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開かれた扉の先の玄関は、他人の家だからなのか、それとも一軒家だからか、なんとも殺風景にリーフェルトの目に映る。
「……お邪魔します」
靴を脱いで上がるとすぐに踵を返し、脱いだものを揃える。しゃがみ込んだ自分の頭の上から、辰弥が鍵を閉める音がやけに大きく、沈黙の中響き渡った。
――ここは辰弥の家。
陽人ではなく、何故か彼の世話になることになってしまった。
「まず、手を洗ってうがい」
「……えっ」
「基本だ。外から帰ってきたら、手を洗ってうがいをする」
「あっ、はい……」
洗面所に先に入り、辰弥がやることを横で見て記憶し、自分の番になるなりそれをこなす。
「君、包丁を握ったことは?」
ハンカチで濡れた口を拭っていると、
変わらぬ淡白な調子で尋ねてくる。
「……いや、まったく」
「そうか、なら今日は隣で見ているといい。
まずは下ごしらえをしよう」
台所とテーブルが置かれた部屋に案内され、シンクの角のほうに立たされる。てきぱきと必要な道具や野菜を並べてから、辰弥は早速料理を開始した。
「何を作るの?」
「煮魚と味噌汁と、あと適当だな」
「魚……味噌……」
思えばきちんとした手作りの日本料理は初めてだ。一体どんなものなのだろうかと、想像もつかない気持ちでとりあえず見守ることにした。
暫くして、寄りかからんばかりに身を乗り出して見入ってくるリーフェルトに、辰弥は途中で手を止めてから「近すぎだ」と短くぼやく。
「あ、ごめん――」
「……バランスを崩してこけたりしたら、危ないから。少し離れていろ」
「うん」
素直に彼から少し離れて、その手つきを静かに見守った。
白米、メインの煮魚と、味噌汁、サラダ、あと小皿に乗った小さな副食が二つ。
自分の前に並べられた食事を物珍しくまじまじと見つめるリーフェルトの前でテーブルを挟み、辰弥が手を合わせて「いただきます」と呟く。
「……いただきます」
辰弥を真似して、自分もその台詞を口にしてみる。
思えば陽人も小夜も、ハンバーガーを食べに行った時食べる前に同じことを言っていたので、きっと人間界の作法なのだろう。
リーフェルトは辰弥が食事を口に運び出したのを確認して、早速煮魚に箸を伸ばした。
「……! 美味しい」
「口に合うか?」
「うん。お店で買って持ち帰ったお寿司も美味しかったけど、これはこれですごく美味しい」
「そうか。でも少しずつ食べろよ。骨はあらかじめ取り除いておいたが、小骨がところどころ残っているかもしれない。もし硬いものがあったら無理して飲み込まず口から出せ」
「わかった。……あっ」
ふと思い出して、食卓から顔を上げ壁にかけてある時計を見上げる。
しまった――この時間、すっかり忘れていた。
「ごめん。ちょっとテレビ見ていい?」
「……構わないが」
「ありがとう。リモコン借りるね」
心持ち少し急ぎながら、辰弥の家のテレビを付けるリーフェルト。
しかしチャンネルを変えた後、想像していたものとはまったく違う映像が目に飛び込んで、「あれ」と首を捻って疑問符を飛ばす。
「このチャンネルじゃなかったっけ――」
「……見たいものでもあるのか?」
「うん。でも今日、やってないみたい」
念の為他のチャンネルも見てみるが、期待していたものはまったく映らず、リーフェルトはがっかりと肩を落とした。
「何が見たかったんだ」
「鈴木動物園」
「ぶふっ」
何か噴き出すような音が聞こえて振り返れば、辰弥が冷たい茶の入ったグラスを片手に、口許を抑えて他所を向いている。
喉に詰まらせたりでもしたのかと思い心配してみれば、彼はクールにかぶりを振って、何回か咳払いした。
「……動物が好きなのか」
「一番好きなのは鳥なんだけどね」
「そうか。まあ、この人間世界を楽しんでいるようで、何よりだ」
期待する番組が見られないなら仕方ないと、リーフェルトはリモコンを操作しテレビの電源を消す。
何せ折角作ってくれた食事だ。
興味のない番組に見入ってわざわざ冷ます理由はない。温かいうちに食べたい。
温かい味噌汁に箸の先を入れて小さなキノコを噛み砕き、そのままスープを飲み込んだ。
(――あれっ)
「……『人間社会』……??」
「遅いぞ、反応が」
先程の発言からたっぷり間を置いて、リーフェルトが驚いた顔で味噌汁から顔を上げたのに、辰弥は心底呆れた顔になる。
「先に言っておくが、食事に毒は入っていない。
ずっと隣で見ていたのだから、それはわかるだろう」
「……まあ」
「陽人が退魔師だと君は知っているんだろう? そして僕は、陽人のパートナー。魔と人間の混血だ」
「! 混血……」
「人間社会の中で生まれ育ったので、魔としてはまだ半人前だけどね」
眼鏡を外し、ゆっくり見開かれた辰弥の瞳。
黒い瞳に青い光が灯り、人間ではない証拠をリーフェルトに見せつける。
「君は陽人を警戒していたようだから、僕の家に来てもらった。魔の力をひいている分、彼より僕の方が君の力になれるだろう」
その言葉にリーフェルトはようやく、放課後の辰弥の言動に納得する。
陽人の家に世話になるか迷っていた自分に、辰弥が突如「自分の家ならどうだ」と提案してきた記憶が頭に蘇る。
あの時はただ、辰弥がそんな提案をするような男子だと思っていなかったために意外だったが――。
「……ごめん」
陽人は陽人なりに自分に対し警戒心もあったのかもしれないが、それだけがすべてじゃない。
それにどこか気付いているからこそ、自分が陽人を信じ切っていないことを見抜かれて、気まずいような、後ろめたい気持ちになる。
しかし辰弥は言う。
「仕方がないさ。いつ自分の敵になってもおかしくないような奴に甘えろなんて無理な話。しかも君は単身、味方もいない。知らない世界でさぞ心寂しいだろう」
「疑いたいなら心ゆくまで疑えばいい。陽人だってそろそろ見習いの肩書きを外していいくらいの退魔師だ。君の気持ちが理解できるくらい色々見てきているから、君がどんな感情を抱いていたって気にしないさ。
放課後入った店の時のように、お節介が過ぎて距離が近すぎるなら直接言ってもいいだろう。ただあいつはあいつなりに、退魔師として長く戦っていけるやり方を自分なりに探っているのさ。非情になりきれないからな」
彼の話に耳を傾けてから、リーフェルトは食卓に目を落とし、暫し考える。
陽人とこの先どう付き合っていきたいのか、それは未だによくわからない。良い奴なのだろうとは、思うけれども。
「勿論それは、僕に対しても同じことだ。何を信じようと疑おうと、君の心は君だけのものだ。素直にしていればいい」
「……うん。ありがとう」
食後。片づけを少し手伝ってから、リーフェルトは家に帰った。
別れ際、お礼にと差し出した一万円札はどれだけ粘っても最後まで受け取ってもらえず、結局財布の中からは五百円玉だけが一枚消えた。
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