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傘の中の世界
「あちゃー」
私は空を見上げて、露骨に眉を寄せてしまった。
大学の講義が終わり、これから帰宅しようというところで、雨に降られたのだ。
傘を持って来てない私は、自分のうかつやに肩を落とす。
(コンビニで……傘を買うのさえ躊躇するのが……、ほんとに余裕がない証拠だよね)
貧乏神に取り憑かれている私は、万年貧乏であるようなものだ。
節約はするに越したことがない。
傘の一本買うだけでも、私にとっては死活問題につながる――。
(雨が止むまで、時間潰すか……。駅まで走っちゃうか……?)
大学から駅まではそこまで離れていない。
走れば十分かそこらで着くだろう。駅まで到着すれば、あとは電車の中だし、幸いにも住まいは駅から歩いて徒歩五分圏内。
ならば、多少濡れてしまっても、走って雨を突破してしまうのは選択肢に入れても良いだろう。
大学で雨が止むまで時間を潰すのもいいかもしれないが、雨がいつ止むかなんて誰も分からないし、貧乏暇なしな私からすると、無駄な時間を過ごすのはもどかしい。
「よし」
私は雨の中を走り抜ける覚悟を決めた。
ダッシュをするため、ぐっと足を踏み込んだ瞬間だった。
「キララちゃん」
「ふえっ?」
不意に声をかけられ、私は蹴躓きそうになった。
かくん、と身体が変な形に折れ曲がって、力のやり場を失った私は、バランスを崩しながら、声のほうに振り向いた。
そこには、傘を持つ乾太郎が笑顔で立っていた。
「か、かんたろ!」
彼こそ、私に憑いている貧乏神だ。
私が困っていると、どこからともなく現れて、助けてくれる。
彼曰く、貧乏神は金を失わせる代わりに、憑りついた者を守り続けることが誇りなのだそうだ。
私が、雨に降られていることに気が付いて、駆け付けた、という感じだろう。
私は、一応、大学までは憑いてこないでほしい、とお願いはしていたのだが、それでも乾太郎はこうして姿を現した。
私に寄り添い、優しい笑顔を携える乾太郎の手には時代がかったコウモリ傘が一つ、握られていた。
「帰ろうか」
そういって、乾太郎は傘をバサっと開く。
彼のその顔は、ハッキリ言ってイケメンだった。
私は、思わず頬を赤らめていた。
なにせ、キャンパスのなかで、みんながチラチラと乾太郎を見ては視線を奪われているのが、伝わっていたからだ。
私をエスコートするみたいに、手を差し出し、傘に入るように促す。
「な、なんで、傘、二つ持ってこなかったの」
「無粋な質問だよ」
「……」
どうせこうして迎えに来るのなら、傘を二人分持ってくればいいのに、乾太郎はわざと一本だけしか持ってこなかったのだ。
私と、相合傘をするつもりで……。
「だ、大学には、来ちゃダメって言ったのに……」
私は、乾太郎の隣に収まるみたいになって、顔を俯かせた。
周りの目が痛いほど突き刺さるのだ。
なんでこんなパッとしない女に、あんなイケメンが!? という声が耳にチクチク刺さっているのが感じられた。
「結構雨が強かったからね。キララちゃんのことだから、この雨の中走って帰ろうとするんじゃないかと思ったら、居てもたってもいられなかった」
「う」
図星だったので、私は言葉を詰まらせる。
「べ、別に、ちょっと濡れるくらい、だし」
「キララちゃんの濡れてる姿なんて、誰にも見せたくなかったんだよね」
「へっ?」
「そういうの、オレだけのものにしたいんだ」
そういうと、乾太郎はいきなり私の肩を抱いて、傘の中に引き込む。
私の半身は乾太郎の体温が感じられて、一気に温かくなった。
「ほら、しっかりこっちに寄って。濡れるから」
「うぐう」
私は喉から搾りだしたような声を漏らしてしまう。
こんなの、どこから見ても、カップルじゃないか……。
