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第2話 会話
曇天に似合う、ひんやりとした風が二人の髪を荒く乱している。
「お前、人間じゃないのか」
塔屋の上から冷静な眼差しで自分を見下ろしてくる人間は、パーカーと学校の指定制服を同時に着こなした少年だった。
喀血(かっけつ)の際、片手では受け止めきれなかった真っ赤な体液が指の間から逃げ、ポタポタと屋上のコンクリートを染めても、リーフェルトは少年から目が離せない。
自分が人外と知っても動じ臆する様子を見せない彼に、一体この少年は何者なのだろうと戸惑う。リーフェルトの前に塔屋から降り立って、少年はおもむろに、自分が落とした厚い本を拾い上げた。
……見た目はどこからどう見ても普通の少年だ。
少し色素は薄いが、日本人らしい黒髪の色に黒い瞳の、そこらを歩いている学生と何も変わらない。
「ん」
少年はある程度の距離までリーフェルトに近づき何かを差し出してきた。リーフェルトは、彼の手の中のものを凝視した。
「使えよ」
「……」
「血。そのままじゃ嫌だろ」
手渡されたのは、男子らしい青色のただのハンカチ。
「返さなくていいから」
「……いや。僕、自分のあるから……」
リーフェルトは血のついていないほうの手で制服のポケットから自分のハンカチを引きずり出し、血の付いた自分の口許や掌を拭う。
ハンカチはすぐに血まみれになり、吸収力が落ちて使い物にならなくなったが、次に少年から差し出されたポケットティッシュを大量に使用したことで、なんとか鮮血に染まった個所から自分の肌の色が見えてきた。
「……あとはもう洗ってきた方がいいな」
「……ちょっと、行ってくる」
自分は一体どうしてしまったのだろう。
特に病弱というわけでもない。持病もない。健康診断をしっかりやって、人間界にやってきたはずだ。
不思議なことばかりで疑問符だけが頭の中を回るが、とりあえず踵を返し、三年の男子トイレまで手を洗いにリーフェルトは走った。
残った血を水で洗い流し、血なまぐさい口の中を濯いでまた、階段を上がる。
ドアノブを捻り屋上に戻ってみると、穏やかな光が雲の合間から洩れ、いつもの疎ましい明るさを取り戻していた。先程とは打って変わり生徒たちが少数ではあるがちらほらと集い、賑わい始めていた。
「おーい。ガーシェル」
自分を呼ぶ声が聞こえて顔をそちらに向ければ、自分を見抜いたあの少年が少し離れた場所で、他の人間たちと向かい合って座りながらこちらを見ている。
「お前のパン、こっち」
「……あ……っ」
そこでリーフェルトは、何のために自分が屋上に来たのかを思い出す。吐血した瞬間落としたパンのことなど、先程まですっかり頭から抜け落ちていた。
リーフェルトは駆け足で少年の方へ向かう。
「ついでに一緒に食ってけば?」
「……えっ? あ―――」
「そうしなよ、ガーシェル君。私は全然いいよ!」
少年の隣で弁当を広げながらニコッと笑顔を見せてくれたのは、あの木塚小夜だ。
またその彼女の逆隣には、彼女の幼馴染だという二階堂の姿もある。
「ね、辰弥(たつや)」
「ああ。構わない」
「――だって。座れよ」
「……」
名も知らぬ少年には色々思うところはあったが、今は部外者もいる。
リーフェルトは、ここはとりあえず、促されるままに無言で三人の輪の中へと自らを投じることにした。
名も知らぬ少年と、小夜の間に腰を下ろす。
「俺は笹永陽人(ささながあきと)。同じクラスな」
「……リーフェルト・ガーシェルです」
「二階堂辰弥だ」
「よろしく」
気さくな陽人と、淡白な辰弥。
なんとも対照的な雰囲気を醸す二人だとリーフェルトは思いつつ、焼きそばパンの袋を開けた。
それから暫く他愛のない話をし、
その流れから、この陽人という少年も辰弥ほどではないが、小夜とは長い付き合いなのだということがわかった。
「本当は幼稚園も同じだったんだけど、その頃はまだ縁がなかったんだなー」
「小学生に入って、そこで陽人と同じクラスになって、そこからだね」
「じゃあ、そこから三人はずっと一緒?」
