ただ、今は

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ただ、今は

 思いが実らなくても一緒にいられる生活があれば僕はそれでよかった、はずだった。  「バレないかな」  キョウスケの目の前にいる恋人のエイコは仕事中に乱れた髪を整えながら言った。なぜか給湯室には鏡があってそれを見ながら髪を整えるのは給湯室に来た時にするエイコの一連の動作だ。  付き合って三年になるキョウスケはよく知っている。  大人二人がはいると身動きを取るのも難しいその場所は、オフィスのすぐ隣にある。二人はときどき仕事中に給湯室で待ち合わせてなんでもない会話をしたり、たまにキスしていた。もちろんそれ以上のことはしない。  給湯室にはドアというものがなく通路の壁が途中でへこんだようにできている部屋なので、人が通ればすぐわかる。  そんなところで逢引きをしなくても、と思われるがこうしてこっそりと会うということが二人は好きだった。童心に戻るのだ。  「バレないだろ。多分」   エイコが言っている何が「バレないか」というのは二人が付き合っているということと、こうして仕事中に二人で会っているという二つの意味が込められている。  社内恋愛が禁止ではないにしても狭い会社でプライベートなことがばれると気まずいものだ。茶化す人間はいないにしても付き合い始めた当初から二人は細心の注意を払っていた。  お互いに誠意ある交際をしているがもし会社の全員に知られ、結果別れたとなってはあまりにも後味が悪い。大人だからと仕事上では割り切った付き合いができるにしても、見えないからこそ気まずい空気というのは取り扱いが難しいのだ。  別れた時の周りの気遣いも簡単に想像できるので二人だけにとどめておけば気まずさはずいぶん違うものになるはずだ。  「でもま、今はもうばれてもいいだろう。今度母さんが休みの時に一緒に映画に行くんだろ?」  母さんというのはキョウスケの母親のことだ。エイコは「あ、そうなの」と楽しそうに表情を明るくした。  「おかあさんと観たい映画が重なってさぁ。キョウスケは好きじゃなさそうだからいいよね?」  エイコが見たいと言っていた映画は流行りのイケメン俳優が主演で性的なシーンが多い内容だと聞いている。そういう映画も全く見ないわけではないがどちらかといえばアクションものだったりパニックホラーを好むキョウスケの好みには合わない。  それにエイコは映画の内容よりもイケメン俳優を観たいだけなのだ。母親もそうだろう。  「ああ、俺はいいよ。二人で行ってきて。っていうか本当に母さんと仲良くなったな」  「おかあさんが私に合わせてくれているのかもしれないけどね。でも優しいし、嫌味をいわないじゃない?だからすっごく安心しているよ。お姑さんだもんね、将来の」  「まぁ、そうだけどさ」  キョウスケは腕を組んでシンクにもたれかかりエイコに尊敬と関心のまなざしを送った。  キョウスケとエイコは付き合って3年。エイコはキョウスケの3つ下で今年で25歳になり、二人はすでに結婚をすることを決めていた。  両家の顔合わせはしていないがお互いの両親には会って挨拶をすませている。もちろん結婚する旨も伝えた。年内に籍を入れる予定ではある。   挨拶を機にエイコはキョウスケの母親とうまが合ったらしく、頻繁にやりとりをしている。  お互いの性格があったというのもあるだろうが、もともとエイコは誰に対しても社交的だ。嫌味もないし溌溂としている。それに礼儀正しくもあり、仕事も真面目にこなして甘えがない。細かいところだがエイコはすべてが満たされている子なのだ。  キョウスケの母親はどちらかといえば内気であまり友達が多いタイプではない。初対面の人にも積極的には話しかけたりしない。だがエイコの性格を気に入りだいぶ心を開いている。息子が驚いているくらいなのだから二人の関係はありがたくもあり、うれしいものだった。  「籍をいつ入れるか考えなきゃな。そろそろ」  「そうねぇ、はっきり決まってないのも気持ち悪いし。本当に近いうちに考えましょ。大安がやっぱりいいのかな」  「昔にのっとればそうだろうなぁ」  「やっぱそっか。あ、そういえばさ今度中途採用の人が入ってくるよね。知ってた?」  エイコは突然話題を変える。だがそれはいつものことだ。この前も天気の話をしていたかと思ったらいつの間にか今日の晩御飯の話になっていた。あちこち会話が流れてしまうところをキョウスケは楽しめる性格だった。  「ああ、うん。知ってるけど教育係誰がするんだろうな。