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美月みづきは不幸でもなければ、幸福でもない少女だった。 だが、一つだけ特別だといえることがあった。 それは真夏の日の夕方に虹が架かっているのを見たことがあるのだ。美月は誰にも言わずに秘密にしていた。唯一、その時に一緒にいた母は知っているが。 当然ながら、二人だけの内緒事になっていた。 「美月、今日も暑いわね」 母がそう話しかけてくる。 「うん。暑いよね」 美月も頷いた。母はふふと笑いながら彼女の頭を撫でた。まだ、幼い美月だが、今年で十歳になる。学年でいえば、小学四年生になっていた。母と父、四歳下の妹の四人家族だ。毎日、会社で残業が多く忙しい父と家事をてきぱきとこなす母。そして、一年生になりながらも甘えたがりの妹の葉月はづきと一緒に暮らしている。 「お母さん。前みたいに夕立の後で虹が見えたらいいのに。そう思うの」 「美月。ああいうことはそうおいそれと起こるものじゃないわ。何度もあったら、ありがたみがなくなってしまうからね。だから、一度でも見られたことを喜ばなきゃ」 母は苦笑いしながらそういった。美月は顔をしかめながらうつむいた。仕方ない子ねとまた、頭を撫でられたのであった。そんな夏のある日のことであった。あれから何度も季節は巡り、美月は少しずつ髪と背が伸びて、母と同じくらいにまで成長していた。今年で美月は高校一年生になっていた。十六歳になり、顔立ちもすっかり大人びている。妹の葉月も年を取っていて中学一年生になっていた。甘えたがりも影を潜めて、明るくしっかりとした少女に変わっている。 「…お姉ちゃん。今年もじいちゃん家に行ったら、碧あおい君と会うの?」 薄茶色の明るい瞳をきらきらとさせて葉月が尋ねてきた。その言葉に美月はぎくりとする。 「あんた、碧君のことをどこで知ったの。あんなに、内緒にしてたのに」 美月が目をいらぬ方向に向けながらいうと葉月はにやりと嫌な笑い方をした。 「だって、碧君ってすごく顔立ちがきれいじゃない。しかも、髪の毛の色が銀に近い感じでさ。目の色も黄色で琥珀色っていうのかな。そんな感じの男の子ってなかなかいないよ?」 「…葉月。それ、お父さんとお母さんにはいわないでよ。あたしがすごく怒られるから」 「何で?」 「だって、どこの誰ともわからない男の子とこっそり会ってるってばれたら。お父さんが許してくれそうにないもの」 なるほどと葉月は頷いた。確かにその通りだ。美月は遠方の秋田県に住む祖父の家に家族と年に一度は訪れていた。秋田県の西部に祖父のいる町は位置していて風光明媚で自然の多く残る土地である。そちらに行った時にたまたま、見つけた秘密の場所があった。葉月といとこの秋しか知らない。小さな祠と後ろには滝が流れていて夏の暑い日差しから逃れられる良い場所であった。そこを見つけたのは美月が小学三年生の時だった。一緒に遊んでいたいとこの秋とかくれんぼをしていて、迷い込んだ林の中を歩いて奥まで入った時にあったのが小さな祠であった。少し奥まった所には滝もあって涼しげできれいだ。ざあっと勢いよく流れる滝に近づくと水しぶきが顔や髪に当たる。滝壺も底が見えるくらいに透き通っていて見入ってしまう。そんな時だった。後ろからいきなり声をかけられる。 『待て。滝壺に近づくな』 自分と同じ年くらいの子供らしき声であった。振り向いてみたら、銀色にも見える灰色の髪と透き通るような琥珀の瞳をした男の子が白い着物といった出で立ちで佇んでいた。不思議な格好をした男の子に美月は目を丸くする。 『…どうして?すごく綺麗だから、のぞき込んでいただけだよ』 『この滝壺には水神みなかみがいる。もし、お前みたいな小さな子供が近づいたら魅入られるぞ。そしたら、この中に引きずり込まれる』 『怖いこというのね。でも、みなかみ様って誰のことなの?』 美月が首を傾げながら尋ねると男の子はため息をついた。 『…水神というのは水の神のことだ。