花を踏んでは、

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 天保十三年。  夏、嵐の夜。  奥州白河藩江戸下屋敷沖田家に、念願の長男が誕生した。  急いで帰り部屋を開けると、白い床には、沖田家当主沖田勝次郎の妻・朔が横たわっていた。  その隣には、小さな、小さな赤ん坊がすやすやと寝息を立てている。 「ありがとう……」 「あなた……この子に、名前を付けてあげてください」  赤ん坊をそっと抱き上げると、止め処ない愛しさが込み上げた。  ぎゅっと握っている手は、とても小さく、ほかほかと暖かかった。  自然と、両眼から涙が伝い落ちた。 「……宗次郎……」  その言葉を聞くと朔は幸せそうに瞳を閉じ、そのまま、目覚めることは無かった。  いつまでも少女の様な、儚げで若い、美しい妻だった。  生まれつき身体が弱く、出産は危険だと、特に今回の子を産む時は命に関わるとさえ医者に言われていた。  何度も、子を流すように奨められ、父である勝次郎も、諦めかけていた。 「朔……すまない……。すまないが……子どもを流してくれ……!」  すると、朔は自分の腹に優しく触れながら、今まで見たことがないような強い目で、涙を流して答えた。 「あなた……この子は……この子は、もう、わたしの中で生きているのです。この子の人生は始まっているのです。それを……わたしの為に命を奪うなんて絶対にしたくはありません……! お願いします……あなた……この子を産ませてください……!」  妊娠中も数回、危ない時があった。  その時にも、苦しい息の中で、朔は子どもの無事だけを考えていた。 「わたしは……どうなってもいい……! この子だけは、助けてください!」  呼吸さえ苦しい中、何度も何度も、医者に訴え続けた。  子どもを宗次郎と名付けた時の笑顔……朔は、あの瞬間幸せだったのだ。  勝次郎が死んだ。  下級藩士の家族の生活は決して豊かだとは言えないが、いつでも優しく、酒に溺れるようなことは絶対に無く、家庭を一番に考え、大きな愛で包んでくれる人だった。  そんな男が、赤子生まれてから八年後に死んでしまった。
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