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あなたを嫌いな理由
「あなたを嫌いな理由を教えてほしい、と」
「そうです」
依頼人の男はうなずき、そのまま黙っている。圧倒的に説明が足りないことは、私が彼を嫌いになる第一の理由になるかもしれなかった。
「詳細な事情をご説明いただけますか」
「これは失礼しました。確かにそうですね」
依頼人は咳払いした。
「一昨日の夜です。私が仕事から帰ってくると、ダイニングテーブルの上に一枚の紙が置いてありました。見ると、『みんなあなたのことが嫌い』とだけ書かれていたのです」
「……それで?」
「以上です」
「……その紙は誰が置いたんですか?」
「多分妻です。いや、元妻かな」
「元?」
「えぇ、妻も一昨日の夜から帰ってきてません。というか、その紙と一緒に、すっかり記載を終えた離婚届が置いてあったんですよ」
「届け出たんですか?」
私は、驚いた顔を見せたつもりだったが、男は特に反応しなかった。強がってそういうことを言っているのか、と男を注視してみたが、やはり動揺した様子はない。
「もちろん。翌日の朝一で役場に行きまして、受理されました。こういうのをだらだら引き延ばすのは嫌いなんです」
「そんな素振りはあったんですか? その、離婚を考えているとかそういう」
「妻ですか? いや、なかったですね、突然です」
「理由は何だと思われますか?」
「知りません」
「知りたいとは思いませんか? 一般的には会ったり電話したり、何らかの手段で何とか連絡を取るものなのかな、と思うんですが」
「相手は離婚届出してきてるんですよ? 意思表示は明確なわけであって、理由を確認してどうにかなるものとは思いません。そんなことより」
「そんなことより?」
「みんな私のことを嫌い、というのが解せんのですっ」
男の口から唾が飛んだ。眼は大きく見開いている。
「解せませんか……。ご自身では嫌われる要素は無い、と」
「ありませんね」
「では、みんな、というのも誰のことを指しているかはわからない?」
「人に恨まれるようなことは何一つした覚えが無いからですねぇ」
そうですか? と疑問を呈しそうになるのを慌てて抑えた。
「そうですか……。なかなかそう言い切る人も珍しいと思いますが……。では、本当に何も嫌われるようなことをしていないか、あなたの一日の行動を聞かせてもらえませんか。例えば昨日」
「朝起きてから夜寝るまで、ですか」
「はい」
「そうですね……。朝起きて……あの、家出るまでは省略していいですか?」
「できれば省略せずに」
男は露骨に眉をひそめた。
「えぇ、面倒くさいな。そうですね、朝起きて、まず歯磨きしながらテレビでニュースを見ますよね。もちろんアナウンサーやコメンテーターのやることなすことに指摘をしていきます」
「ん、ん、どういうことですか?」
「何がですか?」
「アナウンサーへの指摘とは?」
「あぁ、アナウンサーの原稿の読み方とかコメンテーターのコメントとかをチェックして、つっかえたり間違えたり的外れなことを言ってたりしたのを見つけたらメモしていって、随時テレビ局へ電話するんですよ、やりません?」
男が、自分の口舌に酔いながら、電話の相手をやり込めていくさまが目に浮かんだ。
「……電話まではやらないですね。毎日ですか?」
「毎日ですね。朝はなかなか時間が取れませんが。朝食を終えて歯磨きもしたら電車で出勤します」
「駅まではバスで?」
「いや、徒歩です。五分ぐらいですから。その途中でも、ごみ捨てがきちんとできていなかったり生垣が伸びすぎて歩道にはみ出していたりしたら、その場で注意しますね」
「注意?」
「はい。呼び鈴押して家の人を呼び出して、ちょちょちょい、と」
「……家の人もびっくりするんじゃないですか?」
「そうですね、迷惑そうにはされますし、殴られたことも何回かあります」
「でしょうね」
「それでも、気づいたことはその場で指摘することが大切だと思うんです」
不動産屋には、こういう情報を公開してほしいな、とぼんやり考えた。早朝に指摘訪問あり、とか。
「……ということは電車の中でも?」
「当然です。音漏れ、化粧、濡れた傘の雫、体臭、香水臭、柔軟剤臭、優先席に座る優先されない人、痴漢、電車の中ではもう大忙しです」
「……時間帯からすると満員電車ですよね。どうやって、こう、指摘するんですか?」
「そうですね、そこは私も悩むところではあるんですが、やはり声を上げることですね。これは、と思う光景を見つけたら、すぐに言います」
「……ざわざわしますね、心が」
「そうですね、やはり最初は突然私が大声を上げたかのように聞こえると思うので、みなさんざわざわと訝しんでおられますが、私の発言内容を聞いていただければ、指摘しなければいけない内容であることは分かっていただけていると思います」
