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私は、いま、穴の底にいる。
いつもどおりに、いつも通っている帰り道を歩いていたら、スポッと穴に落ちてしまったのだ。
穴の底から上を見上げると、周囲の暗闇から、まあるく切り取られた夜空が、満月とともにぽっかりとそこに浮かんでいた。
今夜はよく晴れていて、星がきれいに見える。
風も吹いていないのだろう、雲ひとつかかっていない夜空は、まるで固定されているみたいに、月も星もその他のものも変化なく、そこで静かに黙ったまま輝いている。
ずっと夜空を見上げていたら首が痛くなってきたので、私はかるくため息をつくと、視線を正面へと戻した。
だが、そこには、ただ闇がひろがっているだけだ。
私が落ちてきた、あの、天井で輝く切り取られた夜空以外は、足元も左右すべて、がっつりとした真の闇だった。
さて、どうしようか…。
かつて自分が落ちてきた天井のあの丸穴から、またもとの世界へ帰還できればそれに越したことはないのだが、なにしろ、ちょっと手をのばしたところで届くわけもなかった。
目測でも、あの丸穴の縁までは、底から何メートルもあるように思える。
底に立ったまま、丸い夜空を見上げている私の身長は160センチ、そこからつま先立ちして、ひたすら手を指先まで必死にのばしたところで、まったく惜しくもならないほど、まだまだ高さがあった。
そもそも、この穴にスポッと落ちてしまったときも、底に到着するまで、しゅーっと、ずいぶん長いこと落下していた気がする。
だめだ、どう足掻いても、もとの世界に戻ることはできない。
生まれつき私は諦めが早い人間であったので、やれやれと、もう無駄に手を伸ばすことを止めた。
たどり着くことのできない世界を求めたところで、それはただ、労力の無駄なのだ。
代わりに腕を組むと、それにしても…と、私は考える。
いったい私が落ちたこの穴はなんなのだろう?
マンホールの穴?
しかしあの夜空に浮かぶ丸が、マンホールの穴の輪郭であったのなら、落ちたその先は下水道につながっているものなんじゃないだろうか?
底では水がジャージャーと川のように流れていて、地上から落ちてきたものを、しかるべき場所へ流してくれるものではないのか?
けれども、いま私がいる穴の底は、シンと静かで水の流れる音すらしない。
どこまでも乾いた静寂が、暗闇とともに広がっているだけだった。
それならばこの穴は、枯れた井戸の残骸だろうか?
もしそうだとしたら、夜空の丸い輪郭の理由も、この、忘れ去られた闇の果てみたいに静まり返った冷たい空気も、なるほどと納得できるというものだ。
しかし、しかしだ、私がこの穴にスポッと落ちてしまったのは、いつも使っている…それこそ十何年ほぼ毎日歩き続けている、都会のなかの歩道なのである、これまでに私はこの歩道の周囲で、井戸らしきものなど見たことがない。
さらに言えば、それはきちんと舗装された道で、ガードレールのすぐ横では車がブンブン走っているし、歩行者数も多い。
そんな道に、使われなくなった枯れ井戸なんかが放置されているわけないのだ。
だったら、この穴はいったいなんだ?
なにせ、いつもどおりにその道を歩いていたら、何の前ぶりもなく、それこそ掃除機に吸い込まれるように、スポッと落ちてしまったのだから、訳がわからない。
ひょっとするとこの穴は、たまたま地中から顔を出した大モグラが、さて久しぶりに口先だけを地上へと出して、深呼吸でもしてみるかと、大きく口を開けた、その中なのかもしれない。
だとしたら、私が今いる場所は大モグラの胃袋の底なのだろうか?
まったく、いつだって人生というものは、ある日突然不幸がやってくるものなのだ。
突然の幸運はやってくることがないのに。
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