中途でもつくだろ」  「噂だけどキョウスケに任せられるって聞いたよ」  「え?マジで?」  「マジで」  キョウスケは「面倒だなぁ」といいながらも実際はそこまで面倒とは思っておらず、適当にやればいいだろうという気持ちでいた。新人の教育もしたことがあったし、中途採用となれば礼儀やメールの打ち方などを一から教えなくてもいいだろう。日々の仕事内容を淡々と教えればいいだけだと高をくくっていた。  その時までは。  二人はそれから数分だけ世間話をしてから何食わぬ顔でオフィスに戻った。少しだけオフィスに入る時間をずらして。  先に戻ったエイコは仕事用の顔で隣の同僚から何か聞かれており、それは表情から内容は仕事のことだというのはわかった。キョウスケはデスクの上にある資料を見ながら「えっと、これを今日中にまとめるんだよな」と白々しくつぶやきながら頭を掻いた。口では仕事のことをつぶやいたが頭では違うことを考えていた。  籍を入れる日が決まれば、とりあえず上司に二人のことを報告してそれからエイコはどうなるだろう。仕事をやめるのだろうか。それとも続けるのだろうか。同じ部署に夫婦がいることはないからエイコが仕事を続けるならどちらかが異動になるだろう。  そういえばエイコからはその辺のことは何も聞いていない。それにお互いに一人暮らしだけど一緒に暮らすなら新しいアパートを探さなくてはならない。どちらかに転がり込むのもいいが、少し部屋が狭いように思う。  一度考え始めるとあれもこれもと様々なことが浮かんだ。よく考えれば決めていないことがまだまだ多い。話せていないことも多い。  さてさて、といい意味でこれからどうなるかわからないと思いながらキョウスケは訪れつつある幸せをかみしめ始めていた。  翌週に中途採用の新人がやってくるまでは。  二人が話していた新人は翌週の初めにやってきた。正確には中途採用の新人。年齢はキョウスケと同じ28歳の男性だった。  「アイジマケイトです。〇〇会社から来ました。よろしくお願いいたします」  優に180センチはあるだろう長身のその新人は清潔なグレーのスーツと紺のネクタイを身にまとい、丁寧な口調で挨拶をした。それだけなら普通に過ぎていくことだが、アイジマはわりと整った顔立ちをしているせいもあり一気に全員の好感を買った。女性社員はもちろん男性社員でさえほれぼれするようにアイジマを見ていた。  学校で言えばクラスに一人入るかっこいい子、女子がひそかに憧れを抱くタイプだとキョウスケは思った。  身長が高ければ目立つし顔も整っていれば取り巻きも自然と湧いただろうな、こういうタイプの子とは疎遠だったのでなんとなく不安になった。  エイコが言っていた噂は本当になりキョウスケが新人の教育係となったのだ。確かに同じ年で同じ性別なのはキョウスケだけだ。上司が指名してくるのも納得できたので異論はなかった。  挨拶が終わるとキョウスケ以外の社員は仕事に戻り、キョウスケはアイジマを席に案内するため近づいた。  「アイジマ君の教育係になった・・・」  上司がキョウスケのことを紹介しようとするととっさにアイジマが「サイトウキョウスケさん、ですよね」と言った。  上司はもちろんキョウスケも呆気にとられ一拍返事が遅れる。  「なんだ、知り合いだったのか?」  上司が驚いてそう聞くがキョウスケに身に覚えはなく「いえ、あの」と言おうとした。しかしまたもやアイジマが「はい、知り合いなんです」と間を置くことなく返事をし、キョウスケの発言は宙に浮く。  全く知らない人物が自分の名前を知っているということは気味が悪いことは言うまでもなく、それなのにどう反応したらいいのかわからなかった。  横からの視界ではアイジマの発言を聞いたエイコがひそかに驚いているのがわかる。反論したいが今はそんなことができるわけでもなく、キョウスケはあいまいな表情をするしかなかった。  こんな知り合いいただろうか。小学校でも中学校でも見かけたことはないはずだ。これだけ顔が整っているのだ、いくら友達ではないといえ忘れることはないと思うが。と自分の記憶を疑う。  そうしている間に上司に「じゃ、よろしく頼むよ」と言われ、「あ、はい」といつもより気が抜けた声で返事をしてアイジマをデスクに案内した。  ついてくるアイジマは終始笑顔だった。キョウスケはデスクに向かう数秒の間も記憶を探る。が、やはりアイジマのことを思い出すことはできなかった。  
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