この滝の前に祠があるだろう?』 『うん。あるね』 『その祠の中に祭ってあるんだ。だが、この滝に住んでいる水の神は龍でな。しかも、少し喧嘩っ早い。もし、お前が迂闊に近づいていたら、危なかったな』 男の子は子供らしからぬ厳しい表情で注意をしてくる。美月は体をぶるりと震わせながら、滝壺に視線を送った。 『そ、そうなの。だったら、近づかない方が良かったのね。わかった、ありがとう』 礼を言うと、男の子は微笑んだ。その笑顔はとても年相応に見えて、美月もつられて笑っていた。 『…礼はいい。まあ、俺が気がつくのが間に合って良かったよ。もし、間に合わなかったらどうしようかと冷や冷やものだった』 そういいながら、手を差し出してきた。白くてほっそりとした女の子のような手だった。美月もおそるおそる手を置く。冷たくて滑らかな手であった。だが、男の子は見かけによらず、強い力で引っ張ってくる。それに驚いたのであった。その後、美月は男の子に手を引いてもらいながら、林の中を歩いていった。 『…そういえば、名前を聞いていなかったな。俺は碧という。お前は?』 『…あたしは。美月っていうんだ。あおい君ていうの。綺麗な名前だね』 『そうかな。俺はあまり気に入っていない』 碧はほめたのにうれしそうではない。どうしたのだろうと思ったが。出口に近い所まで来たのに彼は気づくと指さした。 『ここをまっすぐ歩いていけば、林から出られる。これからはあの祠には近づくなよ。滝には水神である龍が住んでいるからな』 『そうなんだ。わかった、ありがとう』 美月は口調の割には親切な碧に礼を言って背中を向けた。出口を目指して歩いていく。それを碧は心配そうにしながら、見守っていたことを美月は気がついていなかった。あれから、早八年が経った。美月は夏休みになると必ず祖父の住む秋田県に家族と帰省していた。そのたびにあの林に行っては碧と会っていた。美月が妹の葉月やいとこの秋を連れて行って紹介したこともある。その時は碧も穏やかに笑いながら、自らも自己紹介していた。四人で林を探検して、滝や奥の方を彼に案内してもらったりもした。だが、それも美月が中学生になるまでの話だった。秋は美月よりも二つ年上で碧と遊べたのはほんの一、二年くらいの間であった。秋も美月が五年生になった年に中学に入り、遊び相手はしてくれたが友達と遊ぶ事が増えて疎遠になる。すると、自然と妹の葉月と二人で林に行くようになった。碧は何も言わなかった。ただ、美月にだけは『寂しくなるな』と呟いただけだったが。碧は会うたびに背も少しずつ伸びて顔立ちも大人びていた。美月より少し高いだけだったのに中学生になった辺りには背丈を追い越されていた。これには驚かされた。碧は美月が中学二年の夏頃に来た時にこう言ってきた事がある。 『妹の葉月も連れてくるのは遠慮してほしい』 そのようにいってきたのだ。当然ながら、美月は不思議に思う。何故かと問いかけたら、碧は林の中は神聖な領域だからだと答えた。そこに、葉月も連れてきたら水神の眠りを妨げる事になるとの事だった。美月だけで来てほしいと言われて、それからは一人で行くようになった。葉月はうらやましがったが碧の言うことに文句は口にしなかった。そして、今年の夏も美月は秋田県を訪れる予定であった。夏の強い日差しの中、緑が濃くなった山々に田園、青い空を目にして美月は深呼吸をする。横には麦わら帽子にワンピースといった出で立ちの葉月がいた。美月は薄い水色のシャツに黒のズボンを履いていて対照的な格好をしていた。 「…それにしたって暑いよね。お姉ちゃん、今年も行くんでしょ?」 「…うん。行くつもりだよ」 美月が頷くと葉月はため息をついた。 「いいよなあ。お姉ちゃんは碧君と会えて。あんな美形な男の子、そんなにいないのに。私、今年は会えるかなって楽しみにしてたんだけど」 「…仕方ないじゃない。碧君、あたしじゃないと姿を現してくれないんだから」 二人はそんな会話をしながら、祖父の家に向かう。