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アイジマのデスクはキョウスケの隣で教えやすくはなっているのだが、席についてキョウスケはどうしていいかわからず「えっと」を無駄に繰り替えした。
「やっぱり忘れてるよね、キョウスケ君」
いきなり下の名前で君付けをされてさらにキョウスケはわからなくなり、新手のストーカーかとも思った。今まで大きなトラブルをおこしたことはなかったが、と無駄に飛躍した想像をしてしまう。
アイジマは親しみを込めてキョウスケを見てくるがやはりキョウスケはこの顔に見覚えがない。こんなモデル体型のイケメンなんて自分の友達にいなかったし、同級生でもない。
「あの、さ。とりあえず、仕事教えてもいいデスカ」
含みと期待を込めたまなざしを送ってくるアイジマにぎこちなく告げる。気味が悪いが今はアイジマの正体を聞き出す時ではない。というかなんとなく怖かったのだ。
知らない相手が自分を知っているということも気味が悪いが、アイジマの視線がなんだか妙なきらめきを持っている気がした。そのきらめきは今までキョウスケが男から受けてきたことがないような、まるでそれは。
「そうですね、今は仕事中ですもんね。すみませんでした」
「じゃあ、説明するけど」
愛想よく返事をするアイジマにキョウスケは仕事を教え始める。思っていた通りメールの打ち方や電話の取り方などは問題なかった。教えるのは本当に仕事内容のみで済んだので、オリエンテーションは一時間ほどで終わりあとは実践で仕事をしてもらった。
時々質問を挟みながらもアイジマはそつなく仕事をこなした。仕上がった資料などはキョウスケが確認し、訂正が必要なところは指摘したがミスは殆ど見当たらなかった。
初日でこれだけできるなら早々にキョウスケの役目は終わりそうだ。それならそれでありがたい。
とはいえまだ出勤初日なのだ。キョウスケは丁寧にアイジマに仕事内容を教えていきどうにか午前中をやり過ごした。
十二時に一気に休憩に入る社員たちはそれぞれ弁当を広げるなり、外に食べに行くなりしている。
「じゃあ、これから休憩だから昼にまた仕事を教えるよ」
「はい。ありがとうございます。午後もよろしくお願いします」
同じ年であるけどそこになれなれしさはなく丁寧に接してくるアイジマ。仕事をしながら考えていたがやはりアイジマのことは心当たりがなかった。
自分が薄情なのかそれともアイジマの勘違いなのか。迷っていたがキョウスケは思い切ってアイジマに訊いた。
「あのさ、どこかで俺と会ったことあるの?」
思い切って訊くと離れたところでエイコが見守っていることに気が付い た。エイコは仕事で使うファイルを整理しながらこちらをうかがっている。
アイジマは一瞬顔を複雑に緩めた。少し遅れて気が付いたがそれは緩めたのではなく、泣きそうになったのを必死でこらえたように見えた。おそらくそうだ。瞳がかすかにうるんでいる。
もしかして過去に自分はとんでもないことをアイジマにしたのだろうかと不安になる。しかしアイジマは「よかった」と今度こそ笑顔を見せた。
その笑顔は多くの女性の心を惹きつける魅力をもっており、芸能人並みに整ったものだ。男のキョウスケでも思わず目を奪われてしまう。
「もう忘れていても当然だとは思います。僕たち10歳の時に会ってるんです。覚えてないですか?キョウスケ君がおばあちゃんのところに遊びにきていて、それでほら。一緒に蛙とか捕まえてたじゃないですか」
キョウスケはそう言われて必死に記憶の引き出しを開いた。子供のころの記憶はすでに整理してだいぶ処分している。必要なものだけ残しているのだがその中にアイジマとの思い出はない。
しかししばらくしていると断片が見つかった。小さな付箋のようなかけらだがそこに名前も覚えていない少年と母方の実家で遊んだような思い出が描かれている。
季節は夏だ。そうだ、夏休みに一人で母の実家に遊びに行ったのだ。一人暮らしをしている祖母がいる田舎は何もなかった。田んぼと山以外のものは車で十分はかかる距離にありある程度のものがそろったところでくらすキョウスケには珍しいところだった。
