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「あなたは私の男なんだから、言い寄ってきたやつに言うのは当たり前じゃない」
ドラマに出てくるような姉御肌なセリフを言われキョウスケは思わずはっと息をのんだ。付き合って長いとときめくという感情は忘れてしまうものだが、不意にこういうことを言われると惚れ直すのは当たり前のことだった。
そして自分のにぶさにあきれる。エイコは気が強い女だ。自分の周りに何かよからぬ変化をもたらせる存在があるとどんな相手でも自分の主張を告げるのだ。
もう辞めてしまったが以前勤めていた上司の女性社員へのセクハラがひどく、その時エイコが社員の前でその上司にきつく忠告をしたのを思い出した。
「ここまで言われたら僕は手が出ないですね。ははは」
他人から見ればただただのろけているカップルだ。アイジマはそれをからかうこともなく困ったように笑いそしてビールを一口飲む。
「でも、全くチャンスがないってわけじゃないですよね」
その言葉を聞いて飲みかけていたビールを吹き出しそうになるキョウスケ。すんでのところで耐えて軽くむせてアイジマに視線を向けた。ふざけているようには見えない。それもそうだ。何十年も前に知り合っただけなのに社会人になりわざわざキョウスケが勤めている会社に入社してくるのだから。ふざけた物言いは多分これからもしないだろう。
「それはまぁ、そうなるけど。でもキョウスケはいわゆるノンケよ。あなただって知ってるんじゃないの?」
「ええ、それは百も承知ですよ。でもそれでも僕はキョウスケ君が欲しいですね。ミタニさんから奪ってでも」
「できるものならね」
キョウスケを置いて二人の会話は徐々にお互いの気持ちで熱を帯びていた。なんとも言えない気分だった。
今まで同性に告白されたことなどなくキョウスケ自身が同性にときめきを覚えたこともない。「あ、こいつかっこいいな」ということはあるがそれはドラマで芸能人を見た時などただ単に容姿を評価した時だけだ。それ以外はない。友達に対してすらも。
人に好かれて悪い気はしないにしてもその好くという感情が恋愛感情なのは戸惑って当然だった。
キョウスケはさっきまで言い合っていた二人が一緒にメニューを見始めたのを奇妙に思いながら「あのさ」と小さい声だ言った。
二人はキョウスケを見て視線だけで「どうしたの」と聞いてくる。
「アイジマには悪いけど俺は、気持ちがゆらぐことはないよ。どう答えていいかわからないけど、俺はお前にたいして恋愛感情を持つことはないからあきらめてほしい。それにエイコのこと大切にしたいし」
最後の方の声は消え入るような声になっていた。エイコのように自信満々にいうことはどうしても恥ずかしさが勝ってできない。
それでも本心だった。結婚のことまで考えているのだ。いい加減な気持ちは無い。
だからアイジマはチャンスがあると言っているがキョウスケ自身はチャンスも何も、心変わりすることは決してないと断言できた。万が一にもエイコと別れることがあったとしてもアイジマのことを好きになるということはまずない。
「俺がお前を好きになることはないよ」
わかりきっていることを言うのは居心地が悪い。それが相手を否定することだったらなおさらだ。だがきちんと伝えなくてはそれこそ誠意がないことになる。
「それは、はい。わかっているんですよ。僕も。でもまったくチャンスがないわけではない気もするんですよね。実際僕、ノンケの人を落としたことあるんで」
細められた瞼の奥で瞳が怪しく光る。そこから発せられる熱い何かがキョウスケの周りを包んだ。身動きが取れなかったがその視線に惹かれていない自分にほっとした。
「へえ、すごいじゃない。その人とはどうなったの?」
横にいたエイコが堂々と質問する。本当にこういう時は強い女性だなとキョウスケは感心した。
「ちゃんと付き合いましたよ。でもその人女性相手よりこっちのほうが相性が良かったみたいで。その、性欲的なものが。僕とは半年くらい付き合っていたんですけどゲイバーで知り合った人に抱かれて、それを機に別れました」
「浮気ってこと?」
「ああ、まあそういう感じですね。でも僕全然怒れなくて、ちょっと申し訳ないなとも思うくらいでした。こっちの世界に引きずり込んだんで」
「でもその人男性相手の方と相性が良かったんでしょ?だったら楽しく生活できるじゃない、これからも」
エイコは気楽なことを言うがキョウスケは心の中で「いや、そうでもないだろう」とつぶやいた。知ったような口を聞くのは良くないが、きっとその人はもう。と思ったところでまるでキョウスケの心を見透かしたようにアイジマが首を横に振った。
「確かに快楽だけ求めれば充実した生活を送れると思います。でもいずれ虚しくなるもんなんですよ。どんなに相手を好きでも体の相性がよくても結婚はできないし、子供ももてない。それにまだ同性愛について理解がある人は少ないです。ばれてありもしないことを噂されたら仕事をするのも生活するのも難しくなります。楽しいだけは一瞬ですよ。僕はもともとこうだったし、覚悟はできているんですけどね。でも途中で目覚めた人っていうのはやっぱりその分準備ができていないっていうかなんていうか。だから引きずり込んで申し訳なかったかなって最近思っているんです」
そこには確かに後悔の念があった。話が始まった時はもしかして気を引くためにわざとキョウスケに話しているのかと思ったが、アイジマの表情を見ればそうではないことがよくわかる。
まだアイジマと仕事をし始めて一か月が過ぎようとしているが今日初めて性格の端がつかめた気がした。真面目でどんな相手にも誠意がある。ただ自分が叶えたいことのためなら無理そうなことでも行動する大胆なところもある。その元ノンケを落としたところがいい例だ。
「でもそんなに好きだったんだな、その元ノンケのこと」
キョウスケがそういうとエイコとアイジマはきょとんとした顔をした。二人にそんな顔をされ「な、なんだよ」と思わず聞く。
するとエイコが深いため息をつきそしてアイジマは「キョウスケ君らしい」とクスクスと笑った。
わけがわからないままキョウスケはエイコに視線を向ける。するとエイコはキョウスケの肩に手を置いて言う。
「あんたを落とすためだってば。練習、ってやつでしょ?」
「はい、ミタニさんの言う通りですよ。ノンケの人を落とすにはどうやったらいいのか研究しただけです。だから余計に申し訳ないなって思って」
アイジマは冗談っぽく事実を言う。その時の瞳はキョウスケだけを見ていた。そしてキョウスケもその瞳だけしか目に入らなかった。
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