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第6話 運命の月夜
高い空からリーフェルトは古い廃ビルの聳(そび)え立つ地へ落ちていった。
唇から血を流しながら酸素を欲して必死に呼吸をするが、胸を貫いているものが息一つするたびに、言葉にならないほどの痛みを生み出す。
目を動かし、改めて自分を落とし胸を貫いた得物を見下ろす。
――鎌だ。
ただし物語に出てくるような死神のように黒くおどろおどろしいものではなく、柄も刃も純白で、何か神聖なものを感じさせる。
自分を貫いているものは鎌の刃先ではなく柄の部分で、自分の身体に埋まりきって見えないが、おそらく槍に鎌の刃が付属したような造りになっているのだろう。
「……っ」
砂利を踏みしめるような音が微かに耳に届いて首を回し、そこに立っている人影に目を凝らす。
やはり見紛う事なく、自分を攻撃してきたあの少年だった。
落ちていくときに目に焼き付いた、その日本人離れした整った顔立ち、柔らかなプラチナブロンドの髪。まるで自分を生き物とさえ思っていないような冷たい眼光を浴びせられ、リーフェルトの心身は瞬時に凍りつく。
これから彼は、自分を殺すつもりなのだ。
それだけは本能的に理解できた。
「呆気なかったわね」
また別の足音と凛とした女子の声が少年の背後から響き、リーフェルトは苦痛の中、次はそちらに意識を集中させる。
目の前の少年と同じ、腰辺りまで届く柔らかなウェーブを描いたプラチナブロンドの髪。
西洋人形をそのまま大人びさせたような、見事な美しさを持つ少女だ。
しかし、革手袋をした彼女の両手の中で月に反射し光ったものを見て、思わず息を呑む。彼女が手に持っているのは、自分をここまで追いかけ、切り刻んできた純白のチャクラムだ。
「とっとと、とどめを刺してしまいましょう。恨みはないけれど」
右手に持っているチャクラムを一度左手に預けて、少女は何かを上着の内側から取り出す。殺意や恐ろしさをまったく感じられない、シンプルだがどこか華美な印象を受けるそれは、真っ白い杭のようだった。
「大丈夫……すぐに楽になるから」
優しい科白の調子とは裏腹に、明確な殺意と敵意をむき出しにした青い双眸。ゆっくり歩み寄ってくる少女に、リーフェルトは後ろに倒れた姿勢のまま距離を取ろうと体を動かそうとするが、何故か指の先一本さえ動かすことができない。
逃げる力さえ一切入らない身体に、冷汗が滲む感覚を嫌というほどに感じる。
一歩、一歩、彼女が近づく度に、彼女の姿がリーフェルトの中で死の象徴へと変わっていく。
死ぬ。ここで。
嫌だ。嫌だ。
今すぐ無様に地を這ってでもこの場から逃げ出したいのに、それさえ許されない。
目に涙が溢れて、言葉にならない途切れ途切れの声が、恐怖に荒くなった呼吸と共に自覚なく漏れる。
一体、どうしてこんなことになった……?
胸の位置まで掲げられた杭の先が月夜に輝く。一見何の悪意ももたらさないような鋭い純白が、寧ろ一層狂気的な危うさを放っていた。
そしてリーフェルトの眼前で、少女が頭の上まで杭を高く持ち上げる――。
そのとき。
それまで少女の後ろで押し黙っていた男子が、思いがけず、なにかを呟いた。
「……?」
それをたまたまリーフェルト同様耳で拾った少女が、仲間である少年を振り返る。それと同時に少年は片手で頭を抑えて膝を屈し、「なんだ……?」と呻いた。
「里央(りお)……?」
少年の名前らしき言葉を呟き、少女は気遣わしげに彼に寄り添う。
が。次の瞬間。
「! なに――?」
少女はよろめいて、少年と同じように、その場で膝を地面に付けてしまった。
<ガーシェル>
一体何が起こったのだろうと、訳が分からないまま彼らの異変を見守っていたリーフェルトだったが。自分の傍らに何者かが降り立つ気配に、顔の向きを仰向けに持ち上げた。
「あ……――」
<喋るな>
現れた眼鏡のクラスメートに「二階堂君」と口にしようとした自分を彼は制す。
不思議だ。
辰弥の唇は動いていないのに、頭の中に彼の声が直接響いてくる。
<とりあえずここから離れる。……その前に>
辰弥は鎌を眺め、
その柄に彫られている文字を見るなりポケットから革手袋を引きずり出し、それを身に付けた。
<すまない。少しの間だけ眠っていてくれ――>
彼の片手が撫でるように視界を覆い隠したかと思うと、突如強烈なまどろみに包まれ、リーフェルトは深い眠りに落ちた。
「……っ、今のは……」
「! 里央! ヴァンパイアが――」
妙な幻覚の淵へ落とされてようやく立ち直ったプラチナブロンドの二人は、捕えたリーフェルトがその場から消えていることに気付いて立ち上がる。
少年の得物である大きな鎌だけが、そこに転がっていた。
少年は舌打ちし、自分の武器をまず回収しようとしたが、それに近づこうと数歩踏み出したところで、身体に電流が走ったような衝撃を覚えた。
「結界?」
指先で触れるとばちりと音を立てる、見えない壁。眉をひそめた彼らの背中を、一つの影が静かに見つめている。
その気配を察知し二人が振り返った先には、眼鏡をかけた陽人が立っていた。
「……なんだ? 君は」
「お前たちこそなんだ、同じヴァンパイアなのに。あいつは、ガーシェルはお前たちの世界じゃ王子なんだろう? 若気の至りにしちゃ、ちょっと“やんちゃ”が過ぎるんじゃねえか?」
同じ種族ならば、王とその子供の顔くらい知っていて当然だろう。
