50人が本棚に入れています
本棚に追加
第8話 謝罪
中間テスト前――
「辰弥君。あの、中間テストもうすぐだから放課後一緒に勉強しない?」
「ごめん。僕はいい」
「じゃあ、わからないところとかあったら教えるよ」
「小夜と対策済みだから問題ない」
「……学校帰り、息抜きにちょっとどこか寄ったり」
「忙しい」
「……そう」
中間テスト最終日放課後――
「辰弥君。一緒にハンバーガー食べに行こうよ」
「……ごめんけど」
「あ、嫌かな。えっとじゃあ、ちょっと買い物に付き合って――」
「今日は、忙しい」
「……」
通学鞄を片手に、一人帰っていく辰弥の背中を見送るリーフェルト。今日は彼――いや、彼女は小夜とは帰らないらしい。小夜はクラスメートの他の女子たちと雑談を楽しんでいる。
(……嫌われてる? 怒ってる??)
いつか辰弥の力になるべく距離を縮めようと努めているのだが、素っ気なくかわされるばかりで、まるで希望が見えない。悪い感情を抱かれてもしょうがない。それはわかっている。
わかっていても、悲しいものは悲しいのだ。
「……笹永君」
「陽人でいいよ」
「僕やっぱり、嫌われてるみたい」
「……うーん」
肩を落として落ち込むリーフェルトに、
陽人は頭を掻いて、どうしたものかと唸った。
その晩。自宅でスマートフォンにLINEが届いていることに気が付き、シャワーから上がったリーフェルトはバスローブ姿でそれを確認する。
(陽人君……?)
『辰弥の奴、監視されてるから付き合い悪いだけだって。お前が嫌いとか、恨んでるとかじゃないっぽい』
(……監視……??)
リーフェルトは柔らかなソファにゆったりと座り、スマートフォンを弄って文章を組み立てていく。
『監視ってどういうこと? 誰から監視されてるの?』
『多分、ゴールデンウィーク前のあれのせい。あんまり寄り道とかせずまっすぐ帰れって茜さんから言われてるらしい』
『茜さん?』
『スマホのGPSで辰弥の母親に監視されてる。茜さんいつも師匠の旅に付いて行ってるんだけど、今回はしばらく家にいるってよ』
『監視のために? いつまで?』
『さあ……師匠も茜さんもこういう時厳しいからな。しゃあないんだけどさ。なんとかあいつフォローしてやりたいけど、パートナー解消させられちまったし』
陽人に聞いたところによると、魔と戦うのもしばらく罰として禁止されているらしい。彼曰く辰弥は退魔師でもあり、半人前である自分の力をその術で補っていたのだとか。
(辰弥君、大切にされてるんだなあ。……そうだよな)
なりは男子でも、やはりまだ十五歳の女子なのだ。わざわざ知らせてくれた陽人に礼の返事を送って、スマホを机に置き天井を仰ぐ。そして少しの間考えてから自分の両の頬を叩き、決心した顔でソファから立ち上がった。
(辰弥君のお母さんに謝りに行こう――)
父親の方は既に旅に出ていて不在らしいので、せめて母親のほうだけでも。謝罪はなるべく早い方がいいだろう。
少し怖いけれど陽人が責められたのだって、そもそも自分を助けようとしたせいだ。
陽人が叱られたのに自分だけが謝罪しないわけにはいかないと、リーフェルトは唇を引き結んだ。
悩みに悩み、時間に余裕のある日がいいだろうと家を出た土曜日の昼。二階堂家前。
自分も付いて行こうかと陽人が心配してくれたが、彼は既に一人謝罪に訪れたのだから、その必要はないと断った。
これは自分一人の問題だ。最悪の場合、陽人が余計に怒られてしまうかもしれない。
リーフェルトは緊張しながら家の前に立ち、チャイムを押し込む。
<はい>
良く通る、落ち着いた大人の女性の声。明らかに辰弥とは違う声に、身体が自然と硬くなる。
「あのっ……辰弥君のクラスメートで――」
<ああ。ちょっと待ってて。呼んでくるから>
「い、いえ! いいです! その、茜さん、ですよね……? 辰弥君のお母さんの」
<? はい>
「辰弥君の……ゴールデンウィーク前のことで、貴方に謝りたくて」
<……>
インターフォンのスピーカーから、がちゃりと通信が途絶える音が微かに聞こえる。
自分がしたことを思い返し、リーフェルトはそのまま無視されることを覚悟したが、幸運なことに玄関の扉は数十秒後に開かれた。
「……」
出てきたのは、やや吊り上がった切れ長の瞳が印象的な女性。
美人は美人でも、リーフェルトが想像していた成熟されたサキュバスのイメージとは違う、しっとりとした清楚な色香を持つ和風美人だ。
リーフェルトは頭を深く下げ、まず名乗る。
「僕は辰弥君のクラスメートで、五月の初めに、その……」
「……とりあえず入りなさい」
人目の付く場所で自分の素性を公言していいものかと惑った彼を察したのか、茜は落ち着き払った様子でリーフェルトを家の中へと促した。
リーフェルトは茜の後に続き、居間の方へ通される。
「お母さん。今のお客さん――」
畳の上に正座をし腰を落ち着けて間もなく、開いた居間の襖から、ひょっこりとポテトチップスの袋を片手に抱えた私服姿の辰弥が顔を覗かせる。
彼女はリーフェルトにすぐに気付いて、とても驚いた顔をした。
「貴方は二階に行ってなさい」
母にそう言われた辰弥だったが、彼女はすぐに張りつめた居間の雰囲気に気が付き、「いや……母さん」と声を上げる。
「二階に行ってなさい。終わったら呼ぶから」
「でも」
「辰弥君。大丈夫だから」
自分に気遣わしげな目を向けてくれている彼女に、それだけで十分だとリーフェルトは微笑む。