畑には茄子やピーマン、トマトなどの夏野菜がなっている。それらを横目に葉月は姉の肩を軽く叩いた。 「まあ、もうあきらめるよ。碧君はお姉ちゃんが好きみたいだし。だから、姿を現してくれるんだろうね」 「…葉月。ごめんね」 美月は謝ったが葉月はいいよと首を横に振る。二人は碧の正体に薄々気がついていた。もしかしたら、彼こそがあそこの祠の主ではないかと思っている。そうでなければ、林の中でしか会えないというのはどう考えてもおかしいからだ。だから、滝に住むという水神様が人の姿に変化して自分たちに会ってくれていたのだろうと見当をつけている。普通の人にしては霊感があった葉月は碧に会ったその日に彼の正体に気がついていたらしい。そして、美月を碧が自分に仕える巫女にさせたがっていたことも感づいていた。だから、葉月は姉を一人にさせることに警戒していた。本当は姉を連れて行ってほしくない。そんな思いがあったから、葉月は美月が一人で碧に会いに行く事に危機感を持っている。美月も葉月が心配している事は知っていた。それでも、碧に会いに行く事はやめられない。葉月は複雑な思いを抱きながらも林にたどり着くと姉を見送った。 (碧様。どうか、お姉ちゃんを連れて行かないでください。私が代わりになりますから) ふとそう思ったが。何も返答はなかった。葉月は林の向こうを睨みつけながら、その場に佇んでいた。 「美月!来てくれたんだな」 美月が滝の近くまで来ると喜色満面にしながら碧がやってきた。身軽な動きで岩場を降りてくる。 「…碧君。久しぶりだね」 「いや、こちらこそ。今年はもう来ないかと思っていた。さすがに一年は長い」 そう言いながら、碧は美月のすぐ近くにまで来る。碧はすっかり去年よりも背が伸びて見上げないといけないくらいの身長差になっていた。心なしか髪も伸びていて背中の真ん中辺りまでの長さがある。 「碧君、去年よりも背が伸びたよね。大人っぽくなったかも」 「…そうか?あまり、自分ではわからないな」 美月が言うと碧は不思議そうにする。琥珀色の瞳は相変わらずだが目つきは昔よりも凛々しくなっていた。自分よりも大人に近づいているんだなとしみじみ思った。 「美月。それよりも今日は伝えたい事があるんだ。いいかな?」 「うん、いいよ」 頷くと碧は美月の手を握ってくる。八歳の時よりも大きくてがっちりとした手に成長したんだなと感慨に浸ってしまう。母か姉のような気持ちになっていたが真剣な顔をした碧の視線に我に返った。 「碧君?」 「…美月。今日こそは言うよ。俺は本当は人じゃない。この姿は仮の姿なんだ」 はっきりと言われて美月はやっぱりと思った。妹のいうとおりだった。 「そうなんだ。けど、葉月がいっていた。あなたはこの滝に住む水神様じゃないかって」 「…知っていたんだな。俺はあの時、まだ子供だった。美月がこの林の中に迷い込んできて正直、驚いた。ここは昔、女人禁制の地だったから。それを知らせたいがために人の姿になって忠告をしたんだが」 「そうだったの。ごめんなさい、後でおじいちゃんにこっぴどく叱られたんだ。水神様の祠には近づくなって。でも、どうしてこの林が女人禁制なんかになったのかな。訳を教えてもらえる?」 尋ねてみると碧は難しい顔になりながらも頷いた。 「わかった。俺が知っている事を話そう。この滝の主として教える」 そして、碧はゆっくりと昔の伝承を語り出した。 それは今から、五百年も昔の話だ。現代でいうと戦国時代というのだろうな。その時代にはこの林を抜けた先にある山の頂上に小さな城があった。城の名前までは知らんが主は名を津田豊秀つだとよひでといった。彼には三人の娘がいてその内の末娘はたいそう美しい姫だった。名を月子姫といって、皆からは月の姫様と呼ばれて親しまれていた。その月子姫は霊力も高くて予知ができたらしい。父の豊秀は彼女を姉や他の人々とは隔離して育てた。将来は山の麓にある滝の水神に仕える巫女にするためにな。月子姫もそのつもりでいた。だが、月子姫の母はそれをよく思っていなかった。