ひねた態度を取りたい年頃がヴァンパイアにもあるのかは知らないが、たとえあるのだとしても、彼らの行いはあまりに度が過ぎている。
しかし少年は「知らないな」と肩を竦めて
「ヴァンパイアの世界は王制なのかい? それは初耳だ」
「初耳?」
「僕たちはこの世界で生まれ、この世界で生きてきたヴァンパイアと人間の混血だ。だから彼のことも、ヴァンパイアの世界も知らないし興味もない」
(……ダンピールか)
一方、陽人の意識を通し情報を収集しながら、
辰弥は廃ビルの中にある部屋の隅で深い暗闇の中夜目を利かせ、リーフェルトの怪我の治療を進めていた。
<……貴方、一体何のつもり? 見たところ人間の悪魔祓いのようだけど。
魔の血をひく私達の邪魔をするのは理解できても、あのヴァンパイアを助けたのは理解できないわ。まっとうな悪魔祓い師なら、お互いに潰し合わせて漁夫の利を得ようとするのではなくて?>
<ガーシェルは悪い奴じゃない。だからまだ、和解できるかもしれない>
<和解?>
<なるべく傷つけあわずに済むなら、それがいいに決まってる>
<何を言っているの? 和解なんてできるわけないじゃない。
ヴァンパイアは人間に害しかもたらさない>
<……お前の親も片方はヴァンパイアなんだろ?>
<僕たちのことなど、君には関係のないことだ>
会話を聞く限り、彼らは明らかにヴァンパイアを敵視しているようだと辰弥は感じる。
(……もし彼らの親がまっとうなら、その子供がヴァンパイアを無闇に攻撃したりなどしないはずだが――)
別に彼らの事情など自分たちには関係のないことだが。
(正直、僕は陽人よりもあのダンピール寄りの考えなんだがな)
相棒がそうしたいと願っているからただそれを叶えているだけで、辰弥はリーフェルトに対しあまり信用はしていなかった。寧ろリーフェルトがこの先敵になる可能性を考えれば、重傷を負った状態のまま放置してしまいたいくらいだった。
今リーフェルトに応急手当を施しているのは、助けてやってほしいというかけがえのないパートナーの頼みだから、それを実行しているにすぎない。
(とはいえ……助けられるか……?)
魔女の商人から購入した止血薬を使用しても、リーフェルトに深手を負わせたあの白い鎌が、陽人の聖書と同様聖の力を施されていたこともあってなかなか思うように血が止まってくれない。
おまけに傷が深すぎる。早く治療して、陽人のもとへ急がなければならないのに。
「……気は進まないが」
懐からダーツを一本取り出し、辰弥は鋭いその先を左の掌にあてがって深い傷をつける。そして力なく開かれたリーフェルトの口の中へと、その真っ赤な滴を一滴ずつ垂らしていく。
自分が混血だということを考えれば、効果は期待できない。だが少しでも人間の血が混ざっていればいいというのなら、試す価値はある。
リーフェルトにとっては不本意かもしれないが、これで一人前になってくれれば魔の力も身体能力も飛躍的に上がり、命だけは助かるかもしれない。
(おそらく噛みつかれさえしなければ……体内にヴァンパイアの唾液など入らなければ、僕までヴァンパイアになることはないはず――)
自分の体液が一滴一滴、落ちていくまでの時間がなんとも焦れったい。
頭に滲んだ汗が、辰弥のこめかみを流れていく。
(陽人一人では不利だ……早く、目覚めてくれ……)
今の陽人の状況を確認するべく、彼は暫し目を閉じた。
目を閉ざしたまま、リーフェルトは無意識から少しだけ覚醒する。
先程まで感じていた、あんなに酷かった胸の痛みが、今ではぼんやりとしていて遠い。しかもそれは、時間が経つほどに更に鈍く、遠くなっていくような。
(……この痛みがいつかまったく、感じられなくなってしまったら……?)
自分は、これからどうなってしまうのだろう。
それになんだか、寒い。身体が段々、冷たくなっていくような気がする。
寂しい。こんな、父も母も兄弟も友人もいない、見知らぬ世界で。
たった一人で、誰にも気づかれず自分は死んでいくのだろうか。
温もりが欲しい。
誰かの笑顔が見たい。
いつもは煩わしい兄、姉たちのからかいさえ今は恋しい。
誰でもいい。誰か自分を、抱きしめてくれないか――。
(……)
熱を心の内で渇望した瞬間。
人肌のように温かな何かが、自分の舌の上に転がり込んでくる。
……一体何だろう。
喉を鳴らして飲み込んでみれば、その熱が全身に行き渡り、冷めていく身体をたちまち温めていく。
(なんだろう。温かくて、ほっとする)
それになんだか、甘い。味だけじゃない。味に負けないくらいどこからか、甘い匂いがする。
ぽたり、ぽたりと、自分の口の中に次から次へと転がり込んでくるその滴。喉を鳴らし飲めば飲むほどに心身が癒えて、命が喜びに打ち震えた。
(……死にたくない。まだ、死にたくない―――)
目が覚めた瞬間がいつだったかなど、リーフェルトにはわからない。がむしゃらに、彼は無意識にただ生に縋りついた。
無我夢中に、自分が生きられる“可能性”に手を伸ばし、自分が生きられる“可能性”を掻き抱いた。
あとはもう、覚えていない。
「……っ」
微かに耳に届いた、声にならない声に我に返る。
自分が何をしたのか、リーフェルトにはわからなかった。必死に縋り抑えつけていた身体を離し、呆然と見下ろしたその先。
血のように赤くなった彼の瞳の中には、力なくしな垂れ意識を手放している辰弥が映っていた。
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