今までフォローしてくれていたのだろうか。それなら尚更、ここで彼女の助けを借りることなどあってはならない。
「心配ないから。ね?」
「……母さん」
「この子は私が呼んだんじゃない。自分の意志でここに来たの。……意味はわかるわね?」
「……――」
母に諭され、口を噤み俯く辰弥。彼女はやがて「わかった」と呟いて、二階に上がっていった。
「粗茶ですが、どうぞ」
茜はしばらくリーフェルトを待たせてからテーブルの上に湯呑みを置いてやると、彼女は彼に向かい合うようにテーブルを挟み、自身も腰を落ち着ける。
そしてようやく、静かすぎる居間の一室で小さくなっている娘のクラスメートをまっすぐ見据える。
「……僕はヴァンパイアで、本当の名前をリーフェルト・アップルガースといいます」
「私に謝りたいといったわね? 何を謝りたいのか、教えてもらえるかしら」
正座した脚の上で、両手を握りしめるリーフェルト。
掌も身体もじっとりと汗ばんでいるのに、口の中だけが喉の奥から乾ききって声が出ない。いざ謝罪するとなると、こうまで身体が震えるものだとは思わなかった。
「顔を上げて。私の目を見て」
指摘され身が強張るが、促されるままに顔を上げる。
容赦ない真剣な視線を茜に注がれ、こみ上げてきた固唾にリーフェルトの喉が鳴った。
「僕は――」
長い静寂の後やっと絞り出せたのは、情けないくらいに弱々しい声。
しかしそんなことを気にしているようでは本当に何も喋れなくなってしまいそうで、彼は続けた。
「辰弥君を、人として生きられない身体に……」
茜の目を懸命に見つめ返しながら、青ざめた顔で自分が彼女にした過ちを伝える。
そんな彼の震える唇から出てきたのは、あらかじめ何度もイメージして胸の内で練習してきた科白とはまったく違う、纏まりのない科白の羅列だった。
「僕を助けるために危険を冒して、血をくれてまで……。彼女は退魔師で、敵になるかもしれなかったのに。
そうまでして助けてくれたのに、僕は、彼女を、傷つけて……最悪、こ、殺してたかもしれ、なくて」
最初こそ緊張で枯れていた彼の言葉が、徐々に滝のように溢れだした感情に濡れていく。
「生きていても、普通の人間じゃなくなって。
体育でも、陽に弱くなって、彼女つらそうで。いつも屋上でお弁当食べてたのに、それも、できなくて……」
最近では有難いことに、陽人と小夜が辰弥とリーフェルトの方にきて昼食を共にしてくれている。
それでも、他の人間が普通にできることができない、他の人間が普通に行ける場所に行けないというのは、どれだけ不便で心寂しいことだろう。
「寿命も、違うし。今までと同じようには、もう……」
自分のしたことを言葉にすればするほどに、それは鋭利な凶器となった。嫌でもそれを拾い集めてしまう自分の耳を通って胸を刺し、心を抉っていく。
リーフェルトは両手で顔を覆い、後悔のあまり、零した。
「取り返しのつかないことを――」
精神の未熟さ故に先程まで感じていた罵倒される恐怖など、とうに忘れていた。
馬鹿なことを。なんて馬鹿なことをしたのだろう。
「償いきれなくて。父の力でも、もとに戻せない。
謝罪なんか――何の役にも立たないのに。こんなことしかできなくて……本当に、ごめんなさい……」
何故自分は生きているのだろう。それが今では不思議でたまらなかった。
何故、自分は生かされたのだろう。そんな価値などなかったのに。
泣いてすむことではない。寧ろ一番泣きたいのは辰弥の方だと、
自分の頬を流れるふざけた涙を、何度も拭って感情を堪える。
彼女は自分よりも価値があって、慈悲深く素晴らしい人なのに、
なぜ自分なんかがのうのうと、何の傷もなく、何の変化もなく生きているのだろう。
「……そこまでわかっているなら、それでいいわ」
それまで黙ってリーフェルトの話を聞いていた茜の声が、項垂れた彼の頭上から落ちてきた。
今ではどんな罵倒も、自分には相応しいと思っていたのに。心なしか、茜の声は幾分柔らかなものになっていた。
「貴方のことは、あの子から聞いています。
確かに貴方のしたことは、取り返しのつかないこと。親として、貴方に怒りを覚えないと言えば嘘になる」
「でも」と茜は続ける。
「友達の頼みとはいえ、あの子が自分で考えることをやめて、間違った選択をしたことも事実。
退魔師としても、陽人君より場数を踏んでいるにも関わらず、ヴァンパイアという強い種族を前にして油断をしたあの子にも落ち度はあります」
「……」
「一人娘に対して、厳しいと思うでしょうが。あの子が退魔師になりたいと言いだした日から、私たちは何度も言い聞かせてきました。
『退魔師の技術を叩き込むのは、貴方がなりたいと願ったから。あくまでそれを叶えてやるためであって、貴方の身がどうなってもいいというわけではないのだ』と。
たとえ守るためでも。私たちはあの子が大事にしているものよりも、あの子の方が大切だから」
一貫して凛とした口調でありながら、確かな深い愛情が痛いほどに感じられる。
「……あの子も、愚かでした。本当に――馬鹿なことを」
呟く茜に、いたたまれない気持ちになって何も言えなくなる。
この時、上手くフォローすべきだったのかもしれない。しかし自分がそれをするのは何だか間違っているような気がして、リーフェルトは長い沈黙ののち、そのまま家に帰るという選択しか選ぶことができなかった。
最初のコメントを投稿しよう!