彼女が十六になった年に父の豊秀に無断で勝手に婚約者を決めたんだ。相手になったのは隣の領地を治めていた大名の息子の北条信秀ほうじょうのぶひでだった。年は月子姫よりも三歳上の十九歳でな。体格は背が高く、ほっそりとした美しい青年だったらしい。顔立ちがよく、性格も明るく朗らかで姫の母君も気に入っていた。だから、娘の結婚相手にと選んだ。信秀もおとなしくて従順な月子姫を心配して巫女にならされるよりも自分と結婚した方が良いと彼女を説得したりもした。姫は毅然と断ったらしいが。豊秀も同調したから、母君はそのせいで怒ってしまってな。信秀に月子姫の悪口を吹き込んだんだ。 「姫は信秀殿を気に入らないといっている。しかも、愚かな男だと笑っていたと」 そのように言って信秀を挑発した。当然ながら、彼は馬鹿にされて黙っているような性格はしていなかった。ある日の夜に月子姫がこの林の奥にある滝に祈りを捧げに来ていると母君から教えられて、信秀は真偽を確かめに一人で赴いた。明かりを手に暗い林の中を進むと一人の女性の姿を見つけて信秀はすぐに、月子姫だと気がついたんだ。彼女は滝の近くの岩場に佇んで水神に祈りを捧げている最中だった。月明かりに照らされる彼女を見て信秀は一目で惹かれてしまう。そして、目的を思い出して姫に声をかけた。 『…あなたが月子姫ですか?』 そう呼びかけると姫は気づいたらしく、こちらを振り向いた。信秀の姿に姫は言葉を失った。まさか、神聖なこの場所に人がいるだなんてあり得なかったからだ。月子姫は踵を返して逃げようとした。だが、信秀は素早く彼女の前に先回りして行く手を阻んでしまう。逃げ場をなくした姫はおびえきった様子で彼を見上げる。あまりの美しさに信秀は見とれてしまった。 『…あの、こちらに何かご用ですか?』 怯えながらも姫は信秀に問いかけた。 『…ええ。そうです。姫、あなたの母君から聞きましたよ。私を愚かで気に入らない男だとおっしゃっていたとか。本当はどう思っておられるのか、真偽を確かめにこちらに参りました』 答えた信秀に月子姫は怪訝な顔つきをした。 『…母上があなたにそうおっしゃったのですか。あの、わたくしはあなたとは初対面のはずです。そんな愚かな男だと断ずる事などできるはずがありません』 姫は素直にそういった。信秀は初対面だと言われて少し、母君に疑念を抱いた。もしや、自分は嘘をつかれたのではないかとな。 『そうですか。姫は私をご存知ないのですね。改めて、名を申しましょう。私はあなたの許嫁で北条信秀と申します』 きっぱりと言うと信秀は月子姫に近づいた。彼女の手を取ってそのまま行こうとする。姫は拒んで逃げようとしたが叶わなかった。信秀は月子姫を我が物にしたいと思った。その後、姫を無理矢理に自分の物にした信秀はまたここで会おうと約束をした。姫は仕方なく従うしかなかった。それから、月子姫と信秀の薄氷の上を歩くような危うい逢瀬が続いた。月子姫は日に日にやつれてやせ細っていった。だが、信秀は姫がどんなに泣いてもう会わないでほしいと頼んでも聞かない。姫との逢瀬が続いて二ヶ月くらいは経っただろうか。さすがに、彼女の様子がおかしいと父の豊秀が気づいた。そして、姫にどうしたと尋ねてみたんだ。すると、月子姫は涙ながらに母が無理に用意した許嫁の男に関係を強要されていると明かした。その男は北条信秀だと告げるとたちまち、豊秀は怒り狂った。姫を巫女として大事に育ててきたというのに、妻でもある母君が影で裏切っていたんだ。それに気づいた豊秀は姫に信秀とはもう会わないように言った。姫も頷いたが信秀は素直に従わなかった。母君も巫女にならせるなら、どこかに嫁がせた方がましだと言い募った。信秀に姫とは会わないでほしいと書状を送り、母君にも離縁を申し渡して豊秀は対処をした。だが、運が悪いことに信秀と父君は婚約を白紙にされたということに腹を立てた。そして、北条氏と津田氏との戦いになる。月子姫と信秀は敵対する関係になってしまった。