夏だからしょうがない

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 シャツのサイズが大きすぎるんだと思う。  うなじと襟まわりのあいだに、手をさしいれることができるくらいの空間がある。きっと手のひらを突っこんだら、わきばらまで届くことだろう。  となりの席の上原を見ながら、景太郎はそんなことを考える。  相手はこっちの妄想には気づきもせず、目をとじてねむっていた。  昼まぎわの、数Ⅰの授業。季節は夏で、教室の外はたぶん四十度を超えている。  夏休みまであと数日。授業なんかアホらしくて聞いてられない。 「ん」  上原が、小さな寝言を呟いた。  男のくせに、妙にエロかった。  クラスの皆は、与えられた問題を静かに解いている。教師は教壇の横で椅子に座り、教科書を見ている。ときおりあくびを噛み殺しながら。  教室は冷房が効いていたが、それでも三十度は超えていた。  こんな蒸し暑い場所で、よく寝られるもんだ。  景太郎は、チラと横目で、隣の席の男をうかがった。  上原は肘を机について、手のひらに頬をのせてまどろんでいた。  俯きがちに、時々コックリコックリと船をこぐ。そのたびに長めの前髪が揺れる。細くてこしのない、さらりとした黒髪だ。  髪の隙間から見えるとじたまぶた。まつげは長く、ゆるくウエーブを描いている。白いけど健康的な肌。スッキリと通った鼻筋、きれいな形の鼻翼。  そしてその下の、ツンととがり気味の唇。  コイツは生意気だから、いつも口はとがってる。  けれどそれを、嫌みに感じたことは一度もなかった。  上原も自分も男で、なのにこの感情はなんなのだろう。  そのときフッと、上原が息をはいた。拍子に唇がひらかれる。  厚みのない薄紅の下唇が、弛緩して、やわらかそうにゆるんだ。  唇ってのは、粘膜の一部なんだな、と何となく考える。口の中の粘膜部分とつながってるし、赤いし。いつもは乾いてるからそう感じないけれど、人間ってのは皆、粘膜なんてやらしい部分を他人にさらして生きているんだ。  そう考えると、こいつの口もやらしく見えてくる。  上原は相変わらず眠っている。あいた唇からは、教室の空気と同じくらいの温度の息がもれている。  しばらくじっと見ていたら、やがて唇の端っこが濡れてきて、きらりと光った。  窓を振り返ると、窓際の女子生徒が鏡を使っていた。きっと鏡にうつった太陽光が反射して口の中を照らしたんだろう。上原と景太郎の席は、教室のいちばん後ろの真ん中だった。  景太郎は上原に目を戻した。  唇の端が、まだ濡れている。それがほんの少しずつ、広がっていく。  やば。こいつヨダレたらしそう。  景太郎は、輪郭が淡くなった唇を眺めた。  教科書に雫をたらしたら、笑ってやろう。  こいつぜってー、たらすやろ。  そのときを待ちながら、こっちも唇の端に笑いが浮かんだ。  上原は涼しげな顔でいつも景太郎に小生意気な口をきくから、復讐してやるいいチャンスだ。  心の中でフフフと黒く笑いながら、じっと相手の口元を見つめる。眠りのために理性から無防備にほうりだされた唇は、内側に透明な体液をためていき、やがて静かにそれを押し出す。  雫がまた光を反射する。他人の唾液なのに、景太郎はそれをきたないとは思わなかった。誰だってキスするときは相手の唾液に触れるのだし。自分の舌先で。  そう思うと、自分の中のなにかがズクンと疼いた。  上原の唇はいつまでもゆるくあいたままで、しばらくすると寝息と共に端からとろりと雫をあふれさせた。ゆっくりと糸を引いてたれていくそれは、映画なんかのキスシーンで、ふたりの唇が離れたときに余韻であいだに残る糸を思い出させた。  ――あ、落ちる。  瞬間、ガタン、と大きな音を立てて、景太郎は隣に身をのりだしていた。  無意識に手をのばして透明な水を受けとめる。  上原の唾液は、ほとりと景太郎の指先におさまった。 「……ぁ」  静かな教室に、景太郎の立てた物音が響く。驚いた生徒らが、こちらを振り返った。 「樋口、何してる」  教師が眠そうに問いかけてきた。  