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「妙なことになったなぁ」
「え?何が?」
キョウスケはエイコの部屋に泊まりにいていた。アイジマの視線が頭から離れず、一人でいることが耐えられなかったのだ。
エイコは風呂から出たばかりで髪の毛をタオルで拭きながら今もうなだれているキョウスケを見た。
「アイジマのことだよ。俺の気持ちを伝えたはいいけど、正直このまま引き下がるとも思えないんだよな」
「それはそうでしょ。だって彼は本気だし。なによ、まだ引きずるつもり?」
「まだってなぁ、そんな」
キョウスケはソファに寝転がっていたが体を起こしてエイコを見た。
エイコは冷蔵庫から炭酸水を出して飲んでいる。後ろ姿を見せているが彼女がいらついていることに気が付いていた。言葉や態度に出ていないがイラついている感じはよくわかる。さっきまでキョウスケのことを渡さないだのと言っていた姉御肌はどこかに行っていた。
どうして機嫌が悪いのかわからず慎重にキョウスケは聞く。
「やっぱりいい気はしないって感じか?」
するとエイコはしっかりとした熱をもった瞳でにらんだ。その熱は明らかに激しい感情の時に見せるときのものだ。うねりながらこちらに向かってくるようだった。
「そんなことよりも、ねぇ、一体いつ籍入れるの?」
いきなり結婚の話になると思わずキョウスケははじめ何を言っているのかわからなかった。アイジマのことじゃなかったのかよ、と思わず言いそうになったがそれを言えば何かが音を立てて迫ってくる気がした。
エイコの声はいら立ちをどうにか抑えようとしている声だった。だが抑えきれていないので怒りの端がしっかと顔を出している。
「そりゃ、近いうちだよ。近いうち。なんだよいきなり。何焦ってんだよ」
「焦ってんじゃなくて、もうだらだらするのやめようってことよ。私だってもう二十代後半に入るんだから」
「まだ若いだろ。俺なんかアラサーだぞ」
「男はいいでしょ別に。子供ができても産まないんだから」
「は?なんだいきなり子供・・・」
そう言ってキョウスケはエイコがどうして怒っているのか勘づいた。そういえばアイジマとの会話の中で自分で子供の話題に触れていた。何気なく言った一言だ。忘れていた。
いきなりバツが悪くなりキョウスケは黙って姿勢を正してソファに座った。
エイコはキョウスケがやっと気が付いたことに「鈍いわね」と言った。
「あれは、もしかしたらの話だろ。別に今すぐってわけでもないし、子供だってできるかなんてわからないし」
「子供、欲しくないの?」
「今は欲しいとかの問題じゃないだろ。まずは結婚してからそれでエイコだって仕事の兼ね合いがあるし」
「じゃあ、いつ結婚するのよ。子供を産むのは私なんだよ」
「なんだよいきなり。何苛立ってんだ」
我慢できなくなりキョウスケは強い口調で言った。普段エイコに強くものを言うことはないが一方的に言われてはさすがにこらえることができなかった。
エイコはそこで一度口を閉じてまた「私、もう二十代後半になるよ」と言葉を落とすように言った。
なんでそう年齢にこだわるんだとため息をつきたくなったがそこはこらえた。怒りのこもったため息をつくと余計にこの場の空気が悪くなる。
「大丈夫だって。今は三十代になってから結婚する人も多いだろ。エイコは充分若いんだから年齢のことは気にしなくていいだろ」
「そうだけど、でも子供を産むことを考えたらちゃんと計画的にことをすすめたほうがいいよ。三十代になったらもし二人目を産むにしても高齢出産になるじゃない。それだったら障がいを持った子が生まれることだって可能性としては高くなるし、それでもいいの?」
突飛な話としか思えなかった。まだ結婚すらもしていないのに二人目の子供のことを言われてもキョウスケにはわが身のようには考えられない。
未来のこととして考えるのも難しかった。
「それでもいいのって言われてもさ。仕事はどうするんだよ」
「どうするって、続けるわよ。やめてほしいの?」
「そういうわけじゃないけど、今みたいにできるわけじゃないだろ。多分。現実的考えると」
「セーブしろってこと?」
「必然的にそうなるだろ。子供ができたら。エイコが休んでいる間俺が働くんだし、それ以降も育休とるだろ。そりゃ俺だってとるけどエイコみたいにずっとは取れないよ」
働いている会社はブラック企業ではない。必要な休みは与えてくれるが働いているときと同等の給料を出してくれるわけではないのだ。一か月ほどならともかく何か月も休み続けることはできない。エイコはわからないがキョウスケは充分という貯金をしていない。それを考えるとすぐに働くに越したことはない。
一人が働けない分確実に稼がなくてはならないのだから。家族を養うことを想像すると肩に見えない重りがのしかかる。
でもアイジマはこういう経験は簡単にはできないんだろうな。不謹慎ながらキョウスケは同性愛者のアイジマをふと思った。
今日本では法的には同性同士の結婚は認められていない。それは当事者たちにとっては苦しいことなのだろうが、キョウスケから見れば男女のこういうしがらみから解放されているという気持ちもある。
一人心地で考えているとエイコの反応が返ってこないのでなんとなくそちらを見た。
エイコはあきらかに気に食わないという表情をしていて毒を飲み干したように顔色が悪かった。
「それは、そうだけど。なんだか私にばかり割を食わされている気がする。私も働き方については考えているけどセーブするつもりはないわ」
「それはいいけど、でも体のこととか俺だって育児には協力するし二人で育てようとは思うけど。でもわからないだろ、今は。どうしてそう急ぐんだよ」
「なかなか話をすすめないからでしょ。結婚の話が出てからどれくらいたったと思ってるの?」
話が戻った。とただ思った。キョウスケの中で一気に今目の前にある話題の関心が冷めていく。ここで話をしても何も進むものはない、と言い放ちたいがそう放てば二人の中に亀裂が入るのは目に見えていた。
キョウスケはそこから口をあけることすらできなくなり、おもむろに立ちあがってカバンを取った。
「今日は帰るから」
このまま泊まるつもりだったがこれでは居心地が悪すぎる。帰ったほうがお互いにいいだろう。そういえば以前同棲の話も出ていたが、今のこの状況になってしていなくて良かったと思った。こうして物理的にも距離を置くことができるのだから。
風呂にも入っていないことだし外に出るのも億劫ではない。
「そのほうがいいかもね」
エイコの声は思っていたより冷静だった。そして疲れが混じっていた。エイコ自身の中で何か深刻なことがあるのかもしれない。それはいくら付き合っていても気が付いたり触れたりできるものではないのかな、と思った。だがそう思うことがとても無責任な気もした。結婚となればこれからすべてを共有して生きていくようなものなのに。
「じゃあ」とも「またな」ともいうこともなくキョウスケはエイコの部屋を出て、夜の空気の中に潜る。どの家も電気などついていないし道端にある電灯さえ心細さを感じる明るさだが、それくらいの方が今はちょうど良かった。
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