人混みの中にあなたを

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あの日。南アルプスに登山に出かけた彼は、季節外れの嵐と雪崩に遭い、そのまま帰って来なかった。 彼のグループの人が3人、折り重なるように遺体で発見されたけれど、彼の遺体だけはどうしても見つからず、捜査は打ち切りになったのだ。 彼がいなくなってから一年後、彼の家族は認定死亡の届けを出し、亡骸のないお葬式に、私も列席した。 5年間。それでも万が一の望みを捨てきれなくて、人混みの中に似たような人を見つけては、彼じゃないかと期待して、鼓動が早くなるのを抑えられなかった。 だけどもう…そんなこともする必要はなくなる。 「こっちに来る?」 もう一度、彼が言う。 あの日から心が止まったままで、誰のことも好きになれずに、世界は灰色のまま。会社はブラックだし、いいことなんてあんまりない。 だけど…。 「ううん。大丈夫」 両の目からぽろぽろ涙をこぼしながら、私は口角を思い切りあげて、無理やりな笑顔を作って、彼に言う。 「明日からちゃんと頑張れる」 「うん、桃子らしい。――ごめんな、もっと早く来られれば良かった」 手首を掴んでた彼の手が離れる。空は真っ暗なのに、彼の回りだけすっと光が集まって明るくなった。 お別れなんだな、と悟る。きっと彼は前に進めていない私が心配で気がかりで、こっちの世界に降りてきてしまったのだ。 彼が謝ることなんて、何一つないのに。 何もかも幻覚だったみたいに、彼の姿は光の中に消え、私はちかちかし始めた青信号に慌てて、向こう側に急いだ。 涙が止まらない。ほぼ徹夜なのに、こんなに泣きはらした目で、明日はきっとみんなにからかわれる。だけど自分の中に5年の間に降り積もった思いを、洗い流してる涙だと思ったから、無理に止めなかった。 どうせ誰も見てないし。 もう大丈夫。あなたの手が離れても、私はちゃんと前を見て歩けるから。 人混みの中にあなたを探したりもしないから。 彼の遺体が見つかったと、彼のお母さんから連絡が来たのは、それから3日後のことだった。                             (完)
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