三題噺「水無月」「泥」「逃避」

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三題噺「水無月」「泥」「逃避」

 どんよりと煙るような雨雲。じとじとと肌にまとわりつく空気。  水無月――その字面がいっそ皮肉にすら思えるこの季節は道行くサラリーマンたちの顔をいっそう陰気にさせている。  梅雨の晴れ間の蒸し暑い天気がここ数日続き、今朝はいつ雨が降ってもおかしくないような空模様の割に、夕方まで我慢して帰宅時間を集中攻撃する予定らしい。お陰で邪魔な傘を手にぶら下げての出勤だ。  いっそう憂鬱さが増した足取りもまた重い。  あるいはそのせいだろう。それを見つけてしまったのは。  首だ。  人が隠れられる筈もない、腰の高さにあるプランターの植木の間に。  土気色の肌、暗がりにまぎれた輪郭はぐずぐずに崩れ、左目のあるべき場所は潰れて垂れ下がっている。  あまりの見た目に身が竦み足が止まってしまう。しまった。  霊――見えてはいけない筈の存在。その存在を感知する者に奴らは目敏く気がつき付きまとってくる。  最悪だ……。  瞼のない右目がぎろりとこちらを向く。  唇のない口腔から覗く歯を打ち鳴らし、ソレがゴボリと湿った言葉を発した。 『……田ぁ……かえせぇ……』  え、泥田坊なの? ◇◇◇  生まれてこの方24年。心霊現象には数多く遭遇すれど泥田坊に出会ったのは初めてだ。  妖怪・泥田坊は田畑を粗末にする者に畑から『田を返せ、田を返せ』と訴えかけてくる妖怪だった筈。土気色で崩れた肌も泥だと思って見ればなるほどただの泥だ。  グロテスク回避できたのはいいけど……なんだってその泥田坊が道端のプランターなんかにいるんだ。片田舎で道路の向こうは普通に田園だけど、それならそっちから出てくるのが筋ってもんだろう。 『田ぁ……かえせぇ……かえせぇ……』  稲作してないわ。こちとらパンプス装備だぞ。 『田にぃ……帰せぇ……あそこぉ……帰りたいぃ……』  いや返せじゃなくて帰せ!?  どんな要求!? 『雨ぇ……道ぃドロドロぉ……オデぇ散歩してたぁ……デモぉ……道ぃ乾いてぇ……戻れなぁくなったぁ……帰りたいぃ、帰りたいぃ……』  ええ……ドジっ子泥田坊ってどこに需要あんのよ……。  というかなんで泥田坊のくせに田んぼから出てその辺さまよってるんだ。 『雨期でぇ……ウキウキしてたぁ……』  …………私これから仕事だから、それじゃ。  見切りをつけて離れようとしたら泥をぴゅっぴゅと吐いて妨害してきた。  危なっスカートにかかるところだった! 『待てぇ……田ぁ……かえせぇ……!』  首だけの癖して生意気な。そっちがその気ならこっちだって考えがある。  鞄に常備しているビニール袋を開くと泥田坊の崩れかけた首をむんずとわし掴む。  ……うわぁ、ぐにゅって感触気持ち悪ぅ……。  早々に去来する後悔を振りきり袋に首を放り込むと素早く口を縛り上げた。 『アーッ、ヤメロぉぉ……何をするぅぅ……!』  もぞもぞ暴れる袋片手に道を歩き出す。  さあどうしてくれようこの泥んこ。  川に流すか、道路の真ん中に置いていくか……。 『かえせぇぇ、田にかえせぇぇぇ』  人にもの頼む時はそれなりの頼み方ってもんがあるんじゃないの? 『かえしてぇ、くださいぃ……お願いぃしますぅ……』  最初からそうすればいいものを。  観念してすっかり弱弱しくなった声を聞いて道向こうの田園へと足を向けた。  泥田坊は泥や田畑の中でしか生きられない。首しかないのもさては干上がって慌ててプランターへと逃げ込んだためだろう。このまま放っておけばいつかは消える運命だ。  ほら、もうはしゃいで田んぼから出たりするんじゃないよ。  袋を地面に置き口を開くと袋がぶるぶると喜びに打ち震える。 『や、たー……やー、たーぁぁ……』  泥の塊が勢いよく飛び出した。  バッシャーン!  『かえれるぅ、かえれるれるれ――……』  声は次第に田んぼの向こうに遠ざかり、言葉尻はごぼごぼと泥の底にかき消えていく。  残されたのは汚く萎んだビニール袋と、鞄やスーツやブラウスやストッキングを真新しい泥色のまだら模様に彩ったくたびれたOLが一人。  ――会社――遅刻確実――クリーニング代――周りの目――  様々な思いが瞬く間によぎっては消えゆき。  私は、そして。  ――ははは……次会ったらあいつ泥団子にして灼熱のアスファルトに並べよーっと。  現実逃避を決め込んだのだった。 おしまい
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