乾太郎は、まるで周囲に見せつけるように、私を抱き寄せる。
まるで、『この女はオレのだから、手を出すなよ』と、アピールするみたいに。
もう、こんなの耐えられない。
早く駅まで行って、この熱い傘の中から抜け出さないと、私の血液が沸騰して死んでしまうかもしれない。
乾太郎は私を引き寄せた側の手に傘を持ちなおし、丁度、私と乾太郎の中心に傘が来るような姿になった。
これなら、二人の身体をバランスよく雨から護ってくれるだろう。
「これだと、キララちゃんと繋げないな」
「繋ぐ必要ないでしょ」
「だって、逃げようとしてる」
乾太郎が、じろりと私の顔を見下ろして来た。
いくら、一緒に生活をしていても、こんな風に密着する機会はない。
肩と肩が触れ合って、体温や、香り、息遣いがとても敏感に感じ取れた。
私はそれが無性に恥ずかしくて、自然と身体を乾太郎から放してしまう。
そしたら、傘からはみ出た私の肩が雨に濡れそうになるから、乾太郎はもっと私の方に寄ってくるのだ。
二人は、カニ歩きみたいにずりずりと珍妙な動きをしていたかもしれない。
だから、乾太郎はそんな私の手を捕まえておきたかったのかもしれない。
しかしながら、乾太郎の空いている手は、私とは反対方向の手。
だから、手を繋ぐなんてできない。無理に手をつなげば、奇妙な出で立ちになること請け合いだ。
「に、逃げない、から。手を繋ぐのは、無理……」
「あはは、ほんとウブだよなぁ」
からりと笑う乾太郎を、私はムググと睨んで見せたつもりだ。
しかし、乾太郎は微笑みを消さなかった。
私は悔しいけれども、結局乾太郎の半身に寄りそうにして、一緒に歩き出す。
ざぁざぁと振り続ける雨は、周囲の音をかき消して、世界が傘の中だけしかなくなるみたいに感じられた。
私たちの歩幅はなんだか不自然になりながら、互いの身体を触れ合わせ、胸を煩くさせていった。
駅まで走って十分。
この二人三脚でなら、どれくらいかかるだろう?
私と乾太郎の世界は、あとどのくらい、狭くあるのだろう?
むず痒くて、心地よく、恥ずかしくて、くすぐったい――。
私はそっと隣をチラ見する。
当然かもしれないけれど、私の身長よりも、乾太郎のほうが高い。
私の身長は157センチで……、乾太郎の首元あたりが視線にくる。
きちんと乾太郎の身長を聞いたことがなかったけれど、おそらく、177センチくらいだろうか。
そっと、横顔を見上げると、乾太郎の整った顔立ちが目に入った。
(まつ毛……、長い。鼻筋、綺麗だな)
誰もがかっこいいと言うに違いない乾太郎の横顔。こんな距離感で見つめたことがあっただろうか。
「どうしたの?」
「うっ」
不意に乾太郎が、こちらに顔を向けた。
ぎくりとした私はやましいことをしていた気になって、視線をそらした。
「傘、なんかオジサンくさい」
そんな言葉であしらうように、私は誤魔化していた。
真っ黒で大きな、古風なイメージの傘は、少し堅苦しさもある。
「オレもあやかしだからなあ。センスが古いところは認めるよ」
あやかしは、人が忘れていくものを好む傾向にある。
そのため、レトロなものや骨とう品が好きだったりするけれど、乾太郎はそういう部分をあまり見せなかった。
相合傘の傘は、勝手ながらに、明るい色のものがイメージとして持っている。
だから、乾太郎が刺している傘の真っ黒さが、私の逃げ道に利用できた。
恥ずかしい気持ちを真っ黒な傘に塗り込むように。
黒い傘を背景に、私に微笑む乾太郎の肌はより艶やかに見えた。
道路を歩く、私たちの前に水たまりが出来ている。
私はそれをよけることを口実に、温かい方に少しだけ身体を押し付けた。
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