田んぼには蛙がたくさんいて、それにオタマジャクシもいた。小川にはザリガニがいてそれをよく捕まえた。
いつも一人でいたが祖母の家に泊まって三日目に、確か自分と同じ年の子が同じく近所の家に家族とともに帰省してきたのだ。たしか、そうだったはずだ。
祖母がその近所の人と仲が良くそれで出会ったのだ。その子に。そして短い期間だったが毎日のように遊んだ。
なんとなくだが記憶がよみがえってきたキョウスケは「じゃあ、もしかしてあの時の子?ってこと?」とまだ断言できないまま訊く。遊んだ記憶はなんとなくよみがえってきたが、アイジマかどうかはかなり怪しい。何せ子供のころの話だ。顔すら覚えていないのだから今目の前にいる人物かはわからない。
だがアイジマは激しく首を動かしながらうなづく。
「そう!そうです。思い出しましたか?」
ものすごく期待された目でそう聞かれるがキョウスケはあいまいな笑みを浮かべて「うん、まぁ、なんとなく」と答えた。はっきりとした答えを言うほど思い出していない。本当にうっすらだ。霧がかかったような記憶が思い出されただけで、確かな感触はない。
「でもすごい偶然だな。会うなんて。この辺が実家?」
キョウスケは地元を離れていなかった。大学は他県で一人暮らしをしながら通っていたが、就職を機に地元に戻った。大学も一人暮らしも楽しかったがずっと続けることを考えると親や友達や土地勘があるところの方が住みやすいと思った。
ここは都市部ではない。どちらかといえば地方で田舎の部類にはいるから他県からやってくるということは考えにくいのだ。
しかしアイジマは首を横に振った。
「県外からきました。この会社に来たくて一度地元で実力をつけてから来ようって決めてて。でもやっとここに就職できました」
やる気のある発言ではあるがこの会社は特別優秀な人材がはいる会社ではない。大きい会社でないのは確かだし大企業の下請けていどの会社だ。年収は悪くはないが高くもない。安定している会社ではあるが特別ここで働きたいと思ってくる人はいない。
「はぁ」
気味の悪いものをみるように返事をする。キョウスケはただなるべく入りやすそうな会社という意味でここを選んだので、正直なところそこまで愛着があるわけではない。やりがいも求めていないので目を輝かせながら話すアイジマの気持ちがわからなかった。
よほどここの会社が気に入っているのだろうか、と思っているとアイジマはキョウスケの耳に口元を寄せて言った。
「ずっと会いたくて、あなたに」
吐息がかかるほどの近さだったのでキョウスケは勢いよく身を引く。
耳の中を甘く流れてくるその声はまさに恋愛感情が含まれたものだったからだ。どんなに鈍くてもわかるその糖度はアイジマの顔にも出ていた。
一体自分に何が起こっているのか驚いて固まるしいないキョウスケはアイジマの目的を探ろうとしたが、踏み込んではいけないと自然と踏みとどまってしまう。
この男は一体何を言っているのだろう。男の自分に。男同士なのにどういうことなのだ、と考えるがそれ以上のことが思い浮かばない。
「あの、えっと。それってどういうこと?」
「僕はあなたに会いたくてここに働きに来たんです」
「それは、つまり?」
キョウスケは再び聞く。思考が停止しているのかそれとも自分が思っているよりもかなり早いスピードで進んでいるせいなのか、アイジマの真意が全くつかめないでいた。
するとアイジマは今度は真正面からキョウスケを見てさわやかな笑みを浮かべて言った。
「僕はあなたが好きです」
彼はただそう言ってこの会社を選んだ目的を言った。その言葉はひどくシンプルだったが今までにないくらい鋭くキョウスケの胸を突き衝撃を与える。喜びや気味の悪さなど感じない不思議な感覚が胸にまとわりつき、キョウスケは体一つ動かすことができなかった。
見守っていたエイコも驚いた顔をしている。それだけがやけに現実味を帯びていて目の前にある事実から距離を置きたいがためにすがりたい気持ちでいっぱいだった。
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