酩酊

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酩酊

宵、とは何時のことを指すかご存知だろうか。 日暮れから夜中になるまでの時間帯のことを言ったという。 今ではあまり馴染みのない言葉になってしまったが、なんとなくイメージしていただけただろうか。 男は静かに座っていた。 先程までの焦慮はどこへ行ったのだろう。 待ち構えている現実を受け入れる覚悟ができたのか。否、そうではないことは彼自身が一番よくわかっている。 今日、あの場所でなければ。 あまつさえ、自分があのようなことを言わなければー 後悔が波のように押し寄せてくるが、無力な彼にはどうすることもできなかった。 彼女と出会ったのは何時だっただろう。男は出会った頃に思いを馳せる。 彼は正直なところ、出会った時のことを詳細には覚えていない。 ただ、あまりの共通点の多さに二人して笑ってしまったのをよく覚えていた。 それまでの経歴から、性格、好みに至るまで本当によく似通っていたのだ。 中でも彼が特に嬉しく思ったのは、彼女も自分と同じく酒が好きで、よく飲みに出かけるというところだった。 彼がそれまでに付き合った娘は皆酒に弱く、彼が趣味を満喫しようとすれば負担をかけてしまう事にもなりかねなかった。彼も決して強要などはせず、体質だから仕方のない事だと割り切っていたつもりではあったのだが、どこかやり切れない思いを抱えていたのだった。 そんな折、彼女との出会いはもはや運命的であるとさえ彼には感じられたのだった。 二、三回デートを重ねただろうか。男から交際を申し込み、二人は晴れて付き合うことになった。 付き合いはじめてからの決め事として、彼女は部分的な禁酒を提案してきた。どうやら彼女も似たような思いを抱えていたようで、他人と酒の席に着くことを躊躇いがちだったらしい。 彼は快く了承した。自身の抱えていた負い目でさえ共有できることが何よりも愛おしかったのだ。 部分的な禁酒というのは言ってしまえば単純なもので、二人きりの時にしか酒は飲まないという、ただそれだけのルールだった。 それからというもの、食事の会が二人にとって何よりの楽しみになった。 ほろ酔いの心地よさが二人を包み、二人だけの時間が流れる瞬間が恋人の逢瀬をより特別なものにしてくれるように思えたのだった。 その日もなんでもない日常の一ページとなるはずだった。 お互いの仕事終わりに食事でもしようと、軽い気持ちで約束を交わしていた。 どちらかが止むを得ず遅れるような時は先にレストランで待ってもらうようにしていたのだが、その日に限って駅で待ち合わせて一緒に向かうよう話していたのだ。 彼は絵文字もない、少し素っ気ない態度でお伺いを立てた。 「ごめん、仕事が長引いちゃって。でもすぐに片付けるから駅でちょっと待っててくれるかな?」 悪戯っぽく彼は付け加える。 「なんか今日は少しでも長く一緒に居たいみたいだ」 目的の駅に着くと、彼は不穏な空気を感じ取った。周りが妙に慌ただしいのだ。 胸騒ぎを覚えたが、この慌ただしさはきっと帰宅のラッシュだろうと彼は自分に言い聞かせた。 高まる不安を押し殺して悠然と待ち合わせの場所に向かう。歩を早めてしまうと何か取り返しがつかなくなるような、そんな気がしたのだった。 精一杯の抵抗も虚しく黄色いテープに阻まれ、彼が待ち合わせ場所にたどり着くことはなかった。駅の出入口がめちゃくちゃに破壊されている。フロントの大破した車が柱を抉っていた。暴走車が駅に突っ込んだのだそうだ。 そこから先のことを彼は他人事のように観測した。彼の目には全ての事象がスクリーンを通して見えているように感じられたのだった。 誰か巻き込まれたんだろうか。最近こういうの多いよなぁ。 ワンテンポ遅れて彼は自身の携帯への着信に気づいた。発信者を確認し、通話を開始する。20秒ほどで話し終えた彼は即座にタクシーへと乗り込んだ。 彼女を失ってからちょうど一年が過ぎた。 彼女の墓を訪れ、その足で彼女の両親に挨拶を済ませてしまった彼は、行くあてもなくただ街をフラフラと彷徨っていた。 もっと感情が溢れてくると思ったんだけどな。自身が思っていたよりも冷静であったことに彼は落胆した。彼女を愛していなかったのだろうか。それとも彼女への愛が冷めてしまったのだろうか。 