含んだ風が吹きつけるためだ。夜になった今も、月明かりを映して白く輝く。会話のできない孤高の生き物が立ち尽くしているようにもみえる。  暗い森で光るのは育ちはじめた樹氷にかぎらない。神殿のバルコニーに立ち、レシェムは森を透かしみていた。樹木の影でランタンの黄色い光が揺れている。迷宮からぬけだした悪しきものは樹々のあいだをさまよい、森を出ようと試みる。神殿が聖別した光のなかで棘の影となって浮かび上がる存在を、兵士たちは斬りおとすのだ。 「レシェム様、凍えます。お入りください」  背後から声がかけられ、ふりむくと侍従が息を白く凍らせていいた。 「迷宮は?」  レシェムはたずねた。自身の息もまた白く凍ったが、空にはめずらしく雲ひとつみえず、昇っていく月の上で星が煌々と輝いている。 「扉には昨日と同様、なにも――」  侍従は小声で話しながらレシェムを室内へ入れようとする。うながされるまま進みながら、レシェムは内心落胆していた。最初の兵士から数えて何人になるだろう。都の神殿に選ばれた兵士を何度も裂け目の扉の前で見送った。ひとりも戻らなかった。前の冬も、その前の冬もそうだった。 「しかし、悪しきものの力は強くなっておりません。都の神殿は問題ないと」  レシェムの口元に皮肉な笑みがうかぶ。 「私たちが兵士を迷宮に送るのは迷宮を慰撫するためかもしれないな。兵士たちが噂するわけだ。迷宮行きは――」 「レシェム様」  たしなめるように侍従がいった、その時だった。  どこからか咆哮と悲鳴が響いた。森ではなく、神殿の内側から。  三日月が満月になり、いざよいながら戻ってくる、それだけの日数しかなかった。  しかし迷宮へ続く裂け目の扉からあらわれた、この男の変わりようはどうだ。兵士であることは身につけた軍装の残骸からわかる。しかしざんばらの長髪ともつれた髭に顔は覆われ、濁った眸がその隙間で不安定に動く。どこを見ているのか、見えているのかどうかもわからない。  恐る恐る前に進み出た従者にその者はまた咆哮を放った。ひとの喉から発せられる声とは思えない、床も壁も揺れるような咆哮だった。それでも若く頑健な従者は踏みとどまった。  まずい。論理ではなくただの直感だった。 「下がりなさい!」  レシェムの声は床にへたりこんだ従者に届かなかったのか、それとも動けなかったのか。男の腕が動いた瞬間がレシェムにはみえなかった。次にみたとき従者の腕は肩のつけねから斬りおとされていたからだ。悲鳴は一瞬おいてレシェムの横の神官からあがり、混乱した人々がどっと後ろに下がる。扉の前にいる男は頭を下げ、野獣めいた仕草で顔をつきだし、血の滴る剣を握ったままあたりをにらみつけている。ぼさぼさに乱れた毛髪の影で眼が異様な光を放つ。 「砦へ人を――兵を呼んで」  誰かがそういったが、レシェムは片手をまっすぐにあげた。男の眼がそちらに引き寄せられるのを意識する。 「黙れ。下がりなさい」 「レシェム様?」 「この者は迷宮から帰ってきた者。私は名を知っている」  一歩すすんだとたんどよめきが走ったが、神殿の者が彼を止められるはずもない。迷宮の扉のまえに立つ男は吠えるのをやめ、レシェムにまっすぐその眼をむける。危険な視線だが、レシェムは躊躇しなかった。 「ユトゥ」  男はさしのべた手を取らなかった。かわりにまたも雄たけびをあげ、レシェムの肩に跳びかかり、床へなぎ倒した。周囲で悲鳴があがるが、レシェムは眉間に皺を寄せただけだ。顔をめぐらせてのしかかる男を見上げる。 「迷宮へ戻りたいですか?」  直後、男の動きがぴたりと止まった。眸がまばたき、異様な光が消える。腕を掴まれたままレシェムは少しずつ体を起こす。 「私と来てください、ユトゥ」  名を呼ばれた瞬間男の手から力が抜けた。レシェムは隙を逃さず、神官服の裾を蹴りながら走り出す。回廊の先で支度の部屋の扉が開いていた。男はレシェムの後ろを追ってくる。