我に返り、頭の中が真っ白になる。 「……すんません」  クラスメイトの目が突き刺さった。全員がいぶかしげにこちらを見ている。  景太郎は思わず立ちあがった。 「えと、熱中症になりかけたみたいなんで、水、飲んできて、いいっすか……」  考えなしに口から出たのは、そんな言い訳だった。 「ああ、そうか。今日は暑いからな。いいぞ。具合わるかったら保健室もいけよ」  教師は面倒くさそうに手を振った。  景太郎は濡れた指先を硬直させたまま、ゆっくりと、眼差しを教壇から、隣の席へと移した。  上原は目を覚ましていた。  切れ長で大きな瞳を見ひらいて、景太郎を見あげていた。  その唇の端はやっぱりほのかに濡れている。  景太郎は無言でそれを凝視した。 「……え?」  上原の視線が、景太郎の手に移動する。そして指先が濡れていることに気づいて、不意に顔を赤らめた。自分がこぼした唾液だとわかったらしい。 「え……? なんで?」  困惑するクラスメイトをおいて、景太郎は憮然とした表情で扉に向かった。 「え? え、あ、あの」  背後で上原の声がする。けれど、クソ恥ずかしくて振り返れなかった。  なんであんなことを。  扉をあけて廊下にでる。そのとき後ろから声が聞こえてきた。 「せ、せんせ、おれ、おれも、ねっちゅしょ、水、のんできていいすか」  なにに慌てているのか、寝起きのせいでろれつが回っていない。  無視して扉をしめた。スタスタと廊下を歩いていると、扉を開閉する音がして、パタパタとスリッパを鳴らす音が近づいてくる。  景太郎は振り返らなかった。待ちもしなかった。ただどうしようもなく苛立っていて、憑かれたように足をくりだした。 「樋口、お、おぃ」  追いつけない上原が自分を呼ぶ。それでもとまらない。水飲み場は廊下の先にあった。けれど別に喉が渇いていたわけじゃなかったから素通りした。  渇いてるのは喉じゃなくて――。 「樋口、おい」  上原は諦めりゃいいのに、まだついてくる。  いったいどうして、この男は一緒に教室をでたんだろう。  なかったことにして無視するか、もしくは馬鹿な行為を嘲笑えばよかったものを。  廊下の先はL字に曲がっていた。その先は行きどまりで学習準備室がある。景太郎は逃げるようにして廊下の奥へ進んでいった。ひとりにして欲しかった。 「待てよ、こら。おまえ、なんで」  なんでって、その理由をきくのかよ。  急にムカつき、ついてくる相手が許せなくなる。  廊下の気温は体感で三十八度。熱を出した人間と同じ温度だ。  不意に景太郎は足をとめた。くるりと振り返り、相手と向きあう。  上原は驚いて目をむいた。  まるでおどかされた猫みたいに、ヒタと動きをとめる。  その瞳は、虹彩がくっきりわかるほど大きくて、まん丸で、見たこともないほど、可愛い。  こみあげる衝動のままに腕をぐいとつかみ、廊下の端まで引っぱっていった。  そして突きあたりの大きな窓の前につくと、腰を抱いてキスをした。 「――」  上原が目を見ひらいたまま硬直する。  景太郎は腕に力をこめて相手を抱きよせた。少しひらいていた唇に、舌をねじこませる。そうして、残っていた唾液を自分の舌にからませた。 「……」  上原は、どうしてか、抵抗しなかった。  まったくされるがままで、ぼんやりしていた。  けれど、そのうち、景太郎の背中に手を回してきた。シャツを握りしめ、こぶしをこすりつけてくる。だからこっちも調子にのって、きつく抱きしめた。 「ひぐ……」 「うるせーよ」  相手の頬が上気しているのが、まつげのふれあう距離で見ていてもよくわかる。このままこんなことしてたら、ふたり一緒に酸欠でぶったおれる。けれど離れようとは思わなかった。  窓の外でセミが鳴いている。  直射日光がふたりの姿を白く消す。  大きすぎるシャツが汗を滲ませる。  あと数日で終業式。  そしてその後は――。  夏休みの予感に、胸を震わせた。                 【終】
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