こんな通勤電車に乗っていたら、始業時には消耗してしまう。
「……なるほど。今どのようなお仕事をされているんですか?」
「監査です。会計だけではなく、業務全般が手順通り行われているかどうかを確認しています」
「……天職ですね」
「はい、大変良い評価を受けている、と自負しております」
嬉々として人のミスを、指突き付けて糾弾している男の様子を想像して、胸がきゅうっと差し込むように痛んだ。
「……これはあくまで私の推測に過ぎないのですが、上司や同僚の方からこういうことを言われたことはありませんか。『君の指摘内容に間違いはないが、もう少し言い方に気を付けてみてはどうだろう』」
「驚きましたね。あります。ほぼ同じことを言われたことがあります何回も」
「どう思われました?」
「何を言っているのかが良くわかりませんでしたし、今でもわかっていません」
上司も努力したのだろうが、その尽力は報われなかったようだ。
「……なるほど。職場から家に帰るまでは、家から職場に行くときと同じような感じですかね」
「そうですね。夜は酔っ払いも増えますからね、大変です」
「お家ではいかがでしょう。ご離婚される前、奥様と住まわれていたときは」
「やることは一緒です。家の中で何か物事がうまくいっていない、例えば掃除が済んでいない、洗濯が終わっていない、洗濯ものが取り込まれていない、洋服がたたまれていない、食事の味付けを失敗した、いろいろありますが、気付いたらすぐその場で言うようにしています」
「……どんな反応があったか覚えておられます?」
「最初はね、びっくりしたみたいで、いろいろ反応がありました。実家ではこうだった、とか、後でやろうと思ってた、とかね。子供じゃないんだから」
わざとらしくため息をついたり、困った顔をしながら責め立てたのだろう。
「……結構、注意したりすることは多かったんですか」
「多かったですね。本当にどんな教育を受けてきたのかな、って思ったし、ご両親にも申し上げたことも何度かありますよ。それについても一つ一つ、毎度毎度注意をしていったら、だんだん素直に従うようになってきました」
「……ご両親にはどんなことを話されたんですか」
「いや、そのままです。どういう教育されてきたんですか、まったく人としての常識がないですよ、でも僕に任せていただけたら大丈夫です、という感じですね」
「一回だけですか?」
「いや、何回もですね。最近はまったく連絡が付かなくなりましたが」
「なぜだと思われますか?」
「さあ。理解不能です」
「……なるほど、よくわかりました」
「わかっていただけましたか?」
「はい。私の印象を申し上げますと、あなたのすべての言動は、あなたに関わるすべての人の心証を害するもので、あなたが皆に嫌われているのは間違いないと思います」
「……今、なんと?」
「あぁ、念のために申しあげておきますと、あなたの指摘している内容が間違っているのではないですよ。濃すぎる正しさは毒にもなる、ということです」
「……」
「あなたからの依頼事項はこれで完了します。あと、私にはもう一人依頼人がおりまして。あなたの奥様、いや、元奥様です」
「……はぁ?」
「奥様からの依頼は、離婚届とその紙、『みんなあなたのことが嫌い』の紙をあなたの机の上に置いてくることが一つ」
「……一つ?」
「もう一つは、『みんなあなたのことが嫌い』と言われたあなたが、自分の言動を反省するかどうかを確認してくることでした」
「……」
「少しでも、悪かったな、くらいの言葉でも聞くことができたら、もう一度夫婦関係を再構築することもやぶさかではない、ということでしたが、何とあなた、理由や事情を探ることなく即座に離婚届を役場に届け出たとのことで、さすがにびっくりしました」
「……」
「一応、あなたに自分の行動を振り返ってみてもいただきましたが、特に自責の念も感じられなかったので、これで依頼された事項は完了したと判断し、その旨を依頼主に報告いたします」
「……」
「それでは失礼します。またのご用命をお待ちしております」
男はうなだれたまま、顔を上げなかった。私はドアを閉めかけて、また開いた。
「もう一つだけ」
「……」
「あなたの性格はどうあれ、あなたの問題を発見する能力というか、問題を指摘する気力というか、反感を感じ取らない胆力というか、ある意味常人を超えるものがあると思うんですよ。近いうちに、そのお力を貸してもらうようお願いをするかもしれませんが、そのときはどうぞよろしくお願いいたします」
男は何も答えなかった。私は、今度こそ、ゆっくりとドアを閉めていった。
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