十分に追いつけるのに追いつかない速度だった。余裕で獲物を狩るつもりなのだ。それでよかった。レシェムは支度の部屋に駆けこんだ。男はレシェムの足をひっかけ、床に倒れる直前に髪をひっつかんだ。首筋に感じた衝撃が足先まで伝わり、生ぬるい液体が一滴、二滴と床にしたたり落ちるのがみえた。  それが最後だった。レシェムの視界は急激に暗くなり、意識は奈落の底へすべりおちた。  引き裂かれるような痛みが精神を圧迫する。息を吐くことも吸うこともできない気がするが、レシェムの心臓は動き、意識もはっきりしている。男はレシェムの足を押しひらき、抱え上げ、強引に中に押し入っている。  背中が湿ったものに当たっている。うっすらと開けた眼に赤いしみがみえた。床が血に濡れている。自分の血。そうだろうか。現実感がなかった。鼻腔を満たす濃い匂いに喉の奥から何かがつきあげてくるが、男はレシェムの反応など気にもしていない。太い楔を体内に打ちこまれ、突き上げられるたびに激痛が走る。神官服の残骸が手首や肩にまとわりついている。邪魔なのか、男はレシェムの上体をもちあげると口をひらき、肩口に残る布を歯で噛みちぎった。  それでもレシェムの口から悲鳴は出なかった。男の長いもつれた毛束が顔のすぐちかくで揺れ、強い匂いが鼻につく。森の泥と革の匂い、そして唇から零れるのは冷気だった。神殿の外を満たす冬の冷気だ。鎌の月の夜、おなじ男がレシェムを抱きしめようとしたなどと、いったい誰が信じるだろうか。  今回都の神殿が選んだのは砦へ来てまもない兵士だった。  堂々たる体躯や軍装は同じでも、この男は他の兵士とちがっていた。男が感じている途惑いと違和感は、砦の兵士に娼婦のように神官が与えられることや、選ばれた彼にレシェムが奉仕すること、すべてに渡っているようだった。  レシェムにしても、そんな兵士は初めてで――しかも居心地が悪かった。あろうことか、支度をはじめてからも男はレシェムを優しく扱ったからだ。沐浴のときも、寝台の上でも、レシェムの中に入ってきた時も。レシェム自身の快楽を求めて指が動き、背中や胸を横切る革帯を唇がなぞる。そして思わず上がった息を噛み殺したレシェムに、声を出せと求めた。  声をあげるのは許されていないし、男のそんなふるまいはレシェムを当惑させた。男は強靭で、香のなかで何度果てても眠ろうとせず、あげくのはては疲れ切ったレシェムをいたわり、眠れといったのだ。  レシェムは目覚めたままの男を支度の部屋に残し、自室に戻った。こんなことは初めてだった。  男がレシェムに名を教えたのは、迷宮へ続く裂け目の扉へ入る直前のことだ。  だが、いまレシェムの肉体を蹂躙している男はあの時と似ても似つかない。レシェムの体内をえぐる楔は繊細な内部を傷つけ、外からも中からも彼を引き裂こうとしている。男はときおり首をそらし、天井に向かって咆哮した。そのたびに伸びた爪がレシェムの皮膚にめりこみ、押さえつけられた体で骨がきしみ、砕ける音がする。 「こらえるな」  あの夜、男はこう囁いた。苦痛のなかでふたたび薄れかけたレシェムの意識にぼんやりと記憶がうかびあがった。 「おまえの声をききたい」  レシェムを貫く男の楔は熱せられた鉄のようだ。灼熱の痛みがレシェムを引き裂き、バラバラにしようとする。何度男の熱い飛沫を体内へ注がれたのかもわからない。レシェムに声を出す意思はもとよりなかった。息を吐く力もとうに消えうせ、このまま暗くなるだろう。  ぼんやりとそう考えたはずだった。  にもかかわらず、その名はレシェムの唇からかすれた声となって零れおちた。 「ユ……トゥ」  男の動きがぴたりと止まった。眸がみひらいてレシェムをみつめる。その眼は獣の光ではなく、人の意思を宿していた。
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