悪い考えを振り払うように彼は彼女との思い出を必死に呼び起こす。気がつくと彼はベンチに座り込んでいた。 「もう一緒に飲むこともないんだな」 ふと、そんな言葉が彼の口から漏れる。 彼はベンチを離れ、思い立ったようにある場所へと向かう。 あの日、二人でデートの最後に行こうと決めていたバーへ彼は足を運んだ。 彼がドアをくぐるとスーツ姿の女性が声をかけた。 「ごめんね、まだ準備中なの。日が落ちてからにしてくれる?」 準備中だったのだろう。屈みかけた姿勢のまま彼を見つめている。 「すみません、今日が彼女の命日なんです。いつもはそんなことはないんですが、なんだか無性に感傷に浸りたい気分で」 「それは...ごめんなさい。何も知らずに」 手を動かしながら女性は続ける。 「そこのカウンターにどうぞ。オーダーが決まったら声かけてね」 一見サバサバしているが、どうやら深く同情してくれているらしい。 示されたカウンターに腰掛け、彼はメニューを開く。少し考えた後、彼は彼女がよく飲んでいたものをオーダーすることにした。 バーテンダーがグラスにスコッチと水を一対一で注ぐ。酒が入ると一層饒舌になる彼女が以前語った内容を彼は思い出していた。こうするとよく香りが立つんだっけ。 独特のスモーキーさの奥にほのかに香る甘味が得も言われぬ調和を生み出している、と彼は心の内でレビューをつけた。通なモン飲んでたんだなぁ。 感傷に浸りながらも思い出のウィスキーを楽しんでいると突然、彼を耐え難い眠気が襲った。 普段であればこの程度で酔うことはないのだが、長い間嗜んですらいなかったからだろうと彼はあまり気にしなかった。 折角だからと、彼は久方ぶりの酩酊の抗いがたい誘惑に身を任せるのだった。 彼は違和感とともに覚醒する。知らぬ間にテーブル席に移動していた。どれほど眠ってしまっていたのだろうか。というより、記憶のない間に何をしていたのだろう。最後の記憶を懸命に思い出そうとしていると、彼は違和感の正体に気がついた。先ほどまで慌ただしく準備をしていたバーテンダーがいない。それどころか、どこにも人の気配がなかったのだ。 彼は慌ててドアの方に目を向ける。ガラス越しに見える宵の街道には往来が感じられなかった。 「ちょっと、どこ見てるの」 彼はギョッとして正面を向いた。次の瞬間、あり得るはずのない光景に彼の目は奪われる。 「いいもの飲んでるね。一口くれる?」 理解の追いつかない彼を余所に、彼女は手を伸ばしてグラスを手にする。 「どう、して」 「あれ、一年ぶりの再会なのにそんなことしか言ってくれないの?」 ようやく絞り出した第一声を軽くあしらわれ、少しムッとして彼は言い返す。 「そりゃ、いきなり出てきたらこんな反応にもなるよ。少しは思いやりとか無いわけ?」 かつてのようなやりとりが何よりも嬉しくて、彼は自分でも気づかぬうちに口調を強めた。 「ごめんごめん。でも嬉しいのは私も一緒だから。ね、何から話そっか」 そこから彼は本当にいろんなことを話した。彼女と過ごした時の中でずっと思っていたこと。最期の時に考えたこと。彼女がいなくなってからのこと。 時折小さく聞き返すことはあったものの、彼女はその全てを優しい眼差しで受け止めたのだった。 男が一通り話し終えると、彼女は満足したように口を開いた。 「ともかく、お別れが言えて本当に良かったわ。あんまりにも急だったんだもの。化けて出てやろうかと何度も考えたわ」 いたずらっぽく彼女が笑う。生前となんら変わらない彼女の姿に、彼は目に涙を浮かべた。 お別れなんてなんてことを言うんだろう。まだ彼女の話を聞いてないじゃないか。彼はまだ会話を続けようとするが、彼を嘲笑うかのように再び耐えがたい眠気が襲ってきた。 徹底的に抗ってやろうと意気込んだが、睡魔は彼の気持ちなど汲んではくれなかった。 薄れ行く意識の中で彼が最後に見たのは、涙を溜めながらもとびっきりの笑顔を向ける彼女の姿だった。 気がつくと先程まで一人しかいなかったバーは大いに賑わっていた。 彼が席を立とうとすると、知らない間にカウンターに立っていた若い男のバーテンダーが口を開く。 「あれ、お兄さんもう帰っちゃうんですか?まだまだ宵も終わったところじゃないですか」 以来、彼は生涯酒を口にすることはなかったという。
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