やがて、戦いは集結したが姫はこのことをひどく悲しんで一人で林の滝に向かい、自身の持っていた懐剣で喉を突いて自害したんだ。滝の祠の側でな。姫が自害した事を信秀は聞いて心を痛めた。彼は自分のしでかした事をひどく悔やんで出家して僧になったらしい。月子姫の菩提を弔って生涯をこの村で過ごしたそうだ。だが、村人たちは姫の一件を聞いて滝に近寄らなくなった。それ以来、村人たちはこの滝を月の滝と呼ぶようになった。姫は亡くなった後、龍神になってこの滝壺に住むようになったと言い伝えるようになってな。そして、姫は水神として祭られている。ここが女人禁制になったのは姫が女性が滝に近づくのを嫌がるからだと言われているが。実際は姫のように自害する女性が再び現れないように戒めるためだ。俺はそのように思う。そして、今に至るというわけだ。長い話を終えて、碧は一端、口を閉ざした。美月は滝にまつわる悲しい伝説に胸が痛んだ。まさか、そんな謂われがあったとは思いもよらなかった。 「…なんだか、悲しい話ね。月子姫がかわいそう」 「そうだな。俺が言いたかったのは月子姫の事もそうだが。この滝の水神は姫ではないということも付け加えておきたいんだ」 「え。それはどういうこと?」 美月が目を見開くと碧は真剣なまなざしでこう言った。 「…本当のこの滝の主は俺なんだ。碧というのは俺が人になる時の名前だが」 「ええっ?碧君の名前は本名じゃないの」 「そうだ。俺の名は碧翠へきすいという。実名を教えた以上はもう、美月に嘘はつけない。だから、月子姫の事を明かした」 美月は混乱してしまって声を出せない。碧もとい、碧翠は美月に笑いかけた。 「…だが、もう時間切れだな。話を聞いてくれてありがとう。俺は天へ昇らなければいけない。一回、父上の元へ戻って修行をし直さないと」 「…そう。じゃあ、お別れだね。あの、こちらこそ今までありがとう。さようなら。元気でね」 美月は空を見上げる碧翠に手を振って踵を返そうとした。だが、彼に呼び止められる。 「待ってくれ。美月、別れる前にやらなければならないことがある」 美月は振り向いた。碧翠は美月に大股で近づくと彼女の腕を掴んだ。そして、強い力で引っ張る。気がつけば、美月は碧翠の腕の中にいた。 「…美月。また、来年も来てくれ。しばらくは会えなくなるけど。遊びに来てくれて楽しかった。とりあえず、来年の夏には戻ってくるようにするから」 「そ、そう。あたしも来年も再来年も来るよ。結婚して子供が生まれたら、見せにくるから」 「…結婚か。そうだな、美月の子だったら、かわいいだろうな」 微妙そうな口調の碧翠だったが。すぐに、美月を放した。 「じゃあ、美月。俺はもう行くから。さようなら」 「うん。碧君、バイバイ」 美月は手を振って別れを告げた。碧翠はまばゆい光を放ちながら、銀色に輝く龍に変わった。目は美しい琥珀色で美月は彼だとすぐにわかる。碧翠は名残惜しげに美月を一瞥するとすぐに体をくねらせて空へと舞い上がった。びゅうと強い風が吹き、美月の髪を乱した。目を閉じるが風はやまない。 『…またな、美月』 頭の中に直接響くような声で再び別れを告げられる。瞼を開くとすでに碧翠はいなかった。美月は涙を目に浮かべながらも滝に背を向けて歩き出した。その後、林を出ると天気雨が降り始めた。空は夕暮れ特有の色に変わっていて美月はいつの間にか時間が経っていた事に気づいた。ゆっくりと祖父の家に続く道を歩く。雨はパラパラと降っていたが、すぐに止んだ。上を見上げるとオレンジとピンクに染まった空と雲の中を七色の虹が架かっていた。幼い頃に一度だけ見たあの夕暮れ空の虹が再び、現れたのだ。それに感激した美月はそっと呟いた。 「…碧翠が架けてくれたのかな。ありがとう」 風が吹いて美月に答えたのであった。虹はすぐに消えず、美月が祖父の家にたどり着くまで空に架かっていたのであった。終わり
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