「うんっ。辰弥と陽人が仲良くなって、私も自然とそこに入っちゃった感じかな」
「すごいね。三人とも高校まで一緒なんて」
「でしょ? 本当、自分でもびっくりしちゃうくらい。
でもここって家から歩いて行ける距離だし、偏差値も丁度良いくらいだから、目指すところが被っても全然不思議じゃないんだけどね」
「……そっか」
『高校も同じなんて、本当木塚さん愛されてるよねー』
自分が教室で聞いた、遊びで小夜と付き合えば辰弥に殺されるという噂を、小夜自身は知らないのだろうか。
一方辰弥はといえば、なかなか喋らず黙々と弁当を食べているだけ。
きっと普段でも彼は聞き役なのだろう。そういえばさっきの短い休憩時間も、楽しそうな小夜の話に相槌を打っていただけのようだった。
昼食を終えた後も彼らは他愛のない話に夢中になり、チャイムが鳴り出すと次の授業を受けるため、屋上を後にしようと皆が立ち上がった。
「ガーシェル」
「……?」
名前を呼ばれ、進み始めた足をすぐに止めて陽人を振り返る。
陽人は先に教室に戻るように辰弥と小夜に言い、リーフェルトとまっすぐ向き合う。
ぞろぞろと教室に帰っていく生徒たちの中、教室に二人だけが取り残されていく。
「さっきは悪かったな。身体、大丈夫だったか?」
「……ああ、うん」
そういえば、喉の違和感はとうに消え去っていることに今更になりリーフェルトは気付いた。
あんな吐血をしたというのに、自分が至って普通に立っているのは何故なのだろう。
「つらかったら早退して休めよ。これ、お前らにとって結構ダメージ食らうみたいだし」
「……それ……」
自分の目の前に陽人が掲げたのは、あの時彼が落とした厚い本だ。
一体それは何だと聞く前に、彼は言葉短く答えてくれた。
「聖書」
「……聖書?」
「俺、退魔師見習い」
「タイマ――??」
「悪魔祓いとか、エクソシストとか、そんなん。
でもわざとぶつけたわけじゃない。ごめんな」
聖書を持っていないほうの手で自分の肩を叩き、真摯に陽人はリーフェルトに謝っている。
「……えっ?」
「じゃあ、教室行くか」
そのまま自分の横をすり抜けて教室へと帰っていく陽人に、更に困惑顔で、リーフェルトは彼の背中を見つめるばかりだった。
今日の授業がすべて終了しても、昼休みでのことが頭から離れない。
退魔師。悪魔祓い。エクソシスト――。
大抵、人間は魔の存在に無関心だが、
稀に、魔に対抗する術を身に付けている人間もいるという。
しかし、信仰の薄れたこの日本の現代。
あまりに希少な存在になっていると聞くのでまあ安全だろうと言われていたし、自分にはまったく関係のない話だと思っていた。のにだ。
(……まさか留学して、一週間で塵になれ、とか……?)
机の中の荷物を通学鞄に詰め込みながら、嫌な予感が胸に兆(きざ)す。
が。すぐに「いやいや」と頭から悪い考えを振り払った。
彼――笹永陽人は、自分を退魔師見習いだと言っていた。
それに比べて自分はヴァンパイア。
ヴァンパイアといえば知らない者はいない、魔の中でも高い地位にいる種族だ。
容易に手を出そうなど、そんな身の程知らずなことはしないだろう。
(そうだ、大丈夫さ。
何を気にかけることがある。僕は誇り高いヴァンパイア王の――)
「ガーシェル」
考え事をしていたリーフェルトの、意識の端を何者かに掴まれた。
「……! は、はい……っ?」
それに引っ張られるままに首を動かした先にいた笹永陽人に、びくりと彼は肩を強張らせて敬語で応えてしまう。
しまった。
まるで自分が人間に臆しているような、変な声が出てしまった。
「一緒に帰ろうぜ」
「……えっ!」
「嫌ならいいんだけどさ。ほら、色々聞いとかなきゃならねえしさ。……まあ、職業的に」
「い、いいけど……別に」
「サンキュ。ちょっと、聞いたりするだけだから。事情とか」
「……」
周囲に聞こえないように小声で言ってくるあたり、自分が退魔師だということは周囲に内緒にしているのだろうか。
もしそれなら都合がいい。自分も人間ではないと、留学先では極力バレたくはない。
……とはいえ。
(……いいだろう。こうなれば乗ってやる……!)
顎を引き、キッ、と自分に背を向け教室を出ようとする陽人の背に、挑むような目を向けるリーフェルト。
自分だって、純粋な血統を持つ吸血鬼なのだ。
人間の退魔師見習いなどにナメられては王家の恥。
(堂々と、どんな質問にだって答えてやろうじゃないか)
肩越しにこちらを見てくる陽人の視線を受け、リーフェルトは彼の背中について歩きだした。
「……へえ。じゃあお前って、ヴァンパイアのとこじゃ王子なんだな」
「まあね」
帰りがけに寄った公園の長椅子に座り、
陽人の奢りのジュースに口を付けながら質問に応える。
それにしても自動販売機で売ってあったこの紅茶、これはこれでなかなか悪くない。
「すげえな。異界にはるばる留学って」
「王家の血をひくなら、人間のことを学べというのが父上の教えだ。
人間を糧にし生きる者なら、人間を理解しろ――と」
「そうか」
同じ横椅子に座って、リーフェルトと同じように、一口ジュースで喉を潤してから陽人が相槌を打つ。
「……なあ、ガーシェル、さ」
「?」
「お前さ。まだ半人前なんだろう?」
「……!?」
さりげない、さらりとした口調で突かれた図星。
まさか見抜かれるとは思っていなかったリーフェルトは凍りついた。
「な……なんで……!?」
「俺の聖書は一人前か半人前か見分けることができる。
強制的に魔を、魔力を使ったときの状態に変えてな。んでお前、目の色青色だったし」
「――」
絶句するリーフェルト。
何故なら、先程から彼が心の片隅で懸念していたのは、陽人にそれを知られることだったからだ。
古くから存在している魔の種族には、一人前になるための風習や掟がある。
たとえば、人間の血の味を知り一人前だというのが、リーフェルトたちヴァンパイアの種族の風習であるように。
長い年月、人間の血を最高の糧とし自分の身体に取り入れるという行為を繰り返してきたヴァンパイアたちにとって、吸血とは本能。
人間の血の味を知ってヴァンパイアの本能を刺激することで、血の味を知る以前より強い力を手にすることができる。
つまり。
半人前である今のリーフェルトは戦闘力も平均以下で、
年齢的な意味だけではなく、すべてにおいてまだ赤子同然と言いきっていい。
「いや、そんな、ショック受けんなよ。
お前の年齢じゃあまだ仕方ないだろ?」
「……そうだけど」
敵から励ましのような言葉を貰い、少し屈辱的な気分になるリーフェルト。
自分の戦闘力が大したことないということまで見抜かれては、打つ手はかなり限られてくる。
いや。まだなんとかなる。
幸い相手もプロというわけではない。陽人の精神を操って、なんとか卒業まで漕ぎつけられれば――
「人間の血を飲むって、どれくらいだ?」
「……? どれくらい……??」
「相手が干からびて死ぬまで飲むのか? それとも、一口でいいのか?」
「……それは、さあ、どうだろう。人間の血の味を知ることが成人の条件だとしか、具体的にどこまでなんて聞いたことがないから。
ああ。でも、人間をヴァンパイアにするなら途中で止めるかな。
糧とするんなら、一滴残さずだろうけど」
「糧は人間でなきゃ駄目なのか?」
「まあ……一人前になるなら、人間の血じゃないと」
「……」
突然、何も言わなくなった陽人。
一体何がいいたいのかと妙な気持ちが芽生えて目をやれば、リーフェルトの瞳に真剣な陽人の横顔が映る。
まるでなにか、考え込んでいるようだ。
そして暫し陽人は思案した後。
何か、「閃いた」といったようにパッと顔を上げ、自分と目を合わせる。
「じゃあ留学中、こっちで彼女を作ってヴァンパイアにして連れ帰るとか」
「……は??」
「勿論、相手から同意をもらって」
「何を言ってるの?」
「だってお前、いつかは一人前にならなきゃいけないんだろ?」
「?? そうだけど」
「人間が嫌いだとか、いたぶりたいとかそういうので襲ってるわけじゃないんだろう?」
「ちょっと待って。さっきから君は何を言っているんだい?」
退魔師とは人ではないものを倒す存在ではないのか。
そんな人間が、何故提案など持ち出してくる。
しかも口調はどこまでも友好的で、自分に和解を求めているかのような――まさか。
「一応聞くけど。笹永君は僕と戦う気があるの?」
「ないから今交渉してるんだろ」
「――」
即答で返され、リーフェルトは再び言葉を失ってしまう。
(……なんだこの人間は)
陽人の顔をただ凝視し、戸惑う。
「和解して済むなら、それに越したことないだろ。
……お前たちヴァンパイアの話は、師匠から聞いたことがある。
その話の中には人間と結ばれて、その人間を自分の世界に連れ帰ったヴァンパイアの話だってある。
それでヴァンパイアも人間も幸せになれるなら、何も言うことはない。違うか?」
まっすぐ自分を見据えてくる、その黒い双眸。
そこから窺える感情も、どこかまっすぐなように思える。
素直に胸に入ってくる、静かな真摯さ。
屋上でハンカチを渡してくれたときや、ポケットティッシュを貸してくれたとき。
聖書を落としてしまったことを謝ってくれたときと同じ瞳をしている。
奇妙な人間と出会ってしまったことを改めて強く感じ、思考がよく纏まらない。
その一方で陽人はジュースを飲み干して立ち上がり、
それをゴミ箱に投げ入れて「まあ」と言い、
「お前にとって難しい提案だろうし。だから、すぐに決めろとは言わない。
ただ少しだけ、考えてみてくれ」
陽人は椅子の上に置いた自分の鞄を肩に担ぐように持ち上げリーフェルトを見下ろす。
本当に彼は見習いとはいえ、魔と対峙する退魔師なのだろうか。
そんな疑問が生まれてしまうほどに、自分を見る彼の表情は穏和すぎる。
「じゃあ、また明日な」
普通の人間のクラスメートを相手にするような調子の声で。
隙だらけの背中を自分に見せながら、彼はリーフェルトを置いて公園を後にしていった。
殺そうと思えば殺せる。
血を吸おうと思えば、できるかもしれない。
そう思ったが、それを今実行することになんのメリットも見つからなくて、
リーフェルトは結局横椅子に座ったまま、消えていく陽人の背中を見送った。
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